25歳が原爆を伝えるガイド日記
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23歳が伝える原爆ドーム(2016.12.6)
6/2からブログの更新が止まっており、連絡してくださった方々、また、平和公園に来て自分を探してくださった方々、そして、身の回りの方々を含めご心配、ご迷惑をおかけしている皆様申し訳ありません。
遅くなってしまいましたが、近況を書きます。
大学卒業から約3年間夜アルバイトをしながら昼間はほぼ毎日平和公園に通いガイドをしてきましたが、ここ2カ月ほどお休みしています。
バイトも1ヶ月以上休みをもらっています。
ただ、この期間に以前から頼まれていた学校での授業や講演は務めさせていただきました。
8月3日には母校の瀬戸田小学校で初めて話をさせていただき、今までやってきて良かったなと思いました。
また、東京に行ったり、四年前お世話になった、岩手の仮設住宅に暮らす家族に会いにいったり、あとは豪雨災害のボランティアをしたりしました。
大学4年生の4月から平和公園に通い始めました。
当時は21歳でしたが、現在25歳、4年と4ヶ月があっという間に過ぎました。
特に大学を卒業してからの3年5ヶ月は振り返ってみると自分でもなにかよく分からないくらい本当にいろいろなことがありました。ガイドをしてたくさんの経験をして、たくさんの人と話しました。自分の一生の財産です。もちろん大変なこともありました。また、周りの友達は就職をして結婚をして、子どもが出来て、、というのを見ながら自分は一体なにをやってるんだろうと思ったことも何度もありました。
しかし、毎日伝えている三登さんを含めた先輩ガイドや被爆者の方々を見たり、毎日毎日熱心に話を聞いてくださる平和公園を訪れる方々がいて、その方々に対してちゃんと伝えたいという思いから続けてきました。もちろん自分自身学ぶことが多かったし、やりたくてやってきました。
過去を学ぶのは過去のためではなくて、今や未来の為だと思っています。
日々原爆について、核兵器についてどうやったら多くの人に伝わるのか、考えてもらえるのか、そればかりを常に考えてきました。一方で、自分の弱い部分を考えることを疎かにしてしまっていたと思います。
今一度立ち止まって、自分と向き合っています。
自分を肯定して、否定して、の繰り返しです。
すごく落ち込んでしまうことも多いです。
ただ、時間がかかっても逃げずにしっかりと自分のこと、今までのこと、これからのこと、しっかり考えていきたいと思っています。
これからのことも決まっておらず、不安な毎日ですが、どんな選択をしても応援していただけたらありがたいです。
それまで待ってもらいたいです。
そして今日は8月6日。
大切な日です。
去年は朝からずっとガイドをしていましたが、今日は家で黙祷をしました。
8時15分の黙祷、広島の平和公園一帯は静寂に包まれます。そして、一人一人がいろいろな事に想いを馳せます。
それが、あの公園だけでなく、広島だけでなく、日本中に広がっていってほしいです。
もちろん、3日後
8月9日11時2分も。
今まで、ガイドを聞いてくださった方々、そしてブログを読んでくださっているみなさまも、一人一人が他人事と思わず、継続して学んで伝えていってもらえたら嬉しいです。
(これは昨年書いた記事です。)
原爆や核兵器、戦争について考えるのが1年に一回だけだと絶対に平和はやってきません。
もちろん毎日じゃなくていいけど、日常から少しずつ考えていってもらいたいですし、同時に政治にも関心を持つ人が増えていって欲しいです。
大事なのはまずは知ること。そして自分でちゃんと選ぶことだと思います。
核抑止という名目のもと、核保有国、また日本を含む核の傘の下にいる国々は核兵器を肯定しています。
しかし今日の式典で湯崎広島県知事はこのように述べました。
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核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば,このようなものではないでしょうか。
「いいかい,うちとお隣さんは仲が悪いけど,もし何かあれば,お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって,そのボタンはいつでも押せるようになってるし,お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い,いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし,うちもお隣に失礼はしない。決して大喧嘩にはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし,誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていればいいんだよ。」
一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。
良き大人がするべきは,お隣が確実に吹き飛ぶよう爆弾に工夫をこらすことではなく,爆弾はなくてもお隣と大喧嘩しないようにするにはどうすればよいか考え,それを実行することではないでしょうか。
私たちは,二度も実際に一家を吹き飛ばされ,そして今なおそのために傷ついた多くの人々を抱える唯一の国民として,核抑止のくびきを乗り越え,新たな安全保障の在り方を構築するため,世界の叡智を集めていくべきです。NPT運用検討会議も開催される二年後の被爆75年に向けて,今こそ世界に向けて立ち上がり,行動するときです。
私たちの,そして世界中の子供たちに,本当の安心をもたらしてやるために全力を尽くすことが,我々日本の大人たちの道徳的責任だと確信いたします。
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もちろん簡単ではありませんが、一度原点に戻って、一人一人が世の中の矛盾や不道理に立ち向かっていかなければと思います。
今日は平成30年7月豪雨災害から1ヶ月でもあります。
被災した地域はまだまだ大変な状況が続いています。
人手が必要です。終わったこととせず一人一人ができることをやっていきましょう。
ボランティアに参加したい方はご連絡ください。
最後に告知。
今日夜の21時05分からNHKラジオ第1で広島原爆の日ラジオ特集「スズメ〜あの日からずっと一人じゃけぇ〜」が放送されます。
原爆や戦争が奪ったのは命だけでなく、生き残った人の〝当たり前の人生〟もなのだなと感じています。
ぜひ、みなさんお聞きください。
すずめおじさんについて
すずめおじさんは毎日のように、原爆ドーム(広島市)にやって来る。自転車かごには6個入り100円のパンが3袋。待ってましたとばかりにスズメが数十羽、集まってくる。「スズメは命の恩人じゃけえ、ひもじい思いはさせたくない。殺して、食べた罪滅ぼしよ」。おじさんは、原爆投下から間もない広島で、スズメを手に取ったあの日を語ってくれた。
おじさんは83歳。原爆孤児だ。73年前の8月6日、10歳だったおじさんは、己斐中町(現広島市西区)から現在の広島市安佐南区にある母の実家に疎開していた。同町の仕事場にいた父は木材が喉に刺さって亡くなった。花の行商で街に出ていた母の行方は分からないまま。爆心地近くに嫁いだ14歳年上の姉は、地下で子どもを抱きかかえるような姿で見つかった。「子どもだったけえ、親が亡くなった実感もなかったなあ」
伯父に連れられ、父や母のいない故郷に戻った。みんな、食べる物も、お金もなかった。「スズメを食べにゃどうにもならん」。大人が山に網を仕掛けると、数百羽掛かった。スズメを網からリンゴ箱に入れる手伝いをしたおじさんは「手間賃だ」と5羽もらった。目を閉じたスズメの羽をむしって、頭を取って、小刀で腹を割いて、串に刺して焼いた。初めてスズメを食べた。「食べていくのに懸命でな。今日の僕があるのはスズメのおかげよ」
全文URL
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/438197
やっぱり文が長くなりました。
最後になりますが、自分は本当にたくさんの人に支えられて、生きていたのだなということを日々実感しています。
本当にありがとうございます。
感謝の気持ちを忘れずに今を大切に生きていきます。
これからもよろしくお願いします。
先のことは分かりませんが、原爆や核兵器、戦争について、学ぶこと、伝えることはどんな形であれずっと続けていきます。
73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。
SNSは時々更新するかもしれません。
よろしくお願いします。