25歳が原爆を伝えるガイド日記



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23歳が伝える原爆ドーム(2016.12.6)


6/2からブログの更新が止まっており、連絡してくださった方々、また、平和公園に来て自分を探してくださった方々、そして、身の回りの方々を含めご心配、ご迷惑をおかけしている皆様申し訳ありません。


遅くなってしまいましたが、近況を書きます。


大学卒業から約3年間夜アルバイトをしながら昼間はほぼ毎日平和公園に通いガイドをしてきましたが、ここ2カ月ほどお休みしています。

バイトも1ヶ月以上休みをもらっています。

ただ、この期間に以前から頼まれていた学校での授業や講演は務めさせていただきました。
8月3日には母校の瀬戸田小学校で初めて話をさせていただき、今までやってきて良かったなと思いました。

また、東京に行ったり、四年前お世話になった、岩手の仮設住宅に暮らす家族に会いにいったり、あとは豪雨災害のボランティアをしたりしました。





大学4年生の4月から平和公園に通い始めました。
当時は21歳でしたが、現在25歳、4年と4ヶ月があっという間に過ぎました。


特に大学を卒業してからの3年5ヶ月は振り返ってみると自分でもなにかよく分からないくらい本当にいろいろなことがありました。ガイドをしてたくさんの経験をして、たくさんの人と話しました。自分の一生の財産です。もちろん大変なこともありました。また、周りの友達は就職をして結婚をして、子どもが出来て、、というのを見ながら自分は一体なにをやってるんだろうと思ったことも何度もありました。

しかし、毎日伝えている三登さんを含めた先輩ガイドや被爆者の方々を見たり、毎日毎日熱心に話を聞いてくださる平和公園を訪れる方々がいて、その方々に対してちゃんと伝えたいという思いから続けてきました。もちろん自分自身学ぶことが多かったし、やりたくてやってきました。

過去を学ぶのは過去のためではなくて、今や未来の為だと思っています。


日々原爆について、核兵器についてどうやったら多くの人に伝わるのか、考えてもらえるのか、そればかりを常に考えてきました。一方で、自分の弱い部分を考えることを疎かにしてしまっていたと思います。


今一度立ち止まって、自分と向き合っています。
自分を肯定して、否定して、の繰り返しです。
すごく落ち込んでしまうことも多いです。





ただ、時間がかかっても逃げずにしっかりと自分のこと、今までのこと、これからのこと、しっかり考えていきたいと思っています。


これからのことも決まっておらず、不安な毎日ですが、どんな選択をしても応援していただけたらありがたいです。
それまで待ってもらいたいです。




そして今日は8月6日。
大切な日です。

去年は朝からずっとガイドをしていましたが、今日は家で黙祷をしました。


8時15分の黙祷、広島の平和公園一帯は静寂に包まれます。そして、一人一人がいろいろな事に想いを馳せます。
それが、あの公園だけでなく、広島だけでなく、日本中に広がっていってほしいです。

もちろん、3日後

8月9日11時2分も。





今まで、ガイドを聞いてくださった方々、そしてブログを読んでくださっているみなさまも、一人一人が他人事と思わず、継続して学んで伝えていってもらえたら嬉しいです。


記事URL


(これは昨年書いた記事です。)





原爆や核兵器、戦争について考えるのが1年に一回だけだと絶対に平和はやってきません。


もちろん毎日じゃなくていいけど、日常から少しずつ考えていってもらいたいですし、同時に政治にも関心を持つ人が増えていって欲しいです。
大事なのはまずは知ること。そして自分でちゃんと選ぶことだと思います。







未だ世界にはこれだけの核兵器が存在しています。

核抑止という名目のもと、核保有国、また日本を含む核の傘の下にいる国々は核兵器を肯定しています。

しかし今日の式典で湯崎広島県知事はこのように述べました。


ーーーーー

核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば,このようなものではないでしょうか。

 「いいかい,うちとお隣さんは仲が悪いけど,もし何かあれば,お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって,そのボタンはいつでも押せるようになってるし,お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い,いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし,うちもお隣に失礼はしない。決して大喧嘩にはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし,誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていればいいんだよ。」

 一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。
 良き大人がするべきは,お隣が確実に吹き飛ぶよう爆弾に工夫をこらすことではなく,爆弾はなくてもお隣と大喧嘩しないようにするにはどうすればよいか考え,それを実行することではないでしょうか。

 私たちは,二度も実際に一家を吹き飛ばされ,そして今なおそのために傷ついた多くの人々を抱える唯一の国民として,核抑止のくびきを乗り越え,新たな安全保障の在り方を構築するため,世界の叡智を集めていくべきです。NPT運用検討会議も開催される二年後の被爆75年に向けて,今こそ世界に向けて立ち上がり,行動するときです。
 私たちの,そして世界中の子供たちに,本当の安心をもたらしてやるために全力を尽くすことが,我々日本の大人たちの道徳的責任だと確信いたします。

全文はこちらから。

ーーーーーーーー



もちろん簡単ではありませんが、一度原点に戻って、一人一人が世の中の矛盾や不道理に立ち向かっていかなければと思います。






今日は平成30年7月豪雨災害から1ヶ月でもあります。





被災した地域はまだまだ大変な状況が続いています。
人手が必要です。終わったこととせず一人一人ができることをやっていきましょう。

ボランティアに参加したい方はご連絡ください。







最後に告知。

今日夜の21時05分からNHKラジオ第1で広島原爆の日ラジオ特集「スズメ〜あの日からずっと一人じゃけぇ〜」が放送されます。

原爆や戦争が奪ったのは命だけでなく、生き残った人の〝当たり前の人生〟もなのだなと感じています。
ぜひ、みなさんお聞きください。


すずめおじさんについて


すずめおじさんは毎日のように、原爆ドーム(広島市)にやって来る。自転車かごには6個入り100円のパンが3袋。待ってましたとばかりにスズメが数十羽、集まってくる。「スズメは命の恩人じゃけえ、ひもじい思いはさせたくない。殺して、食べた罪滅ぼしよ」。おじさんは、原爆投下から間もない広島で、スズメを手に取ったあの日を語ってくれた。

 おじさんは83歳。原爆孤児だ。73年前の8月6日、10歳だったおじさんは、己斐中町(現広島市西区)から現在の広島市安佐南区にある母の実家に疎開していた。同町の仕事場にいた父は木材が喉に刺さって亡くなった。花の行商で街に出ていた母の行方は分からないまま。爆心地近くに嫁いだ14歳年上の姉は、地下で子どもを抱きかかえるような姿で見つかった。「子どもだったけえ、親が亡くなった実感もなかったなあ」

 伯父に連れられ、父や母のいない故郷に戻った。みんな、食べる物も、お金もなかった。「スズメを食べにゃどうにもならん」。大人が山に網を仕掛けると、数百羽掛かった。スズメを網からリンゴ箱に入れる手伝いをしたおじさんは「手間賃だ」と5羽もらった。目を閉じたスズメの羽をむしって、頭を取って、小刀で腹を割いて、串に刺して焼いた。初めてスズメを食べた。「食べていくのに懸命でな。今日の僕があるのはスズメのおかげよ」


全文URL

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/438197







やっぱり文が長くなりました。

最後になりますが、自分は本当にたくさんの人に支えられて、生きていたのだなということを日々実感しています。

本当にありがとうございます。




感謝の気持ちを忘れずに今を大切に生きていきます。

これからもよろしくお願いします。



先のことは分かりませんが、原爆や核兵器、戦争について、学ぶこと、伝えることはどんな形であれずっと続けていきます。






73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。




SNSは時々更新するかもしれません。
よろしくお願いします。



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昨日の中国新聞にコメントが載りました。

2ヶ月前ほどに、中日ドラゴンズのファンが「原爆落ちろ、カープ」と発したことについてです。


本当に無知から来ることだと思います。
言った人はもちろん悪いですが、その人たちにもっと伝えていかなければいけないのではないかと思います。



そして、広島に住んでいる人も普段からもっと原爆や戦争について学んでいかないといけないと思っています。

昨日は朝ガイドして昼からガイド仲間の山口さんの被爆証言を聞きに。
山口さんはお母さんのお腹の中で被爆した胎内被爆者です。


この証言会は話す人もそうですが、聞く人の半分近くも被爆者です。

昨日は山口さんの話の後に、被爆者同士で

「原爆が爆発した後周りが真っ暗になったよね?」

「うん、すごく長く感じたよねぇ」

「わしは一瞬だったがパッと爆発の後真っ暗になったのぉ」

など、すごい体験を普通に会話していました。


今話が聞けるうちにたくさんの話を聞きたいです。




山口さんは原爆ドーム前で、海外の人と一緒に折り鶴を折っています。

なんと奥さんはブラジル人でポルトガル語が話せます!

ぜひ原爆ドーム前で山口さんを見かけたら声を掛けてみてください。








被曝の苦しみ 今も チェルノブイリ原発事故 ベラルーシのウクラインカさんに聞く


15歳で甲状腺摘出

広島で交流の継続訴え

 32年前の旧ソ連チェルノブイリ原発事故で放射能汚染に見舞われたベラルーシ。首都ミンスクに住むリュドミラ・ウクラインカさん(42)が、NPO法人「チェルノブイリ医療支援ネットワーク」(福岡市)の招きで来日し、広島市などを訪れた。甲状腺の摘出手術を受けた経験や、福島第1原発事故の被災者との交流を通じて抱く思いを聞いた。(金崎由美) 

  ―原発事故が起きた時のことを教えてください。
 ミンスクに住んでおり、10歳だった。父は事故の数日後から事故現場に駆り出され、出掛けた時と同じ服、靴で2週間後に帰宅した。大量の放射性物質が付着していたはず。だが当時は事故に関する情報も、身を守るすべも知らされなかった。父は被曝(ひばく)が認定されないまま2005年に他界した。 

 私は事故後も毎年、夏休みをベラルーシ東部のモギリョフにある祖母の家で過ごした。チェルノブイリから約150キロ。放射性物質が大量に到達した「ホットスポット」だ。やはり当初は何も知らされなかった。 

  ―15歳で甲状腺の腫瘍が見つかったそうですね。
 原発事故による子どもの甲状腺がんの増加が報告され始めた時期だった。手術の技術は現在ほど進んでおらず、左右の甲状腺に加えて首の筋肉や神経も切られて傷が残った。現在も体調が優れない日がある上、頭を動かすことも普通の人のようには簡単にできない。 

 将来の進路に希望を思い描くべき10代後半の時期、「5年生存率」という言葉が頭から離れず「私は生き続けられるか」と悩んだ。子どもを産めるか、という不安にもさいなまれた。いわゆる心的外傷後ストレス障害(PTSD)だ。 

 その後、避難による古里の喪失や家族離散、健康不安などの理由により実はPTSDを抱えている被災者が多いと気付いた。自殺を試み、アルコールに依存する人もいる。体験を踏まえて一人一人の心に寄り添いたい、と大学で心理学を学びカウンセラーになった。 




全文はこちらから。(2018年5月28日中国新聞朝刊掲載




73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。


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昨日は朝から平和公園の北側や西側など普段行かないところを友達とじっくり回りました。新たな発見がたくさんありました。


原爆ドーム前に行くと、なんだかすずめおじさんの周りに人だかりが。

すずめおじさんは被爆者です。

おじさんと話していたのはアメリカ人の家族。おじいちゃん、おばあちゃんの故郷はフィリピンだそうで二人とも戦争経験者。第二次世界大戦では日本とアメリカの狭間でフィリピンでも多くの一般市民が犠牲になったことをおしえてくれました。

そして原爆を含め、戦争で一般市民が犠牲になったことを正当化してはいけない!と強く言っていました。

みんなで写真


実はこの写真の前にもう一枚写真を撮りました。




ピースサインで楽しそう!けどこの後すずめおじさんが、「ここは、たくさんの人が亡くなった場所だから、ピースはノーね」と言いました。おじさんは原爆ドームのすぐ近くでお姉さんも亡くしています。

それを伝えると、家族みんな「あぁ、そうだよね、知らなくてほんとにごめんなさい。本当にあなたや家族に申し訳ないわ。その通りよね。ごめんなさい」と言ってもう一枚撮ろうということになったのです。ピンクの服の女性は涙ぐんでいました。



そしてこれは一番最後。
こうやって草の根で繋がって行くことが、戦争を抑止する1番の力になるはずです。

ちなみに、最後おばあちゃんが「ありがとう、あなたに会えて良かったわ」と自分の頭を撫でてくれました。

久しぶりに人に頭を撫でられましたが、なんだか子どもに戻った気分で、恥ずかしいけど、嬉しかったです。


また会えたら嬉しいな!



その後


中国と台湾から




重く、嬉しい言葉です。
こちらも草の根で繋がっていきたいです。



昨日は運が良い日でした。




ギャラクシー賞に「沖縄と核」

NHKニュースURL

この1年間に放送された優れた番組などに贈られるギャラクシー賞のテレビ部門の優秀賞に、NHK沖縄放送局が制作した「NHKスペシャル沖縄と核」が選ばれました。

去年9月に放送された番組、「NHKスペシャル沖縄と核」では、東西冷戦が激しさを増す中、本土復帰前の沖縄に多いときでおよそ1300発の核兵器が置かれていた実態などが伝えられました。

ギャラクシー賞は放送番組の評論活動を行っている「放送批評懇談会」が、毎年、NHKや民放で放送されたテレビとラジオの番組の中から優れた作品や個人を選んで贈っていて、31日各部門の結果が発表され、テレビ部門の優秀賞に「NHKスペシャル沖縄と核」が選ばれました。

番組は、放送後、「今も沖縄に核兵器があるのではないか」という声や、アメリカ軍基地内の核査察を求める声が上がるなど大きな反響を呼びました。


ーーーー
今にもつながる問題です。
ぜひ見てみてください。








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5月は9カ国796人をガイド(ほとんどが日本人です)

5月もいろんな出会いがありました。
話を聞いた人が持ち帰って考え続けてくれたら嬉しいです。


月に一回書いている朝日新聞のコラム。
5月分良かったら読んでください。






この三日間はガイド休みました。

雨だったり、友達の結婚式の余興の準備で帰省したりしてました。

三原に帰ったのですが、(※地元は瀬戸田です。)三原駅のすぐ裏にも原爆死没者慰霊碑がありました。



広島にお住いの方は自分の住んでいるところにも慰霊碑などがあるかもしれません。探してみてください。




被爆証言

『記憶を受け継ぐ』 寺川光人さん―大やけどの顔 風に激痛


寺川光人(てらかわ・みつと)さん(87)=広島市佐伯区

あの日の制服携え「過ちから教訓を」

 焼け焦(こ)げた袖(そで)。血がにじむ襟元。寺川光人さん(87)が73年前のあの日に着ていた制服です。大やけどに苦しんだ記憶と、懸命(けんめい)に看病してくれた家族の愛が刻まれています。 

 八幡村(現・佐伯区)の農家に次男として生まれた寺川さんは、県立広島商業学校(現県立広島商業高)2年生でした。戦争で授業はなく、15歳の誕生日だった8月6日朝も、建物疎開(そかい)作業に動員されるはずでした。 

 広島駅から当時は皆実町(現南区)にあった校舎に向けて同級生と歩いていた時のことです。現在の広電比治山下駅の辺りで強烈(きょうれつ)な光に襲(おそ)われました。爆心地から約1・8キロ。近くの避難(ひなん)用の壕(ごう)に飛び込みましたが、顔の右半分や右腕、後頭部を熱線が直撃しました。 

 とにかく逃(に)げよう―。比治山に登ると、眼下の街は火の手が上がっています。広島駅に行くとホームの枕木(まくらぎ)からも火が出ており、列車は走っていません。火の海となった市街地を避(さ)け、北の方角から大きく遠回りしながら己斐駅(現西広島駅)へ。「ホームにあった水道の蛇口(じゃぐち)に群がり、傷口を冷やした。今も駅の上り線ホームを通ると思い出す」 

 広電荒手(あらて)駅(現草津南駅)から先は路面電車が動いていました。超満員(ちょうまんいん)の車両に必死にしがみつきました。焼けて垂れ下がった頰(ほお)が風にペラペラとなびき、激痛にうめいたそうです。五日市駅で心配そうに待っていた父と再会したのは夕方でした。 

 大変だったのは、その後です。意識を失い、「ええ男を台無しにしたのお」という祖母の涙(なみだ)声で目覚めたのは3日後。鏡に映った顔は右半分が真っ黒になり膨張(ぼうちょう)していました。「どうなるのか…」。頰や鼻の下にうじがはい回りました。「苦しみは痛みだけじゃない。うみの臭(にお)い。猛烈(もうれつ)なかゆみ」。放射線による下痢(げり)やだるさもあり、床(とこ)に伏(ふ)せました。 


続きはこちらから。(2018.5.9中国新聞)



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*このブログを読んだ人の決まりごと
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昨日はハチドリ舎のガイド。
13人の方が参加してくれました。

次回は6月17日13時〜です。
イベント詳細URL

ぜひご参加ください。

広島の人も学ぼう。



昨日はバイト休んで、以前のバイト先のべじたBAR PINE VILLAGEに行ってきました。






全部美味しかったーー!

店長の考えで元のスタッフの手形を壁に付けていこうと思っているそうで、自分もつけさせてもらいました。



日付は辞めた日です。

本当にめっちゃ美味しくて良いお店なので、ぜひみなさん行ってみてください!
手形も合わせてみてくださいね。


今日は朝からガイド。

今日は何組もご家族をガイドしました。
子どもたちは本当に可愛い!


また広島に来てくださいね。






広島平和記念資料館企画展

君を想う

-あのときピカがなかったら-


はじめに

 1945年(昭和20年)8月6日、世界ではじめて広島に原爆げんばくが投下されました。まちは破壊はかいされ、多くの人々がくなり、きずつきました。
 かろうじて生きのこった人々は、さくれつしたときの閃光せんこうから、原爆げんばくのことを「ピカ」とぶことがあります。
 あの日をさかいに、大切な人やものをうばわれ、自らもきずつき、人々はどのように生きいてきたのでしょうか。
 「あのときピカがなかったら・・・」。人々は幾度いくどそう思ったでしょう。
 広島平和記念きねん資料館しりょうかんには、やく21,000点の被爆ひばく資料しりょう寄贈きぞうされています。いずれも原爆げんばく悲惨ひさんさをつたえる資料しりょうばかりです。
 この企画きかくてんでは、多くの遺品いひんを中心に、原爆げんばくによってくなった人々や家族をうしなった人々の思いを紹介しょうかいします。
 さまざまな思いにれ、一瞬いっしゅんにして人々の生活を一変いっぺんさせ、被爆ひばくから67年った今なお人々を苦しめる原爆げんばく被害ひがいについて考えていただきたいと思います。


あの日
 1945年(昭和20年)8月6日。
 広島市では、前日の夜から、空襲くうしゅう警報けいほうの発令はつれいと解除かいじょが繰くり返かえされていました。そのたびに、人々は避難ひなんを繰くり返かえし、寝ねる間もないほどでした。

 敵てき機き来襲らいしゅうのおそれがなくなり、午前7時31分、ようやく警戒けいかい警報けいほうが解除かいじょされ、一息ついた人々は防空壕ぼうくうごうや指定の避難ひなん場所から帰宅きたくして遅おそい朝食をとったり、動員先や職場しょくばへ出かけて行きました。

 広島市中心部では、空襲くうしゅうによる火災かさいの延焼えんしょうを防ふせぎ、避難ひなん場所を確保かくほするため、大がかりな建物たてものの取り壊こわし作業が行われており、原爆げんばくが投下された午前8時15分には、整列して点呼てんこを受けたり、すでに作業を始めている人々もいました。



続きはこちらから。




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まずはじめに、、

今日はハチドリ舎のガイドです。


今回参加者が少ないようで、、

当日参加も可能ですので、もし興味があってお時間合う方は13時にハチドリ舎へ!!


イベント詳細URL


お待ちしてます!


そして今日でオバマ大統領の広島訪問から2年です。

2年前の記事

オバマ大統領の広島訪問を終えて。広島の人へ
https://ameblo.jp/masa7891011/entry-12165482848.html






昨日は11時半ごろからガイド。


最初立て続けに
「ガイドしましょうか?」と声をかけたら4回連続で断られ落ち込みましたが、その後家族連れなどが何組も熱心に聞いてくれたので嬉しかったです。

広島市内の高校生。

学校の校章が梧桐。どんな意味があるのだろう?平和と関係があるのかな?というのを聞きに来てくれました。



アオギリといえば、現在資料館の東館の前に植えられている被爆アオギリが有名です。


このアオギリは爆心地から1.3㎞離れたところで被爆し強烈な熱線と爆風をまともに受けました。

爆風で枝葉は吹き飛び熱線により
幹の半分も焼けましたが奇跡的に
次の年の春に芽吹き空虚状態の市民に
生きる希望を与えました。

その後1973年に今の場所に移され、
原爆のおそろしさと生命の強さを
訪れる人々に訴え続けています。




このアオギリを元に2001年に
少女が作った歌があります。


アオギリのうた」(広島市HPから引用※HP内下部で無料視聴できます。)

作詞・作曲/森光七彩

電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん
たくさん たくさん たね生んで
家ぞくがふえたんだね よかったね
遠いむかしの きずあとを
直してくれる アオギリの風
遠いあの日の かなしいできごと

資料館で見た 平和の絵
いろんな国の 人々や
私がみんなが 考えてゆく広島を
勇気をあつめ ちかいます
あらそいのない国 平和の灯(ひ)
遠いむかしの できごとを
わすれずに思う アオギリのうた
これから生まれてゆく 広島を大切に

広島のねがいはただひとつ
せかい中のみんなの明るい笑顔





ぜひ聞いてみてください!

感想

実はこの子は来てくれたのは2回目。
また来てくれるそうです。

ちなみにこの子は自分が1年前中学校で授業をしたことをきっかけに、原爆について関心を持ってくれたそうです。





こういうことがあると本当に続けていて良かったなと思います。

いろんな学校に行って話が出来たら嬉しいです。
もし機会をくださるところがあれば学校の先生方ご連絡ください!



個性豊かな2人。

最近一緒にガイドをしています!

こうやって若い仲間が増えるのは嬉しいです。
ガイドに興味がある方はぜひ連絡ください!!


ホームページ内にコンタクトボックスからお願いします!




最後にアオギリといえば、、、

実はガイドの師匠の三登さんがガイドに取り組むようになる1つの大きなきっかけになった方が、被爆者の沼田鈴子さんという方です。

沼田鈴子さんについては、「アオギリにたくして」という映画にもなっています。






三登さんのブログ「広島の視線」より
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私と沼田さんの出会いは私がまだ教員をしていた時のことです。たまたま研修で沼田さんに碑巡りの案内をしてもらいました。非常に印象に残る案内でした。その頃はすでに被爆者は高齢化が進み、屋外での案内は辛くなっていました。私は若い被爆者が後を継がなければならないと思いました。沼田さんとは共通の知人がいたこともあり、話しをする機会がよくありました。まだお元気なときにはアオギリの横で、車いすで話しをされているのをよく見かけました。私が平和公園のガイドを始めたのは沼田さんとの出会いがあったからです。
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沼田鈴子さんの手記


 私は、1923年7月30日、大阪で生まれ、5歳のとき私の父の仕事の関係で、広島に来ました。家族は、両親、兄、妹と私の五人でしたが、1929年4月に、広島で弟が生まれて、六人の家族になりました。 


 私は小さい時から何不自由なく、わがままいっぱいの少女として成長しました。小学校を卒業し、やがて夢多き女学生として、楽しい出発がはじまっての日々を過ごしておりました。 


 2年生になった1937年7月7日に、突如として、日中全面戦争へ突入ということを知らされましたが、後に人生も、心までも変えさせられてゆくなど、戦争への意識は全くなく、実感として、受けとめることができませんでした。そのような私達は、いつの間にか、軍国主義の体制の中を、軍国少女になっていったのです。 


 満州事変から、1945年8月15日の敗戦までの15年戦争といわれた中で、日本の中国への侵略、東南アジアへの侵略、南京大虐殺、重慶大爆撃、朝鮮半島に与えた苦しみ、日本が加害国になっている侵略の事実は、深く教えられることもなく、ただ、聖戦、愛国、正義、勝利の美名のもとに「八紘一宇(はっこういちう)」「一億一心火の玉になれ」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」など多くの標語や、軍歌を力いっぱい、口ずさみ、命令を疑う事もなく、戦争の勝利のために、すべてを協力し、頑張りました。 


 1939年7月14日から5日間、4年生であった私は、軍需工場の兵器支厰(ししょう)に、勤労奉仕ということで、大砲の玉の表のサビ落としに、1年生、2年生、3年生の全員で通いました。服装は、セーラー服と折りのスカートをぬぎ、膝(ひざ)までの作業着としての短いズボンをはき、体操服を着用し、靴下もはかず、ズック靴に白い軍手をはめての姿でした。戦争は人間の大切な心までも狂わされていることに気がつかず、むしろ、女学生ながら、戦争のために、名誉な仕事をしている誇りを感じました。このサビをひとときも早く奇麗(きれい)にして、戦場に送りたい、自分たちの磨く大砲の玉が、敵の1人でも多く殺せば、日本は戦争に勝つのだという思いを持って、一生懸命に磨きました。戦後もずっと後に、このことが私の教育の恐ろしさと、反省となって、戦争を加害と被害の両面から、みつめ考えていくことになったのです。 


うち砕かれた21歳の夢


 女学校を卒業し、1942年に、父が勤めていた広島逓信局に、妹が4月、私が5月に事務員として勤務しました。親子3人が同じ庁舎内で働いているうちに、143年10月に、19歳の私は婚約をしたのですが、食糧の不足も夢も希望もない統一された防空服装を身につけていることなど、心の喜びのため我慢をすることができたのです。後に私達と共に働いた動員学徒の生徒さんが、私の喜びを知って、どんなに喜んでくれたことでしょうか。 


 1944年3月の3回目の彼との出会いは、島根県で受け取った赤紙一枚で広島にきて、宇品港よりの出征でした。中学生であった弟も4月に軍国少年となって、松山の予科練に入隊し、終戦まで行方不明でした。銑後を守る女性として、優しい心の表現すらできなかったあの時代、彼とは、一度も手を握ることもないままに別れ、見送った私は、心の中で「死なないで帰ってください」「軍人として手柄をたててください」と、一生懸命に叫びつづけました。大砲の玉を磨いていた時の恐ろしい心を、再び持ったのです。いつの日か帰ることを願っている中に、国内も沖縄の地上戦、各県へのB29の襲来と、爆撃での想像もつかない程の生地獄、多くの犠牲者の情報を耳にしておりました。


 私はその後、1945年5月1日付で、4階から同僚三人と共に、屋上にあった防衛通信中部施設部に勤務を命ぜられ、軍隊に関係の職場のためであったのか、仕事の内容は知らされず、煙草の葉を煙草に巻くことを教えられ、常にその仕事と、使い走りを8月5日の夕方まで命令によって、忙しく働いていました。


 1945年3月の末頃でしたが、待っていた婚約者が、8月8日、9日、10日の3日間のいずれかに戦場から、軍用で広島に帰るということを知り、両家の親達が、食べる物も、着る物もないが、顔をみた段階で結婚式を、ということで、21才の娘として、夢と希望の喜びが胸をふくらませ、8月のくる日をどんなにか待つ者になっていたでしょうか。しかし待っていた婚約者は、7月既に戦死をしていたことを、私も誰(だれ)も知りませんでした。広島にもB29の襲来は度々あり、空襲警報、警戒警報の度になるサイレンは、不気味さと、不安と、恐ろしさで、身心を動揺させられていましたが、軍隊もあり、軍需工場もあるのに、他県のように爆撃を受けないことが、不思議に思われていました。8月6日の原爆投下まで無傷の広島市内でした。 


被爆体験


 あの魔の運命ともなる1945年8月6日、午前8時15分の恐ろしいできごとが、広島市民の上にせまっていることなど、夢にも思わず、前夜からの連続的な空襲警報は、2時10分に解除となって、静かな朝を迎えました。何事もなく無事でよかった。今日も頑張りましょうと思うと同時に、3日後に控えた結婚式のことが心に重なり、張り切っていた私は、さっさと服装をととのえ、家族もすっかり支度が終った後、母が、「皆つかれているので、今朝は、できるだけ涼しいうちに家を早くでる方がいいよ」と、いいましたので、そのつもりになっていたところに、サイレンがなりはじめました。 


結婚式の3日前に被爆


 警戒警報の発令で、こんなに今朝は早くからB29の襲来かと思うと、不安をもちましたが、いつものように、何事もなく解除になるだろうと、家の中で解除になるのを待っていました。時計もみないままでしたが、後に知ったのは、7時9分に警戒警報発令で解除が7時31分だったそうです。私は1時間位のように長く感じていました。解除のサイレンと同時に、小さなラジオから、B29は広島に近よっていたが途中から全部引き返したので、もう大丈夫ですという知らせを耳にし、ホッとして、防空頭巾(ずきん)と、小さな救急袋を肩から下げて、母に挨拶(あいさつ)をして、父、妹と3人で、爆心地より1000メートルの地点にある、広島逓信局(鉄筋四階建)に出勤しました。兄は爆心地より1500メートルの地点にあった、広島貯金局に勤務、母は家に残っておりました。 



全文はこちらから。







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一昨日のガイド、たくさんものをもらいました。



ありがとうござました。


昨日はハチドリ舎で行われた、オバマ大統領の訪問を振り返るイベントに参加してきました。





自分以外は記者の方でした!
自分は肌身感覚で感じたことを話しました。

まず2つの記事を紹介

オバマ大統領の訪問の1ヶ月前の朝日新聞


予言者のようにトランプの事を書いてました。


2年前のオバマ大統領の訪問が決まった次の日の日経新聞の春秋。2つ目の▼に名前は書かれていませんが自分のことが書かれています。



当日の様子






半年後のテレビ





昨日の様子が今日の中国新聞に少し載っています。





原爆投下についての認識が日本の中で薄れています。




URL





明日はハチドリ舎のガイドです。


————イベント詳細————
マサに聞いてみよう!vol.11
「広島人が自分で広島をガイドできるために」

【日時】
5/27(日) 13:00〜16:00(12:30受付開始)

【会場】
Social Book Cafe ハチドリ舎

【住所】
〒730-0854
広島市中区土橋町2-43 光花ビル2F

【参加費】
1000円+1drink

【定員】
15人

【タイムライン】
冒頭カフェにて話を聞いた後、
実際に公園内を散策しながらガイドを聞いていきます。

【申し込み方法】
以下URLからお申し込みください。
https://goo.gl/forms/w7GoHcuDDW8SWj4t1

【主催】
Social Book Cafe ハチドリ舎

【お問い合わせ】
TEL:082-576-4368
mail:hachidorisha@gmail.com



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25歳が原爆を伝えるガイド日記
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もう少しでオバマ大統領の広島訪問から2年です。


オバマ大統領の訪問前に初めてハフポストに記事を書きました。




ぜひ読んでみてください。
URL


ハフポスト個人ページ






オバマ大統領訪問からの変化↓



そして、明日、オバマ大統領の訪問から2年を前に、あの訪問はなんだったのか振り返るイベントをハチドリ舎で行います。






お申し込みはこちらから。



オバマ大統領広島スピーチ


71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。

 なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ。

 広島を際立たせているのは戦争の事実ではない。暴力的な紛争は原始人にも見られることが遺物から分かる。石英から刃物を作り、木からやりを作ることを学んだわれわれの祖先は、こうした道具を狩りだけでなく、同じ人類に対して使った。全ての大陸で、文明の歴史は戦争で満ちている。穀物の不足であれ金(ゴールド)への渇望であれ、国粋主義の熱狂的な扇動や宗教的な熱意であれ、帝国は興亡し、人々は支配されたり、解放されたりしてきた。節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の死者を出し、彼らの名前は時間とともに忘れられた。


全文はこちらから。




昨日バイト帰りに原爆ドームに寄りました。昼とは違う雰囲気です。昼間はドーム周辺ワイワイしていますが、じっくりと見ていろいろ考えてほしいです。





73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。



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月に一回朝日新聞にコラムを書いています。

4月18日


5月16日


一昨日はサンフレの日!ということでサンフレのユニフォームを着てガイドしました。


日本代表に選ばれた青山敏弘選手の6番です!

セレッソサポーターの方をガイドしました。
偶然ですが、8と6です。

広島に原爆が投下されたのが

1945年8月6日午前8時15分。


8.6


すごい偶然です!



昨日は以前から告知していた、山本晴美さんの歌語りコンサートがありました。





すずめおじさんは被爆者で原爆孤児です。


また広島でやる時は告知するのでぜひ来てください。


暗い会場の中で、何人も泣いている方がいました。


山本晴美さんのブログもぜひ呼んでください!
ホームページ





ちなみに山本晴美さん、以前自分の地元でも歌ってくださったのですが、4月23日のブログには自分の家族のことをたくさん書いてくれています。
嬉しいです。




昨日は、以前ガイドした高校生が個人的に3回目の勉強をしに来てくれました。

いろいろガイドしたあと、すずめに餌やり体験。


すずめおじさんのアドバイスを聞いて、見事餌をあげてました。
すずめおじさんと話して、いろいろ感じることが出来たのではないかと思います。


また来てくれるそうなので楽しみです!






核兵器廃絶 道半ば オバマ氏 広島訪問2年(2018.5.21 中国新聞)


バラク・オバマ氏が米国の現職大統領として初めて被爆地広島を訪れてから、27日で2年を迎える。「私の国のように核を保有している国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければならない」。広島での演説でオバマ氏は訴え、世界のヒロシマへの関心は確かに高まった。だが核兵器廃絶を求める被爆者らの願いは道半ばだ。特にトランプ大統領に交代した米国の核政策は「逆コース」に転じたように見える。この2年の変化を見つめ直したい。(金崎由美、水川恭輔) 



(中略)


 「オバマ氏の訪問を振り返り、廃絶へ今後どう生かせるか市民が一緒に考える場をつくりたい」。被爆者の証言会などを開く中区のカフェ「ハチドリ舎」店主の安彦恵里香さん(39)は話す。「5・27」から2年に合わせ、オバマ氏訪問について考えるイベントを今月25日に開く。 
イベント詳細(自分も登壇します)



(中略)

米国ではオバマ政権で与党だった民主党の関係者から「安倍晋三首相は外相をとがめないのか。オバマ氏と一緒に原爆慰霊碑の前で『核兵器なき世界』を誓ったほどの人なのに」と驚きの声が出たという。核専門家のグレゴリー・カラキ氏が、自ら所属する専門家団体「憂慮する科学者同盟(UCS)」のブログで明かした。 

 オバマ氏と安倍首相がそろって平和記念公園に立つ2年前のシーンは、核兵器廃絶を目指す被爆国という日本のイメージを世界に印象付けた。しかしカラキ氏は本紙の取材に「日本ほど二つの違う顔を持つ国はない。表面では核兵器廃絶を唱えながら、米国防総省には核抑止力を増やせと強力に訴えている」と指摘した。広島での安倍首相のイメージしか見ていない人たちは、日本政府の本音と被爆地の世論がここまで別だとは知らないだろう、と。 




全文はこちらから。


73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。




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トップの画像は以前大久野島に行った時のものです。↓






昨日の朝日新聞にすずめおじさんのことが載りました。

記事URL

すずめおじさんはただすずめにえさをあげているだけでなくて、背景には色々な過去や想いがあります。



5月20日ぜひ聞きにきて下さい!

フランス

1時間弱いろんな話をしました。

日本が昨年、核兵器禁止条約に反対したことを言うとびっくりしていました。





いつも平和公園で犬の散歩をしているおじさん。会うたびに飴をくれます。


ありがとうございます!





アメリカ人のアナリス。いつも仲良くしています。

原爆資料館を見学して「私には教科書の『知識』しかなかったと痛感した。原爆を使った国の人間として、もっと学び、心から理解する責任がある」。









73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。



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