武蔵寺 藤まつり | OH!江戸パパ

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本日は二日市駅より徒歩30分程の武蔵寺に行きました。駅より往復でウォーキングに丁度よい距離です。お寺の縁起によりますと、初代大宰帥の藤原虎麻呂の645年開基、806年伝教大師最澄の開山です。

 

 

長者の藤

武蔵寺縁起によると、同寺の創建者と伝えられる藤原虎麿が「堂塔の盛衰は、この藤の栄枯にあらん」と誓って植えたことから「長者の藤」といわれ、樹齢は700年以上とされています。
 

 

 

 

武蔵寺、山門へ続く参道です、この時期は車は当然神社前の駐車場は満杯で近くの天拝山自然公園の駐車場も満杯でした。参道より左に行くと天拝山登山道で257mの低山ながら展望台もあり、見晴らしは抜群に良いです。この付近も菅原道真の伝承があります。道真公は武蔵寺に参り、滝で身を清めて、天拝山(当時は天判山)に登り天に無実を訴えました。
 

 

 

御本尊の薬師瑠璃光如来は椿の一木造りです。藤原虎麻呂の夢枕に薬師如来と十二神将が現れ椿の大樹で仏を刻み御仏の教えを信じ広めていくよう告げられました。二日市温泉も薬師様の霊夢で発見されたと言われています。

 

 

藤原虎麻呂
博多の湯に紙本著色武蔵寺縁起を写した壁画があります。また天拝山自然公園にも写した陶板があります。
(第一幅)武蔵寺境内の様子

(第二幅)虎麿(とらまろ)が霊夢によって大椿で薬師如来を刻み、それが武蔵寺のはじまりとなった。

(第三幅)虎麿の娘・瑠璃子の病をなおすため、温泉に入湯させる話
(第四幅)虎麿が壬申の乱で活躍し、その恩賞で筑前国を領有することとなった話
(第五幅)湯町の繁栄と虎麿の死、その後、地蔵会がとり行われる話

 現在伝わっている縁起絵は、失われた縁起絵を江戸中期に再興したものと考えられています。

武蔵寺の近くにある天拝山自然公園の噴水広場ですが、水の中を見るとオタマジャクシや大きなアメンボがたくさんいました。

 
参道脇には薬師如来を表わす梵字が刻まれた巨石があり、池の畔には茶室がありました。なんでも筑紫野では有名な南画家さんのアトリエを改造して茶室にしたそうです。聞きますと藤瀬冠邨さんと言う南画家さんで半禅居という庵を改築されたようです。
 
藤瀬冠邨1875‐1951年 

明治8年糸島郡加布里村字岩本生まれ。本名は乙吉。雅号は加布里村(かむりむら)に由来します。17歳で画家を志して吉嗣拝山に師事しました。のちに師の勧めで日田の咸宜園に入り、漢籍詩文を3年間学び、のちに京都をはじめ日本各地を遊歴し、諸家と交わり詩画書の研鑽に努めました。明治43年以降、湯町(筑紫野市)に居を構え書画道に専念しました。郷土南画壇を代表する一人者として名声を博し、湯町の旅館街には作品が多く残されています。昭和26年、77歳で死去されました。

 
藤見物の後に、蓮の池を見ながらお抹茶がいただける至福の時です。お抹茶とお菓子付きで500円でした。
 
 
こちらのお茶菓子は太宰府参道の店から取り寄せたそうです。説明は受けたのですが店名は忘れました。
 

紫藤の滝(しとうのたき)

こちらは菅原道真公が無実を訴える為に天拝山に登る前に身を清めた紫藤の滝です。ひんやりして気持ちの良い水でした。
 
家を離れて三~四月おつる涙は百千行(ももちつら)、万事皆夢の如し時々被蒼をあおぐ。
大宰府に左遷された道真公は流罪のような扱いに苦しみ天拝山で無実を訴えるも悲痛の中で薨去しました。
 
 

 

 

 

拝殿に掲げられていた言葉です。余談ですがパターン化した天神図の中に渡唐天神像があります。多くの絵師が描いていますが、道真公が一夜にして唐に渡り径山寺の無準師範の元に行き禅をマスターした事を特に禅宗のお坊さんにより流布されます。菅原道真公は時代背景と共に、雷で都を恐怖に陥れる怨霊になったり、禅宗のプロパガンダ(?)になったり、学問の神様になったり崇敬を集めていきます。