もう少しで2年

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記
ホームページ



もう少しでオバマ大統領の広島訪問から2年です。


オバマ大統領の訪問前に初めてハフポストに記事を書きました。




ぜひ読んでみてください。
URL


ハフポスト個人ページ






オバマ大統領訪問からの変化↓



そして、明日、オバマ大統領の訪問から2年を前に、あの訪問はなんだったのか振り返るイベントをハチドリ舎で行います。






お申し込みはこちらから。



オバマ大統領広島スピーチ


71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。

 なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ。

 広島を際立たせているのは戦争の事実ではない。暴力的な紛争は原始人にも見られることが遺物から分かる。石英から刃物を作り、木からやりを作ることを学んだわれわれの祖先は、こうした道具を狩りだけでなく、同じ人類に対して使った。全ての大陸で、文明の歴史は戦争で満ちている。穀物の不足であれ金(ゴールド)への渇望であれ、国粋主義の熱狂的な扇動や宗教的な熱意であれ、帝国は興亡し、人々は支配されたり、解放されたりしてきた。節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の死者を出し、彼らの名前は時間とともに忘れられた。


全文はこちらから。




昨日バイト帰りに原爆ドームに寄りました。昼とは違う雰囲気です。昼間はドーム周辺ワイワイしていますが、じっくりと見ていろいろ考えてほしいです。





73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。



*このブログを読んだ人の決まりごと

2018.5.20.21

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記
ホームページ


月に一回朝日新聞にコラムを書いています。

4月18日


5月16日


一昨日はサンフレの日!ということでサンフレのユニフォームを着てガイドしました。


日本代表に選ばれた青山敏弘選手の6番です!

セレッソサポーターの方をガイドしました。
偶然ですが、8と6です。

広島に原爆が投下されたのが

1945年8月6日午前8時15分。


8.6


すごい偶然です!



昨日は以前から告知していた、山本晴美さんの歌語りコンサートがありました。





すずめおじさんは被爆者で原爆孤児です。


また広島でやる時は告知するのでぜひ来てください。


暗い会場の中で、何人も泣いている方がいました。


山本晴美さんのブログもぜひ呼んでください!
ホームページ





ちなみに山本晴美さん、以前自分の地元でも歌ってくださったのですが、4月23日のブログには自分の家族のことをたくさん書いてくれています。
嬉しいです。




昨日は、以前ガイドした高校生が個人的に3回目の勉強をしに来てくれました。

いろいろガイドしたあと、すずめに餌やり体験。


すずめおじさんのアドバイスを聞いて、見事餌をあげてました。
すずめおじさんと話して、いろいろ感じることが出来たのではないかと思います。


また来てくれるそうなので楽しみです!






核兵器廃絶 道半ば オバマ氏 広島訪問2年(2018.5.21 中国新聞)


バラク・オバマ氏が米国の現職大統領として初めて被爆地広島を訪れてから、27日で2年を迎える。「私の国のように核を保有している国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければならない」。広島での演説でオバマ氏は訴え、世界のヒロシマへの関心は確かに高まった。だが核兵器廃絶を求める被爆者らの願いは道半ばだ。特にトランプ大統領に交代した米国の核政策は「逆コース」に転じたように見える。この2年の変化を見つめ直したい。(金崎由美、水川恭輔) 



(中略)


 「オバマ氏の訪問を振り返り、廃絶へ今後どう生かせるか市民が一緒に考える場をつくりたい」。被爆者の証言会などを開く中区のカフェ「ハチドリ舎」店主の安彦恵里香さん(39)は話す。「5・27」から2年に合わせ、オバマ氏訪問について考えるイベントを今月25日に開く。 
イベント詳細(自分も登壇します)



(中略)

米国ではオバマ政権で与党だった民主党の関係者から「安倍晋三首相は外相をとがめないのか。オバマ氏と一緒に原爆慰霊碑の前で『核兵器なき世界』を誓ったほどの人なのに」と驚きの声が出たという。核専門家のグレゴリー・カラキ氏が、自ら所属する専門家団体「憂慮する科学者同盟(UCS)」のブログで明かした。 

 オバマ氏と安倍首相がそろって平和記念公園に立つ2年前のシーンは、核兵器廃絶を目指す被爆国という日本のイメージを世界に印象付けた。しかしカラキ氏は本紙の取材に「日本ほど二つの違う顔を持つ国はない。表面では核兵器廃絶を唱えながら、米国防総省には核抑止力を増やせと強力に訴えている」と指摘した。広島での安倍首相のイメージしか見ていない人たちは、日本政府の本音と被爆地の世論がここまで別だとは知らないだろう、と。 




全文はこちらから。


73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。




*このブログを読んだ人の決まりごと

2018.5.17

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記
ホームページ


トップの画像は以前大久野島に行った時のものです。↓






昨日の朝日新聞にすずめおじさんのことが載りました。

記事URL

すずめおじさんはただすずめにえさをあげているだけでなくて、背景には色々な過去や想いがあります。



5月20日ぜひ聞きにきて下さい!

フランス

1時間弱いろんな話をしました。

日本が昨年、核兵器禁止条約に反対したことを言うとびっくりしていました。





いつも平和公園で犬の散歩をしているおじさん。会うたびに飴をくれます。


ありがとうございます!





アメリカ人のアナリス。いつも仲良くしています。

原爆資料館を見学して「私には教科書の『知識』しかなかったと痛感した。原爆を使った国の人間として、もっと学び、心から理解する責任がある」。









73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。



*このブログを読んだ人の決まりごと
25歳が原爆を伝えるガイド日記

ホームページ


今日の朝日新聞にコラム「マサのドーム通信」が掲載されました。




1回目の記事↑


ネットでも読めます。
朝日新聞デジタル


一昨日、以前ハチドリ舎のガイドに参加してくれた高校生がまた個人的に話を聞きにきてくれました。



次回、ハチドリ舎の広島の人向けのガイドは5月27日です。



昨日は、被爆前から、原爆ドームのすぐ近くに住まれていた被爆者の森冨さんの話を聞きに行ってきました。



森冨さんのことを知ったのはこの本です。

映画「この世界の片隅に」の制作にも協力しているヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が発刊されています。


記事URL



たくさんの絵を見せながら当時の話を聞かせてくれました。

この森冨さんが書いた絵は原爆ドームのすぐ隣にある西蓮寺にも置かれています。



もともとここには綺麗な街がありました。


森冨さん、いろいろな絵を描かれていますが、実際に当日見た光景は2枚しか描かれていません。
しかも爆心地付近の様子は描かれていません。

当日の足取りや次の日の足取りを描いた地図。

左下にこんな言葉が。


この言葉は重いです。





73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。









*このブログを読んだ人の決まりごと

ジャックスパロウだ!

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記


一昨日はアトリエぱおの子どもたちをガイド。

ご家族の方も含めて50人弱が一生懸命話しを聞いてくれました。

質問をすると手を上げて答えてくれて楽しく真剣に学べたと思います。

子どもたちは話を聞いた後各々で原爆ドームを描いていました。

終わった記念撮影(許可を頂き掲載しています。)

一人一人がなにか少しでも感じてくれていたら嬉しいです。

ガイドの様子をぱおのスタッフの方が後にレポートで書いてくれています。

記事URL



仲良くなった子もいるので、また会えたら嬉しいです。





インドから





「ナマーステ!」
インドの人は人懐っこくて好きです。

3年前、インドに行った経験は今のガイドに活きています。




2年前にガイドした子から手紙が届きました。


応援しとるよー!!
自分もがんばろう!


ガイドは基本説明がメインですが、ガイドの合間や終わった後には相手からいろんな話を聞き、自分も学ぶことが多くあります。

ほんで続けとったら一期一会と言いながらも繋がりが続いていくので、ずっと続けていきたいです。





今日はさっきフェイスパックをしました。




「ジャックスパロウだ!スパロウといえばすずめ。すずめといえば、すずめおじさん。すずめおじさんと言えば、、」








今週日曜日16時半から、平和公園から徒歩5分のアステールプラザで、原爆により孤児になったすずめおじさんの人生をテーマにしたドキュメンタリー、山本晴美歌語り「広島〜すずめ〜」が行われます。

いつもすずめにえさをあげているすずめおじさん。1人の被爆者の人生を聴きに来てください。

山本晴美さんホームページ






73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。









*このブログを読んだ人の決まりごと

2018.5.9.10

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記
ホームページ



昨日は夜ハチドリ舎のイベントで平和教育について考えました。

とても有意義な時間となりました。

昨日の講師の中国新聞の記者の西本雅実さんの話の中で出てきたNHKの意識調査。




記事URL


いろいろなことを考えました。


広島では20年前に文科省の是正指導があり、平和教育にも大きな影響を与えました。現在中身の濃い平和学習が行われているのはほんの一部の学校くらいです。

いいことも、悪いことも、まずは知っていかないといけないと思います。


次回は7月4日の予定です。
みなさんぜひ。



一緒にガイドをしている被爆者の寺尾さんが朝日新聞に載りました。
朝日新聞デジタルURL

こちらではインタビューと製作風景も見れます。ぜひ。


最後に告知。
来週20日、アステールプラザで山本晴美さんの歌語りが行われます。



原爆孤児になったすずめおじさんがテーマです。


本当に多くの人に聞いてもらいたいです。
入場無料です。ぜひお越しください。




73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。


*このブログを読んだ人の決まりごと

2018.5.8

テーマ:
ホームページ

昨日はすまいるスタジオで千羽鶴再生紙のノートを購入。すまいるスタジオは広島県就労振興センターが運営する障がい者多機能型作業所です。






原爆ドームから徒歩5分です。ぜひみなさんお寄りください!!


昨日は長野県の特別養護学校の生徒をガイド。
少ない人数でしたが、みんなとても熱心に聞いて考えてくれました。

ガイド終了後、練習して来たという「さとうきび畑」を歌ってくれました。



原爆ドーム前でこの歌を聴くとは思いませんでしたが、とても感動しました。
戦争、沖縄についても考え続けないとと思います。


この曲が使われたスペシャルドラマ「さとうきび畑の唄」


明石家さんまさん主演で作られた今から15年前のドラマですが、改めて見て考えたいです。
自分に当てはめたらどんな行動が取れるかな。



ガイドのお礼にと一味・七味と、コーヒーをいただきました!

ありがとうございました!







『記憶を受け継ぐ』 寺川光人さん―大やけどの顔 風に激痛

寺川光人(てらかわ・みつと)さん(87)=広島市佐伯区

あの日の制服携え「過ちから教訓を」

 焼け焦(こ)げた袖(そで)。血がにじむ襟元。寺川光人さん(87)が73年前のあの日に着ていた制服です。大やけどに苦しんだ記憶と、懸命(けんめい)に看病してくれた家族の愛が刻まれています。 

 八幡村(現・佐伯区)の農家に次男として生まれた寺川さんは、県立広島商業学校(現県立広島商業高)2年生でした。戦争で授業はなく、15歳の誕生日だった8月6日朝も、建物疎開(そかい)作業に動員されるはずでした。 

 広島駅から当時は皆実町(現南区)にあった校舎に向けて同級生と歩いていた時のことです。現在の広電比治山下駅の辺りで強烈(きょうれつ)な光に襲(おそ)われました。爆心地から約1・8キロ。近くの避難(ひなん)用の壕(ごう)に飛び込みましたが、顔の右半分や右腕、後頭部を熱線が直撃しました。 

 とにかく逃(に)げよう―。比治山に登ると、眼下の街は火の手が上がっています。広島駅に行くとホームの枕木(まくらぎ)からも火が出ており、列車は走っていません。火の海となった市街地を避(さ)け、北の方角から大きく遠回りしながら己斐駅(現西広島駅)へ。「ホームにあった水道の蛇口(じゃぐち)に群がり、傷口を冷やした。今も駅の上り線ホームを通ると思い出す」 

 広電荒手(あらて)駅(現草津南駅)から先は路面電車が動いていました。超満員(ちょうまんいん)の車両に必死にしがみつきました。焼けて垂れ下がった頰(ほお)が風にペラペラとなびき、激痛にうめいたそうです。五日市駅で心配そうに待っていた父と再会したのは夕方でした。 



全文はこちらから。




今日夜はこれです。

ぜひお時間合う方お越しください!

イベントページ





*このブログを読んだ人の決まりごと

2018.5.3.4.5

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記
ホームページ


5月3.4.5の三日間、ゴールデンウィーク&フラワーフェスティバルの影響もあり、多くの人が平和公園を訪れました。

いつものところで説明を始めたところ、多くの人が熱心に話を聞いてくれました。







4日は東京から来たモデルの堀井明日香さんをガイド。
昼も含めて3時間以上熱心に話を聞いてくれました。



ガイドの時は真剣に聞いてくれて、それ以外の時はお茶目で本当によく喋る方でした!笑


堀井さんの今までの話も少し聞いて刺激になりました。ありがとうございました。



また会いましょう!

 
5日は福岡から来た男性をガイド。



平和とはなに?と聞かれて、メッセージを集めたいというので、スケッチブックの記念すべき1ページ目に書かせてもらいました。

その時々によって考えていることも変わりますが、今思うことを書きました。



みなさんも考えてみてください。



彼とは3月に広島の平和教育を考えるイベントで初めて会いました。

そして今回は毎月6日に行われる被爆証言を聞きに来ています。何度も広島を訪れています。
広島に住んでいる自分たちも考え続けないといけません。


来週その広島の平和教育の歴史を学ぶイベントがあります。



————イベント詳細————
平和教育の歴史を探る若者たちの考察 vol.2

【日時】
5/9(水) 19:00〜21:30

【会場】
Social Book Cafe ハチドリ舎

【住所】
〒730-0854
広島市中区土橋町2-43 光花ビル2F

【参加費】
1,000円+1drink

【定員】
20人

【申し込み方法】
以下URLからお申し込みください。
https://goo.gl/forms/O5ZdkJ558sMIY8II2

【主催】
Social Book Cafe ハチドリ舎

【お問い合わせ】
TEL:082-576-4368
mail:hachidorisha@gmail.com



お待ちしています!!






フラワーフェスティバルのこの3日間特にいろんなことを考えました。

広島市は「国際平和文化都市」です。




ー広島市の都市像と都市づくりの理念ー


都市像とこれまでの取組

原爆ドームと平和記念公園広島という地名は、安土桃山時代の天正17年(1589年)、毛利輝元が太田川の河口に築城を始め、「広島」と命名したことに由来すると言われている。明治22年(1889年)に市制を施行し、近代都市として発展していたが、昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾によって壊滅的な打撃を受け、多くの人命と街を失い、辛うじて生き残った人々も被爆の苦しみを背負うことになった。広島市は、この廃墟の中から、市民のたゆまぬ努力により、また、国内外から温かい援助を受け、めざましい復興を遂げた。

広島市の都市像は「国際平和文化都市」である。
何よりも広島市は、「平和都市」の建設に努力してきた。その都市の姿は、広島平和記念都市建設法の「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」としての「平和都市」である。より具体的には、地球上において核兵器による悲劇が繰り返されることがないよう、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を注いできた。広島市はまた、自然環境を生かし、安全、快適で美しい都市景観を有する質の高い都市環境の創造に努めてきた。そして、市民が健やかでゆとりと生きがいを持って生き生きと暮らし、街がにぎわい人々が集う、豊かな文化と人間性をはぐくむ都市づくりを進めてきた。さらに、様々な分野で活発な国際交流や国際協力を推進し、世界に開かれた活力ある都市を目指してきた。


都市づくりの方向

広島市のデルタ市街地人類史上最初の被爆都市である広島市は、平和を願い、平和都市の建設を進めてきた先人の努力を受け継ぎ、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、世界を牽引する都市を目指さなければならない。また、地球環境の改善など人類共通の課題の解決に向け、世界の多くの主体と連携し、世界の中で先導的役割を果たす都市を目指さなければならない。さらに広島市は、市民が自らの地域や街に愛着と誇りを持ち、歴史を伝え、文化をはぐくみながら健康で生き生きと暮らし、これからも住み続けたいと思う都市、また、国内外の人々が訪れてみたいと感じ、訪れた人々が住んでみたくなる都市を目指さなければならない。

広島市は、「平和の象徴」、「希望の象徴」として、世界の人々を引き付ける力を持っている。それは、被爆地ヒロシマとしての高い知名度だけでなく、世界の人々が、廃墟からの復興を評価し、広島市民の被爆体験の中から生まれた「平和」や「和解」のメッセージに共感を覚え、普遍性を感じることによるものである。そして、「ほかのだれにもこんな思いをさせてはならない」という被爆者の和解の哲学を踏まえ、真に平和な世界をつくるため、都市が中心的役割を果たさなければならないというメッセージをヒロシマが発信し、実践していることによるものである。その「平和と希望の象徴」としての求心力を持つ広島市は、世界のあり方、特に未来の都市のあり方を示すことのできる都市である。
こうした都市アイデンティティーの下、広島市は、先駆的精神を持ち、パートナーシップの構築とパラダイムの転換を図りつつ、市民生活の安寧の確保や活力ある地域経済の創出、文化的で活気ある美しい都市の創造など、広島で実現されていることや街のたたずまいがそのまま「平和」の意味であり、具現化であることを実感することのできる都市づくりに取り組み、「世界のモデル都市」を目指す必要がある。

広島市ホームページ(http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1408687149199/index.html)より引用





73年経つ今だからこそ学ぼう。

そして伝えていこう。





25歳が原爆を伝えるガイド日記
ホームページ



昨日は雨だったのでガイド休みました。


核兵器について



核実験について
核実験抗議文一覧




今日からフラワーフェステバルです。

これは一昨日の準備中の写真です。



原爆ドームの対岸や、平和記念資料館の横、慰霊碑の近くなどにステージや花のモニュメントが設置されています。

フラワーフェステバルに行かれる方々は少しだけ、そこも意識してみてください。

実は毎年フラワーフェステバルの期間は原爆ドームや資料館を訪れた観光客の方々に「なんでここでこんなことやってるの?!」や、「がっかりした」と言われることが、あります。

県外や海外からは本当に特別な想いをもって広島に、そして原爆ドームや資料館に訪れる人たちがたくさんいます。
多くの方が真剣に考えている資料館の中にも音は響いているし、原爆ドームを見て泣いている方もいる中で対岸のステージからは手拍子を求められることもあります。

「平和だから」「平和のために」

という言葉で終わり、ではなくその言葉の重みや意味を常に考え続けないといけないと思います。

そして、広島に来られた方々への配慮も必要だと思います。

同じことをやっても考えているか、考えていないかで伝わり方は変わってくると思います。



今年のテーマは「世界へとどけ 花と平和のメッセージ」

広島の中には「平和」という言葉があふれていてます。

今一度、「平和」という言葉の意味や重みを、一人一人が考えてみてください。自分も考えます。


また、平和大通りには慰霊碑がたくさんあります。歩くときに少し意識して見てみてください。多くの方々が亡くなった上を自分たちは歩いています。



フラワーフェステバルに行く方は、これをきっかけに資料館を訪れたり、ガイドの話を聞きに来てください。


フラワーフェステバルに思うこと。Part1





なんかこういう話をしたり、書いたりすると、意見がフラワーフェステバルの盛り上がりに賛成か?反対か?だけで二分されてしまう事があるけど、盛り上がる中でもここで起きたことや、亡くなられた人、そして広島の原爆ドームや資料館を目的に訪れている人たちを大切にしていってほしいし、しないといけないと思っています。ただそれだけです。







昨日大雨の中、カッパを着て原付でバイトに行ったのですが、雨が強すぎて、水がカッパを浸透しました。そして着いた時にはなにか顔が出来ていました。可愛い?




今日はこれからガイドに行きます!
みなさん聞きに来てください。




11ヶ国423人

テーマ:
25歳が原爆を伝えるガイド日記

ホームページ

4月は11ヶ国423人をガイド。
大学卒業してから3年間でおそらく一番ガイドをした人数が少ない1ヶ月でした。
ガイドに行けた日にちも一番少ない1ヶ月でした。

月が変わったので切り替えて頑張ります。





昨日は一日瀬戸田に帰省していました。
帰ってバーベキュー。


やっぱり家族はいいね。








瀬戸田を満喫しました。


散歩してたら昔遊んでいた山の近くに戦没者慰霊碑や原爆慰霊碑が。



裏には平山郁夫さんの名前が。

平山郁夫さんも広島で被爆しています。




01. 中学入学・原爆被爆

平山郁夫は1943年(昭和18)3月、瀬戸田国民学校を卒業後、広島市内の私立修道中学校に進学しました。太平洋戦争の戦時体制下でもあり、寄宿舎の食生活の貧しさから体調を崩して、2年生の夏休み明けに下宿住まいを始めました。孤独と空腹をまぎらすために絵を描くのが唯一の楽しみでした。
1944年には学徒勤労動員方策が定まり、病弱な体をおして自ら志願して働いていましたが、翌1945年7月からは広島市霞にあった広島陸軍兵器補給廠(現在の広島大学医学部)に通っていました。

8月6日は、補給廠から少し離れた渕崎(現在の仁保町)にあった補給廠の材木置き場での作業でしたが、午前8時の点呼のあと、平山郁夫は作業小屋の外で一人、晴れた空を眺めていました。

純白の落下傘に気づき仲間に報せに小屋に入る、と同時に背後から大閃光に包まれました。原子爆弾の投下でした。爆心から4キロ弱の地点でしたが、一度爆心から2キロ弱の寄宿先に戻ったり、比治山橋のたもとまで様子を見に行くなどした後、地獄絵さながらの広島を逃れて生家に向かい、翌朝帰りつくことができました。
15歳の中学生が受けた、生涯、心と身体にのこる体験であり、後に作品《仏教伝来》を始めとする仏伝とシルクロード連作へ続く画業の原点となりました。被爆したときも肌身離さず持っていた中学生時代の作品は、平山郁夫美術館でみることができます。

被爆後、体調を崩してしばらく寝込んだこともあり、終戦後の11月、三原近郊の広島県立忠海中学校へ転校しました。(平山郁夫美術館HP



意識してみるといろいろなつながりがあるんだなと思いました。


みなさんも身近な場所の碑などに少し目を向けてみてください。





最後に紹介(東京での写真展です)




東京にお住いの方はぜひ見に行ってください!!
ページURL



堂畝さんについて

[Peaceあすへのバトン] 写真家・堂畝紘子さん 3世家族の絆 写し出す


原爆や平和について考えてもらうきっかけになれば―。そんな思いで、被爆3世の家族写真を無料で撮り続けています。今年からは祖父母に当たる被爆者や、2世の両親も一緒に入ってもらい、1枚の写真で「記憶のつながり」を表現するようにしています。 

 被爆70年の昨年からスタート。広島のカメラマンとして自分に何ができるか模索していました。平和活動には小学生の頃から関心があり、高校生の時は平和記念式典のボランティアもしました。ここで動かないと何もできなくなるという危機感を背負っていました。 

 3世でもない自分がシャッターを切っていいのか、戸惑いました。しかし始めてみて、むしろスタートが遅かったと焦りを感じました。一緒に撮る予定だった被爆者が、撮影前に亡くなったのです。被爆者の高齢化をひしと感じました。 

 本番は屋外で望遠レンズを使います。距離を置いて撮ることで、自分の気配を消し、家族の絆を写し出します。次に作品を展示して見せて、被爆について再び思いをはせてもらいます。3世が聞き取った被爆体験記も並べ、来場者にも伝えます。「自分も家族について知らないと」「被爆の事実に向き合いたい」。そんな声が寄せられました。 

 本当は、平和関係の番組のナレーションや朗読をしたくて、声優になるのが夢でした。大阪の養成所で学び、東京の事務所に所属しましたが、アニメの仕事ばかり。当時の社長に「やりたいことは有名になってから」と言われ、辞める決意を固めました。それでは遅い。戦争で今この瞬間もなくなる命があるからです。 


全文はこちらから。



73年経つ今だからこそ学ぼう。
そして伝えていこう。