第二回目。
前回の、「星を読む」をテキストで実践してみましょう!

さすがにいきなりフランス語のテキストを使うわけにもいかないので、(この講義は新一年生対象です)、中原中也の「骨」の冒頭だけ使います。

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ
ヌツクと出た、骨の尖。
(中原中也、「骨」)


とりあえず、ざっと眺めて(一読して)、どんな印象を受けるでしょうか。
重い?軽い?
楽しい?悲しい?

「重い」と「悲しい」に票が集まりましたが、「軽い」と「楽しい」にも手が上がりました
どちらが正しい、ということはありません。それぞれが自分で感じたことなんですから。でも、両極に分かれたのにはなにか理由があるのではないでしょうか。それを考えてみましょう。

まず冒頭に「骨」という言葉が出てきますね。「しらじらと」としています。白骨死体でしょうか。しかし、「生きてゐた時の苦労にみちた」「あのけがらはしい肉を破つて」、という言葉もあります。しらじらした骨と、けがらわしい肉が同時に描かれています。骨は死のメタファー、肉は生のメタファーと考えることができます。ですが、肉は明らかに否定的なニュアンスで語られていますね。ここから、生は否定的なイメージでとらえているように感じられます。生死がテーマだと考えると、重そうですね。

ですが、冒頭の「ほらほら」とか、4行目「しらじら」は、重なってリズムを生み出す言葉です。これを語っている「僕」は、自分の骨を「これが」と指さしているようです。自分が死んでいるのだとしたら、悲しいですが、わざと楽しそうなリズムを作って深刻な感じを出さないようにしているのでしょうか。最後の行の「ヌツク」という表現も、少し軽快な印象です。「軽い」という印象は、ここからきているかもしれません。

したがって、重いテーマを軽く見せようとしている、逆に、軽いと見せかけて重いテーマを突き付けようとしている、悲しいことを楽しそうに語っている、いろいろな可能性が考えられます。どれが正解ということはありません。

これはほんの一例で、ほかにもいろいろ考えることは可能です。
これを語っている「僕」はどこから語っているのでしょうか。「ほらほら、これが」と「僕の(自分の)骨」を指させるとしたら、この語り手は幽霊なのでしょうか。
「肉を破って」突き出ている骨は、すでに「しらじらと雨に洗はれ」ているのだとしたら、この骨がむき出しになったのは結構前のことかもしれません。このように、状況を映像的に読み解くこともできますね。

ただ眺めた時に受けた印象が生まれた理由を、実際に用いられている言葉の関係性や繋がりの中に求めてゆく、これが、「読む」ということなんですね。

(4月24日講義録)

「分析しなさい!」と言われるとどこから手を付けていいかわからなくなったりしますが、印象を足掛かりに、その理由を文中に求めることだ、と説明されるととても納得がいきます。
研究に詰まったら、ここに立ち返ればいいんだな、とちょっと安心しました。

(この詩に関しても解釈はいろいろあるようです。今回は、冒頭一連だけを素材に、読むことを体験してみよう、という講義だったので、どのような解釈が一般的に成されているのか、どのような研究が成されてきたのか、などは端折っていました。)