野村望東尼と高杉晋作 平尾山荘の謎 | OH!江戸パパ

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平尾山荘にある野村望東尼の銅像

 

福岡では幕末の事はあまり語られません、福岡藩では藩主の黒田長溥は暗愚ではなく島津斉彬や鍋島直正のように開明的な殿様で、武器を製造する鉄鉱炉を建設したり軍備の洋式化を進めようとしますが加藤司書を始め藩内は旧式の軍隊にこだわります。その上で筑前勤皇党と佐幕派との藩内は分裂していきます。第一次長州征伐において長州藩は三家老の切腹、参謀四名斬首、5卿追放で寛大な処置で終わりました。筑前勤皇党は5卿の受け入れ先の斡旋をします。その後、長州内では俗論派が主流になります。これを高杉晋作は奇兵隊をもって藩論を正義派へとひっくり返します。

 

★黒田長溥・・福岡藩主、黒田家の血筋ではなく薩摩藩主・島津重豪の九男。開明的な君主ですが、あくまで幕藩体制の上で開国・富国強兵を唱え家臣を取りまとめられずまた時局を見極められず失態を見せる。福岡市民からは今も暗愚な殿様と思われている。第一次長州征伐後の幕府の圧力に耐えられず乙丑の獄を引き起こします。最悪なのは加藤司書を切腹させ筑前勤皇党を壊滅させた事です。野村望東尼も姫島に流刑となります。更にひどいのは鳥羽伏見の戦いの結果を見て新政府軍に寝返り。三人の家老を切腹させた事です。

 

★筑前勤皇党・・家老の加藤司書、藩士の月形潜蔵、平野国臣、中村円太等々の勤皇の志士。

 

野村望東尼・・福岡藩士・浦野重衛門勝幸とミチの二女。初婚は離縁。その後に学問・書・歌を習い始める。再婚相手の野村新三郎貞貫とは同門、老後の隠居場所にと平尾山荘を建てる。野村家当主を息子に譲り引退して別荘で花鳥風月を愛で、歌や書の習い事をしながら旅行を楽しむ悠々自適の老後を目論んでいました。現代風に言うとリア充な老後を目指していました。ところが本人の意思とは裏腹に次々と起こる不幸に見舞われ否応なしに歴史の舞台に登場します。

 

 

 

 
野村望東尼誕生地の石碑
 
 

野村望東尼の誕生地に石碑が建っている。そのすぐそばの電柱には略歴が書かれた看板がある。野村貞貫と再婚し大隈言道は夫婦の歌の先生である。後年夫の貞貫が亡くなり、54才で得度剃髪し野村望東尼となります。京都に旅行がてら言道を大阪に訪ね歌会に参加し勤皇商人馬場文英と知り合い・京都に行き政治情勢を知り、情報を福岡と関西双方に伝えたり福岡の勤皇志士の潜伏先を紹介した。乙丑の獄において誰が情報を流しているのか発覚して幽閉後に姫島に流されました。誕生地は行ってみると小高い山の麓にあり当時は福岡城が大きく見えたでしょう。今では都心部に近い緑の多い高級住宅街になっています。

 

 

平尾山荘・・秋冬は寒く家に戻った。再建された建物ですが場所や構造的に見ても寒さには耐えられそうにありません。

 

 

平尾山荘の謎・・このレリーフのように高杉晋作を匿って交流したと信じられていますが、実際に平尾山荘でレリーフの絵のように望東尼と高杉晋作は交流したのでしょうか。これは当時の一時的な文献が無いようで、後世に創作された話とも言われています。

★高杉晋作・・第一次長州征伐において下関から博多で密談、博多より佐賀に渡り決起を促しますが、佐賀藩は鍋島直正のどっちにもつかない方針もあり不調に終わり、晋作は博多に一旦戻ります。ここから10日程平尾山荘に潜みます。平尾山荘に潜伏していたのは事実のようですが、山荘で野村望東尼と歌のやり取りがあったかどうかは創作ではないかと言われています。交流はあったとしても山荘ではなく野村家当主である孫の助作の本宅ではないかと言われています。とすればその付近に高杉晋作と野村望東尼の交流の地の石碑を建てたらよいと思います。しかし公式に出会ったのは脱獄してからで、入江和作宅に病床の高杉晋作を訪れた。

★高杉辞世の句・・おもしろきこともなき世を面白く住みなすものは心なりけり・・誰しもが高杉の辞世の句だと思っているこの句は実は野村望東尼が以前作った句でいつの間にか高杉晋作辞世の句として定着している。

★高杉晋作と野村望東尼は平尾山荘で交流したのか・・結局のところ定かではありません、本宅に高杉が望東尼を尋ねて来たのかこれも定かではありません。伝記を書く人により見解が違います。山荘に隠れていたが望東尼と晋作は下関で始めて会った。山荘で交流はあり山路すが子なる望東尼の侍女も歌を披露した。浮世絵によるイメージ、妖艶な望東尼が晋作を山荘に向かい入れる場面。

 

 

 

 

こちらの山荘で悠々自適とならなかったのは病弱だった事とは別に、息子(引退後の当主)が江戸勤務になり心身を患い帰福後自刃して取り潰しの憂き目にあいました。その後は孫を当主にたてお家は再興します。孫の後見人となり政治の向きも関わらざるを得なくなります。長州征伐後、高杉晋作が平尾山荘に潜伏していたのはまちがいありません。ここから望東尼の自宅を訪ねた可能性はあるともないとも言えません。

 

 

 
姫島に流罪になりますが、高杉晋作の手配で脱獄し下関の白石正一郎宅に匿われる、但し晋作は入江和作宅にて療養中で面会したのは後日になりました。
 
 
 

野村から浦野に戻っているのでお墓も浦野になっているかと思いましたが、コケがひどく分かりませんでした。

1806年10月17日~1867年12月1日

 

野村望東尼の勤皇活動を始めてから略歴としては1861に大坂、京都に行き本人は、見物や歌の本の出版、師の大隈言道と再会することが目的でしたが歌の会や勤皇商人馬場文英に出会う事で必然的に勤皇歌人として活動を始めました。女流歌人として和歌を通じて交流し人脈を増やしていきます。具体的な活動内容は福岡と京阪の情報のやり取り、志士の住まいの手配や同士の紹介、山荘を志士に貸したり食事を提供したりする。乙丑の獄に連座して姫島に流されるが高杉晋作の手配で脱獄し下関に逃れる。高杉晋作を看取り、数か月後三田尻にて亡くなる。