25歳が原爆を伝えるガイド日記
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まずはじめに、、

今日はハチドリ舎のガイドです。


今回参加者が少ないようで、、

当日参加も可能ですので、もし興味があってお時間合う方は13時にハチドリ舎へ!!


イベント詳細URL


お待ちしてます!


そして今日でオバマ大統領の広島訪問から2年です。

2年前の記事

オバマ大統領の広島訪問を終えて。広島の人へ
https://ameblo.jp/masa7891011/entry-12165482848.html






昨日は11時半ごろからガイド。


最初立て続けに
「ガイドしましょうか?」と声をかけたら4回連続で断られ落ち込みましたが、その後家族連れなどが何組も熱心に聞いてくれたので嬉しかったです。

広島市内の高校生。

学校の校章が梧桐。どんな意味があるのだろう?平和と関係があるのかな?というのを聞きに来てくれました。



アオギリといえば、現在資料館の東館の前に植えられている被爆アオギリが有名です。


このアオギリは爆心地から1.3㎞離れたところで被爆し強烈な熱線と爆風をまともに受けました。

爆風で枝葉は吹き飛び熱線により
幹の半分も焼けましたが奇跡的に
次の年の春に芽吹き空虚状態の市民に
生きる希望を与えました。

その後1973年に今の場所に移され、
原爆のおそろしさと生命の強さを
訪れる人々に訴え続けています。




このアオギリを元に2001年に
少女が作った歌があります。


アオギリのうた」(広島市HPから引用※HP内下部で無料視聴できます。)

作詞・作曲/森光七彩

電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん
たくさん たくさん たね生んで
家ぞくがふえたんだね よかったね
遠いむかしの きずあとを
直してくれる アオギリの風
遠いあの日の かなしいできごと

資料館で見た 平和の絵
いろんな国の 人々や
私がみんなが 考えてゆく広島を
勇気をあつめ ちかいます
あらそいのない国 平和の灯(ひ)
遠いむかしの できごとを
わすれずに思う アオギリのうた
これから生まれてゆく 広島を大切に

広島のねがいはただひとつ
せかい中のみんなの明るい笑顔





ぜひ聞いてみてください!

感想

実はこの子は来てくれたのは2回目。
また来てくれるそうです。

ちなみにこの子は自分が1年前中学校で授業をしたことをきっかけに、原爆について関心を持ってくれたそうです。





こういうことがあると本当に続けていて良かったなと思います。

いろんな学校に行って話が出来たら嬉しいです。
もし機会をくださるところがあれば学校の先生方ご連絡ください!



個性豊かな2人。

最近一緒にガイドをしています!

こうやって若い仲間が増えるのは嬉しいです。
ガイドに興味がある方はぜひ連絡ください!!


ホームページ内にコンタクトボックスからお願いします!




最後にアオギリといえば、、、

実はガイドの師匠の三登さんがガイドに取り組むようになる1つの大きなきっかけになった方が、被爆者の沼田鈴子さんという方です。

沼田鈴子さんについては、「アオギリにたくして」という映画にもなっています。






三登さんのブログ「広島の視線」より
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私と沼田さんの出会いは私がまだ教員をしていた時のことです。たまたま研修で沼田さんに碑巡りの案内をしてもらいました。非常に印象に残る案内でした。その頃はすでに被爆者は高齢化が進み、屋外での案内は辛くなっていました。私は若い被爆者が後を継がなければならないと思いました。沼田さんとは共通の知人がいたこともあり、話しをする機会がよくありました。まだお元気なときにはアオギリの横で、車いすで話しをされているのをよく見かけました。私が平和公園のガイドを始めたのは沼田さんとの出会いがあったからです。
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沼田鈴子さんの手記


 私は、1923年7月30日、大阪で生まれ、5歳のとき私の父の仕事の関係で、広島に来ました。家族は、両親、兄、妹と私の五人でしたが、1929年4月に、広島で弟が生まれて、六人の家族になりました。 


 私は小さい時から何不自由なく、わがままいっぱいの少女として成長しました。小学校を卒業し、やがて夢多き女学生として、楽しい出発がはじまっての日々を過ごしておりました。 


 2年生になった1937年7月7日に、突如として、日中全面戦争へ突入ということを知らされましたが、後に人生も、心までも変えさせられてゆくなど、戦争への意識は全くなく、実感として、受けとめることができませんでした。そのような私達は、いつの間にか、軍国主義の体制の中を、軍国少女になっていったのです。 


 満州事変から、1945年8月15日の敗戦までの15年戦争といわれた中で、日本の中国への侵略、東南アジアへの侵略、南京大虐殺、重慶大爆撃、朝鮮半島に与えた苦しみ、日本が加害国になっている侵略の事実は、深く教えられることもなく、ただ、聖戦、愛国、正義、勝利の美名のもとに「八紘一宇(はっこういちう)」「一億一心火の玉になれ」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など多くの標語や、軍歌を力いっぱい、口ずさみ、命令を疑う事もなく、戦争の勝利のために、すべてを協力し、頑張りました。 


 1939年7月14日から5日間、4年生であった私は、軍需工場の兵器支厰(ししょう)に、勤労奉仕ということで、大砲の玉の表のサビ落としに、1年生、2年生、3年生の全員で通いました。服装は、セーラー服と折りのスカートをぬぎ、膝(ひざ)までの作業着としての短いズボンをはき、体操服を着用し、靴下もはかず、ズック靴に白い軍手をはめての姿でした。戦争は人間の大切な心までも狂わされていることに気がつかず、むしろ、女学生ながら、戦争のために、名誉な仕事をしている誇りを感じました。このサビをひとときも早く奇麗(きれい)にして、戦場に送りたい、自分たちの磨く大砲の玉が、敵の1人でも多く殺せば、日本は戦争に勝つのだという思いを持って、一生懸命に磨きました。戦後もずっと後に、このことが私の教育の恐ろしさと、反省となって、戦争を加害と被害の両面から、みつめ考えていくことになったのです。 


うち砕かれた21歳の夢


 女学校を卒業し、1942年に、父が勤めていた広島逓信局に、妹が4月、私が5月に事務員として勤務しました。親子3人が同じ庁舎内で働いているうちに、143年10月に、19歳の私は婚約をしたのですが、食糧の不足も夢も希望もない統一された防空服装を身につけていることなど、心の喜びのため我慢をすることができたのです。後に私達と共に働いた動員学徒の生徒さんが、私の喜びを知って、どんなに喜んでくれたことでしょうか。 


 1944年3月の3回目の彼との出会いは、島根県で受け取った赤紙一枚で広島にきて、宇品港よりの出征でした。中学生であった弟も4月に軍国少年となって、松山の予科練に入隊し、終戦まで行方不明でした。銑後を守る女性として、優しい心の表現すらできなかったあの時代、彼とは、一度も手を握ることもないままに別れ、見送った私は、心の中で「死なないで帰ってください」「軍人として手柄をたててください」と、一生懸命に叫びつづけました。大砲の玉を磨いていた時の恐ろしい心を、再び持ったのです。いつの日か帰ることを願っている中に、国内も沖縄の地上戦、各県へのB29の襲来と、爆撃での想像もつかない程の生地獄、多くの犠牲者の情報を耳にしておりました。


 私はその後、1945年5月1日付で、4階から同僚三人と共に、屋上にあった防衛通信中部施設部に勤務を命ぜられ、軍隊に関係の職場のためであったのか、仕事の内容は知らされず、煙草の葉を煙草に巻くことを教えられ、常にその仕事と、使い走りを8月5日の夕方まで命令によって、忙しく働いていました。


 1945年3月の末頃でしたが、待っていた婚約者が、8月8日、9日、10日の3日間のいずれかに戦場から、軍用で広島に帰るということを知り、両家の親達が、食べる物も、着る物もないが、顔をみた段階で結婚式を、ということで、21才の娘として、夢と希望の喜びが胸をふくらませ、8月のくる日をどんなにか待つ者になっていたでしょうか。しかし待っていた婚約者は、7月既に戦死をしていたことを、私も誰(だれ)も知りませんでした。広島にもB29の襲来は度々あり、空襲警報、警戒警報の度になるサイレンは、不気味さと、不安と、恐ろしさで、身心を動揺させられていましたが、軍隊もあり、軍需工場もあるのに、他県のように爆撃を受けないことが、不思議に思われていました。8月6日の原爆投下まで無傷の広島市内でした。 


被爆体験


 あの魔の運命ともなる1945年8月6日、午前8時15分の恐ろしいできごとが、広島市民の上にせまっていることなど、夢にも思わず、前夜からの連続的な空襲警報は、2時10分に解除となって、静かな朝を迎えました。何事もなく無事でよかった。今日も頑張りましょうと思うと同時に、3日後に控えた結婚式のことが心に重なり、張り切っていた私は、さっさと服装をととのえ、家族もすっかり支度が終った後、母が、「皆つかれているので、今朝は、できるだけ涼しいうちに家を早くでる方がいいよ」と、いいましたので、そのつもりになっていたところに、サイレンがなりはじめました。 


結婚式の3日前に被爆


 警戒警報の発令で、こんなに今朝は早くからB29の襲来かと思うと、不安をもちましたが、いつものように、何事もなく解除になるだろうと、家の中で解除になるのを待っていました。時計もみないままでしたが、後に知ったのは、7時9分に警戒警報発令で解除が7時31分だったそうです。私は1時間位のように長く感じていました。解除のサイレンと同時に、小さなラジオから、B29は広島に近よっていたが途中から全部引き返したので、もう大丈夫ですという知らせを耳にし、ホッとして、防空頭巾(ずきん)と、小さな救急袋を肩から下げて、母に挨拶(あいさつ)をして、父、妹と3人で、爆心地より1000メートルの地点にある、広島逓信局(鉄筋四階建)に出勤しました。兄は爆心地より1500メートルの地点にあった、広島貯金局に勤務、母は家に残っておりました。 



全文はこちらから。







73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。