何もしないとき | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

疲れて何もできない。全く違った環境に置かれているので、やるべきことができない。そんなときは、何もしなくていいんです。それが正解なんです。何もしない時間というのは、人間に、生物に必要なものです。それは最も大切なもの、生きる目的でもあるかもしれません。

何もしないとき、頭の中はどうなっているでしょうか。色々なことを考えています。今の無風状態が終わったら何をすべきか、その計画を立てていたり、過去の出来事を反省したりしています。でも、貴重な時間をそんなつまらないことに費やすのはもったいない。何もないこの貴重な時間は、自分の人生を変えるような大切なエネルギーを生み出すことに費やすべきです。

それは何だと思いますか。神を信じることです。何もない時間、神を信じることだけ考えるのです。頭の中には「神を信じる」という5文字しかありません。

神を信じることと同時に頭に浮かぶものといえば、祈りです。お金が儲かりますように。あの人の病気が治りますように。世界が平和になりますように。そういうお祈りを神に向かってするのは、自然なことです。でも、人間の考えや、意向はえてして浅はかなもので、病気が治ったあの人が、バイクに乗り出して事故に会うことまで考えません。だから、本当は、「あの人の病気が治って、バイクの事故に会いませんように。」と祈らなければならないのです。そうすると際限なく長いお祈りになることが考えられます。「あの人が幸せになりますように。」と祈ればいいのかというと、その幸せの陰で犠牲になる人がいるかもしれません。幸せというのは平凡でつまらないものなのかもしれません。少しは危険がないと、本当の幸せにたどり着けないのかもしれません。だから今経験している危険や、苦労は幸せの始まりなのかもしれないのです。

人間の考えには限界があります。すべてを神に託したらどうでしょう。神のなすこと、なさないことをすべて受け入れ、信じてみたらどうでしょう。ある特定の時間や物や人の損得を望むのではなく、全宇宙の最も良いバランスを知っている神を信じるのです。神が私の意向を超えて、私のために、同時に全宇宙のために最も良い環境を与えてくれます。

信仰というのは、誰かを誘ったり、どこかへ行ってお祈りしたり、儀式に参加したり、文言を唱えたりすることではありません。信仰とは神を信じることです。それ以下でも、それ以上でもありません。いつ、どこにいて、どんな状態でも、信仰は可能なのです。なぜなら、神はここにいて、私は今神を信じることができるからです。

神は触ったり、見たり、感じたりすることができません。そんなことができたらいつでもここにいるのですから、うるさくて、めんどくさくて、厄介です。神はいないのです。神というのはただの言葉で、私たちの頭の中にあるだけです。数学的な面積のない点が、考えることはできても、実際には見えないのと同じです。愛には形がないけど、愛を信じるというのと同じです。その形のない愛が、世界を救ったりするのですから、形のない物でも信じる価値は十分あると思います。神も存在しませんが、信じることができます。信じたとき、実存する何よりも強力に自分に生命力を与えてくれるのです。


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