本日は二日市駅より徒歩30分程の武蔵寺に行きました。駅より往復でウォーキングに丁度よい距離です。お寺の縁起によりますと、初代大宰帥の藤原虎麻呂の645年開基、806年伝教大師最澄の開山です。
長者の藤
御本尊の薬師瑠璃光如来は椿の一木造りです。藤原虎麻呂の夢枕に薬師如来と十二神将が現れ椿の大樹で仏を刻み御仏の教えを信じ広めていくよう告げられました。二日市温泉も薬師様の霊夢で発見されたと言われています。
(第二幅)虎麿(とらまろ)が霊夢によって大椿で薬師如来を刻み、それが武蔵寺のはじまりとなった。
(第三幅)虎麿の娘・瑠璃子の病をなおすため、温泉に入湯させる話
(第四幅)虎麿が壬申の乱で活躍し、その恩賞で筑前国を領有することとなった話
(第五幅)湯町の繁栄と虎麿の死、その後、地蔵会がとり行われる話
現在伝わっている縁起絵は、失われた縁起絵を江戸中期に再興したものと考えられています。
武蔵寺の近くにある天拝山自然公園の噴水広場ですが、水の中を見るとオタマジャクシや大きなアメンボがたくさんいました。
明治8年糸島郡加布里村字岩本生まれ。本名は乙吉。雅号は加布里村(かむりむら)に由来します。17歳で画家を志して吉嗣拝山に師事しました。のちに師の勧めで日田の咸宜園に入り、漢籍詩文を3年間学び、のちに京都をはじめ日本各地を遊歴し、諸家と交わり詩画書の研鑽に努めました。明治43年以降、湯町(筑紫野市)に居を構え書画道に専念しました。郷土南画壇を代表する一人者として名声を博し、湯町の旅館街には作品が多く残されています。昭和26年、77歳で死去されました。
紫藤の滝(しとうのたき)
拝殿に掲げられていた言葉です。余談ですがパターン化した天神図の中に渡唐天神像があります。多くの絵師が描いていますが、道真公が一夜にして唐に渡り径山寺の無準師範の元に行き禅をマスターした事を特に禅宗のお坊さんにより流布されます。菅原道真公は時代背景と共に、雷で都を恐怖に陥れる怨霊になったり、禅宗のプロパガンダ(?)になったり、学問の神様になったり崇敬を集めていきます。