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自分を大切に生きる
自分を好きになる
自分に自信を持つ
自分軸で決める
自分の人生を生きる
そのために今はとにかく休む。自分がうつであることをきちんと認めて勇気を持って休む。今は正直とても辛い、しんどい。ふとした時に涙が出てくる。死にたくなる。ちょっと調子が良くなって(もう治ったもかも!)と思ったらまたしんどくなって、をバカみたいに繰り返して絶望している。
職場や家族、たくさんの方に迷惑をかけている。申し訳ない。けど今はどうしようもない。助けてもらうことしか出来ない。
ありがとうの気持ちを忘れず勇気を持って休む。感謝の気持ちを持って休む。
正直今は全くそんなことは思えないが「うつはギフト」となることを信じて休む。こうなったのもきっとなにか意味がある。
自分は運がいいから大丈夫。大丈夫。
こんなことを書いて多分後で後悔する。本当にもっと辛い人はこんなこと書けないから、自分は大したことないのに甘えてるだけなんだ、とか見た人が嫌な思いをするかもしれないとかまた後で自分を責めることも分かっとる。
けど今の自分の感情を書くことで少し気持ちが落ち着いた。
https://note.com/86guide/n/n230d64456730?sub_rt=share_b
2024年8月6日。
被爆から79年。
前回の記事の投稿から6年が経ちました。
当時話を聞いてくださった方々、関わってくださった方々ありがとうございました。
noteを始めました。
また少しずつガイドをしていこうと思います。
よろしくお願いします。
核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば,このようなものではないでしょうか。
「いいかい,うちとお隣さんは仲が悪いけど,もし何かあれば,お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって,そのボタンはいつでも押せるようになってるし,お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い,いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし,うちもお隣に失礼はしない。決して大喧嘩にはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし,誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていればいいんだよ。」
一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。
良き大人がするべきは,お隣が確実に吹き飛ぶよう爆弾に工夫をこらすことではなく,爆弾はなくてもお隣と大喧嘩しないようにするにはどうすればよいか考え,それを実行することではないでしょうか。
私たちは,二度も実際に一家を吹き飛ばされ,そして今なおそのために傷ついた多くの人々を抱える唯一の国民として,核抑止のくびきを乗り越え,新たな安全保障の在り方を構築するため,世界の叡智を集めていくべきです。NPT運用検討会議も開催される二年後の被爆75年に向けて,今こそ世界に向けて立ち上がり,行動するときです。
私たちの,そして世界中の子供たちに,本当の安心をもたらしてやるために全力を尽くすことが,我々日本の大人たちの道徳的責任だと確信いたします。
すずめおじさんは毎日のように、原爆ドーム(広島市)にやって来る。自転車かごには6個入り100円のパンが3袋。待ってましたとばかりにスズメが数十羽、集まってくる。「スズメは命の恩人じゃけえ、ひもじい思いはさせたくない。殺して、食べた罪滅ぼしよ」。おじさんは、原爆投下から間もない広島で、スズメを手に取ったあの日を語ってくれた。
おじさんは83歳。原爆孤児だ。73年前の8月6日、10歳だったおじさんは、己斐中町(現広島市西区)から現在の広島市安佐南区にある母の実家に疎開していた。同町の仕事場にいた父は木材が喉に刺さって亡くなった。花の行商で街に出ていた母の行方は分からないまま。爆心地近くに嫁いだ14歳年上の姉は、地下で子どもを抱きかかえるような姿で見つかった。「子どもだったけえ、親が亡くなった実感もなかったなあ」
伯父に連れられ、父や母のいない故郷に戻った。みんな、食べる物も、お金もなかった。「スズメを食べにゃどうにもならん」。大人が山に網を仕掛けると、数百羽掛かった。スズメを網からリンゴ箱に入れる手伝いをしたおじさんは「手間賃だ」と5羽もらった。目を閉じたスズメの羽をむしって、頭を取って、小刀で腹を割いて、串に刺して焼いた。初めてスズメを食べた。「食べていくのに懸命でな。今日の僕があるのはスズメのおかげよ」
全文URL
被曝の苦しみ 今も チェルノブイリ原発事故 ベラルーシのウクラインカさんに聞く
32年前の旧ソ連チェルノブイリ原発事故で放射能汚染に見舞われたベラルーシ。首都ミンスクに住むリュドミラ・ウクラインカさん(42)が、NPO法人「チェルノブイリ医療支援ネットワーク」(福岡市)の招きで来日し、広島市などを訪れた。甲状腺の摘出手術を受けた経験や、福島第1原発事故の被災者との交流を通じて抱く思いを聞いた。(金崎由美)
―原発事故が起きた時のことを教えてください。
ミンスクに住んでおり、10歳だった。父は事故の数日後から事故現場に駆り出され、出掛けた時と同じ服、靴で2週間後に帰宅した。大量の放射性物質が付着していたはず。だが当時は事故に関する情報も、身を守るすべも知らされなかった。父は被曝(ひばく)が認定されないまま2005年に他界した。
私は事故後も毎年、夏休みをベラルーシ東部のモギリョフにある祖母の家で過ごした。チェルノブイリから約150キロ。放射性物質が大量に到達した「ホットスポット」だ。やはり当初は何も知らされなかった。
―15歳で甲状腺の腫瘍が見つかったそうですね。
原発事故による子どもの甲状腺がんの増加が報告され始めた時期だった。手術の技術は現在ほど進んでおらず、左右の甲状腺に加えて首の筋肉や神経も切られて傷が残った。現在も体調が優れない日がある上、頭を動かすことも普通の人のようには簡単にできない。
将来の進路に希望を思い描くべき10代後半の時期、「5年生存率」という言葉が頭から離れず「私は生き続けられるか」と悩んだ。子どもを産めるか、という不安にもさいなまれた。いわゆる心的外傷後ストレス障害(PTSD)だ。
その後、避難による古里の喪失や家族離散、健康不安などの理由により実はPTSDを抱えている被災者が多いと気付いた。自殺を試み、アルコールに依存する人もいる。体験を踏まえて一人一人の心に寄り添いたい、と大学で心理学を学びカウンセラーになった。
おじさんと話していたのはアメリカ人の家族。おじいちゃん、おばあちゃんの故郷はフィリピンだそうで二人とも戦争経験者。第二次世界大戦では日本とアメリカの狭間でフィリピンでも多くの一般市民が犠牲になったことをおしえてくれました。
こうやって草の根で繋がって行くことが、戦争を抑止する1番の力になるはずです。
ギャラクシー賞に「沖縄と核」
去年9月に放送された番組、「NHKスペシャル沖縄と核」では、東西冷戦が激しさを増す中、本土復帰前の沖縄に多いときでおよそ1300発の核兵器が置かれていた実態などが伝えられました。
ギャラクシー賞は放送番組の評論活動を行っている「放送批評懇談会」が、毎年、NHKや民放で放送されたテレビとラジオの番組の中から優れた作品や個人を選んで贈っていて、31日各部門の結果が発表され、テレビ部門の優秀賞に「NHKスペシャル沖縄と核」が選ばれました。
番組は、放送後、「今も沖縄に核兵器があるのではないか」という声や、アメリカ軍基地内の核査察を求める声が上がるなど大きな反響を呼びました。
73年経つ今だからこそ学ぼう。
『記憶を受け継ぐ』 寺川光人さん―大やけどの顔 風に激痛
焼け焦(こ)げた袖(そで)。血がにじむ襟元。寺川光人さん(87)が73年前のあの日に着ていた制服です。大やけどに苦しんだ記憶と、懸命(けんめい)に看病してくれた家族の愛が刻まれています。
八幡村(現・佐伯区)の農家に次男として生まれた寺川さんは、県立広島商業学校(現県立広島商業高)2年生でした。戦争で授業はなく、15歳の誕生日だった8月6日朝も、建物疎開(そかい)作業に動員されるはずでした。
広島駅から当時は皆実町(現南区)にあった校舎に向けて同級生と歩いていた時のことです。現在の広電比治山下駅の辺りで強烈(きょうれつ)な光に襲(おそ)われました。爆心地から約1・8キロ。近くの避難(ひなん)用の壕(ごう)に飛び込みましたが、顔の右半分や右腕、後頭部を熱線が直撃しました。
とにかく逃(に)げよう―。比治山に登ると、眼下の街は火の手が上がっています。広島駅に行くとホームの枕木(まくらぎ)からも火が出ており、列車は走っていません。火の海となった市街地を避(さ)け、北の方角から大きく遠回りしながら己斐駅(現西広島駅)へ。「ホームにあった水道の蛇口(じゃぐち)に群がり、傷口を冷やした。今も駅の上り線ホームを通ると思い出す」
広電荒手(あらて)駅(現草津南駅)から先は路面電車が動いていました。超満員(ちょうまんいん)の車両に必死にしがみつきました。焼けて垂れ下がった頰(ほお)が風にペラペラとなびき、激痛にうめいたそうです。五日市駅で心配そうに待っていた父と再会したのは夕方でした。
大変だったのは、その後です。意識を失い、「ええ男を台無しにしたのお」という祖母の涙(なみだ)声で目覚めたのは3日後。鏡に映った顔は右半分が真っ黒になり膨張(ぼうちょう)していました。「どうなるのか…」。頰や鼻の下にうじがはい回りました。「苦しみは痛みだけじゃない。うみの臭(にお)い。猛烈(もうれつ)なかゆみ」。放射線による下痢(げり)やだるさもあり、床(とこ)に伏(ふ)せました。
君を想う
-あのときピカがなかったら-
はじめに
1945年(昭和20年)8月6日、世界で
かろうじて生き
あの日を
「あのときピカがなかったら・・・」。人々は
広島平和
この
さまざまな思いに
爆風で枝葉は吹き飛び熱線により
幹の半分も焼けましたが奇跡的に
次の年の春に芽吹き空虚状態の市民に
生きる希望を与えました。
その後1973年に今の場所に移され、
原爆のおそろしさと生命の強さを
訪れる人々に訴え続けています。
作詞・作曲/森光七彩
電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん
たくさん たくさん たね生んで
家ぞくがふえたんだね よかったね
遠いむかしの きずあとを
直してくれる アオギリの風
遠いあの日の かなしいできごと
資料館で見た 平和の絵
いろんな国の 人々や
私がみんなが 考えてゆく広島を
勇気をあつめ ちかいます
あらそいのない国 平和の灯(ひ)
遠いむかしの できごとを
わすれずに思う アオギリのうた
これから生まれてゆく 広島を大切に
広島のねがいはただひとつ
せかい中のみんなの明るい笑顔
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————イベント詳細————
マサに聞いてみよう!vol.11
「広島人が自分で広島をガイドできるために」
【日時】
5/27(日) 13:00〜16:00(12:30受付開始)
【会場】
Social Book Cafe ハチドリ舎
【住所】
〒730-0854
広島市中区土橋町2-43 光花ビル2F
【参加費】
1000円+1drink
【定員】
15人
【タイムライン】
冒頭カフェにて話を聞いた後、
実際に公園内を散策しながらガイドを聞いていきます。
【申し込み方法】
以下URLからお申し込みください。
https://goo.gl/forms/w7GoHcuDDW8SWj4t1
【主催】
Social Book Cafe ハチドリ舎
【お問い合わせ】
TEL:082-576-4368
mail:hachidorisha@gmail.com



































































