「北の国から」倉本聰さんインタビュー記事『震災後”絆”と騒いだくせに人々は記憶を風化させている』 | マサーヤンのブログ

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2015年、新年が明けました。ご挨拶がすっかり遅くなってしまいました…(汗)、あけましておめでとうございます。

さて年末は、須野町の区長さんであり、今住んでいる家の大家さんでもある濱田さんの家(隣町の新鹿という町にあります)で、餅つきをさせてもらいました。息子さん、娘さん達が帰省中で、みんなで楽しくお餅をつきました。昔ながらのやり方の杵と臼でついた餅はほんとに美味しかったです。

そして元旦と二日は、おせち料理を食べながらコタツに入り、ずっとDVDを観るという、正月ならではのゆったりとした時間を過ごさせてもらいました。
むかしから大ファンであるドラマ「北の国から」が、なぜか年始のこの時期にどうしても観たくなり、ツタヤに借りに行ったのでした。
一昨年の夏に、リヤカーで北海道を回った時に、「北の国から」の舞台である富良野も歩き、ドラマの中に出てくるロケ地なども実際に自分の足で歩き見てきたので、その後DVDであらためて観る「北の国から」は感無量でした(笑)

リヤカー旅の時、富良野にある「北の国から資料館」にも入り、実際にドラマの中で五郎さんや蛍などが着ていた衣装なども展示してあり、とても感動した覚えがありますが(笑)、今回DVDを観終わった後、その時の資料館の入り口のパネルに書かれてあった言葉をあらためて思い出しました。

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『気がつけば今、五郎の生き方』
「北の国から」の放送が始まった1981年は日本がバブルを迎えるもっと前。
文明に向かい、どんどん変わってゆく日本に対しみんなが舞い上がって受け入れてきたことは確かです。あれから30年。ようやく今、日本が「おかしい」ことに世の中が気付き始めています。
そんな中にあって、便利さに流されない五郎の生き方は文明に対抗する日本人の座標軸だったのではないでしょうか。

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そしてタイミング良く、家に置いてあったスーパーのイオンから送られてくるMOMという冊子があるんですが、その中に北の国からの脚本家の倉本聰さんのインタビュー記者が載っていました。
これが本当に素晴らしい記事内容だったので、以下に転載させてもらおうと思います。(これは素晴らしい…という箇所を勝手に僕の判断で太字にしています)
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「震災後”絆”と騒いだくせに、人々は記憶を風化させてしまっている」


富良野への移住で仕事への姿勢が激変。

1981年の放送開始以来、日本中を感動させてきた不朽の名作『北の国から』。バブル景気に向かっていた時代と逆光する、農村を舞台にした素朴な人間ドラマだったにもかかわらず、視聴率はぐんぐん伸び、多くの人の心をわしづかみにする国民的ドラマへと成長した。
生まれも育ちも東京の脚本家、倉本聰さんは、それまでもシナリオライターとして数々の作品を送り出してきたヒットメーカーだった。ところが42歳で北海道・富良野に移住したことが、脚本家としての姿勢を激変させる転換点となったと語る。
「戦争を経験した僕からすると、戦後、あまりにも日本が豊かになってしまったことに不安を感じていたんです。もう少し身の丈に合った暮らしをしたいと思い、39歳で札幌に移住することに。
ただ札幌という街はプチ東京みたいなもので、飲ん兵衛の僕にとっては肝臓に悪いんです(笑)。
どこかいい所はないかと探し回っている時に、飲み屋で隣に座った人から勧められたのが、富良野。
早速翌日に案内してもらうことになりました。朝7時に札幌を出て富良野に到着したのが10時ごろ。11時には永住を決めていましたね」




生きていくために必要なのはお金ではなく、絞り出す知恵や想像力。

ちょうどそのころ、倉本さんは歌手の北島三郎さんに志願して、1週間付き人をさせてもらうことに。
「なぜサブちゃんは人気があるのか、その謎を解くために真冬の函館から青森まで付いて回りました。舞台と客席とのやりとりを見ていると、サブちゃんはお客さんの学歴、貧富といったことにはまるで興味がないんです。観客をただ楽しませるために、裸でぶつかっていく。その時、『ああ、俺は間違っていた』と思いましたね。それまで僕が台本を書いていたのは、プロデューサーや俳優といった、テレビ業界の人に向けて。テレビの前にいる視聴者のことなんて考えていなかったんです。いかに上から目線でいたかを気付かされましたね」
 名作『北の国から』の誕生の裏側には、倉本さん自身の物を書く姿勢や目線の変化があった。一方で、慣れない富良野での暮らしは、「自分にできることの少なさ」を痛感する連続でもあったそうだ。
「うんとデカい岩が林道にあったので、近所の農家の青年に『あんただったらどうする?』と聞いたんです。するとスコップを持ってきて周りを少しずつ丹念に露出させながら、『1日3センチくらいは動くんじゃない?10日もあれば30センチくらい動くべさ』って言うわけです。この言葉には、ショックを通り過ぎて感動しちゃいましたね。都会の感覚だといつかじゃなく、すぐ動いてくれないと気に入らないでしょう。自分で動かすのが無理なら誰に頼んだらいいか、いくら払えばいいかという思考になってしまう。その考え方が、一種の敗北なのだと気付かされました。都会の暮らしはできないことだけでなく、できることすらも面倒くさがるから筋肉が衰えていく。そうすると高い金を払ってジムへ行き、何の生産性もないのに重い物を上げたり、どこにも行き着かない自転車をこいだり、非常に不可思議な行動にでるわけです。この矛盾に人間の愚かさを痛感しましたね」




自給自足の生活で人間教育をたたき込む。


1984年から脚本家や俳優を養成する私塾「富良野塾」を主宰し、2010年に閉塾するまで約350人の若者たちを指導してきた倉本さん。
塾生たちは2年間自給自足の共同生活を送りながら、俳優、脚本家になる以前に「人間教育」をたたき込まれる。
「私が何を教えたというよりも、自給自足の生活をしていれば否応なく『生きる』ことの本質がわかってくるんです。塾生たちに生活必需品を10個挙げさせて集計したところ、1位が水、2位がナイフ、3位が火で4位が食べ物でした。それをテレビのプロデューサーに話したら非常に面白がってくれたんで、今度は渋谷の若者たちに同じ質問をしたんです。すると1位がお金、2位が携帯電話、3位がテレビで4位が車でした。物の考え方が、全然違うんですよね。野外で必死にサバイバル的な生活をしていると、お札というのは火をつけるかお尻を拭くかしか用途がない(笑)。実際に僕は、火がつかないときに千円札を燃やしたことがあります。生活に重要なのは偏差値教育で詰め込まれた知識じゃなく、生きるために絞る知恵。スーパーに並んでいる物をただ食べるのではなく、実際に泥だらけになって作ることから食べ物を想像するべきなんです。今は高校や大学に行くことが当たり前になっているけれど、頭でっかちな学生ばかり育つなら、2~3年農村に放り込む『懲農制』を作るべきだと思っています」
 他にも富良野塾では24時間電気もガソリンも使用しない『原始の日』をもうけ、生きている鶏を塾生たちに絞めて調理させるなど、数々の「荒治療」を経験させたそうだ。
「おかげで夫婦だけでお産に挑んだ、たくましい女の子もいました」と、倉本さんは目を細めて笑った。




風化が進む今こそ福島に寄り添いたい。


そんな倉本さんの薫陶を受けた富良野塾OBたちは、現在、プロの演劇集団「富良野GROUP」として活動している。来年1月から、舞台劇『夜想曲ーノクターン』を、全国各地で公演する予定だ。劇は、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故で甚大な被害を受けた福島が舞台。倉本さんは「微力ながら少しでも福島に寄り添い、風化に対抗する一石を投じたい」と脚本を書き下ろし、演出も行った。
「原発問題に対する僕の意見は、もちろん、反対です。でもそれ以前に、あれだけ、絆と騒いだくせに、都会の人たちが記憶を風化させてしまっていることが問題だと思うんです。ある映像で、海岸林が全部なぎ倒されて流されたのに、4本のタブノキだけが根っこがむき出しのまま残っているのを見たんです。網みたいに根っこで支え合っているのを見て、絆という言葉はここから来たんじゃないかと思いましたね。でも今では根っこがブチブチと分断されて弱くなり、一人一人、孤独になっているような気がしています」
 昨年8月に富良野で行われた初演後も、何度も福島に足を運んで取材を重ね、台本を改稿してきたという倉本さん。
「家族を守るために勤務する病院を離れざるを得なかった看護師さんや、津波の写真をカメラに収めるという使命よりも、多くの人の命を助けることを選択し亡くなった新聞記者など、いろんな人がさまざまな苦しみを味わっている。そういう人たちの苦悩や悲劇な、震災後3年以上たって風化が進んでいる今だからこそ、目を向ける必要があると思っています。当事者の人たちの現状は僕らの想像以上のものですが、少なくともそこに寄り添うことはできるはずですから
 富良野や福島で見て、聞いて、知り得た知恵を「生きる知恵」「風化させない知恵」として表現し続ける倉本さん。私たちも経験や情報から得たその知恵を、生きるための知恵に変え、しっかりとアウトプットしていく必要があるのかもしれない。