アスリートと一般人の健康についての考えの違い | 東京・横浜物語

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西麻布に生まれ育ち、現在は横浜に居住する筆者が、
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「アスリートと一般人の健康についての考えの違い」

 

私達はテレビで見るアスリート達と自分達一般人の健康についての考え方が、

かなり違っているのは直ぐに理解出来ます。

 

どこがどう違うのかと改めて考えると、

間違いなくアスリートは非常にストイックに激しい練習をしている点にあります。

 

もちろん到達している運動レベルは一般人とはまるで違う高みにいるのは良く知られています。

 

そしてアスリートにとっては「健康であるのが当たり前」であり、

失った時にはアスリート生命が終わるのも良く知っているため、

健康と怪我や病気を常に認識して切磋琢磨している訳であります。

 

彼らにとっては、何故練習しているのかと言うと、

競技において優勝を目指しているからであります。

 

従って、時に優勝のためには身体を壊すギリギリの練習をしたりします。

 

そして中には怪我をして参戦そのものが出来なくなるケースも普通に見られます。

 

ここでさらに考えると、私達一般人の中でも、

このようなアスリート的な考えで運動に臨んでいる人は大勢いる事実に気付くのであります。

 

もちろん、アスリートと一般人では能力差が極めて大きいため、

無視されがちですが、極端な例を挙げて考えてみます。

 

若いアスリートが4回転半ジャンプを飛ぶ練習をするのと、

90歳の老人が10km走る練習をするのとどちらが危険なのか?と考えた場合、

どっちも危ない、と言うのが正解でありましょう。

 

もう少し詳しく言えば、90歳の方がいくら健康であっても、

相当老化が進んでいるのは当たり前ですから、

怪我どころか死ぬ可能性すらあります。

 

要するに以下のようになる人が非常に多い現実があります。

 

「一般人でも運動をするうちにアスリート的な考えに染まって行く」

 

これは非常に厄介な感覚であり、

酷く魅惑的なところが危険極まりません。

 

例えば私の例で言うとこんな感じです。

 

医師から筋トレを命じられる→筋トレ実行、適正体重に→運動にハマる→

ランニングを開始する→25kmランを目標にする→富士山登頂を目標にする→両方達成する→

42.195kmに目標変更→達成する→槍ヶ岳登頂、ゼロ富士を目標にする→際限がない→

いずれ大怪我をするか死ぬ

 

↑上記は恐ろしくレベルが低い老いた私の例ですが、考え方と進行の仕方は完全にアスリート的かと。

 

通常、一般人の感覚は、私のように医師から勧められて始めるケースも相当多いかと思います。

 

そして運動が習慣になって行った場合、

どんどんと上達するためエスカレートして行く、と。

 

どこかで歯止めをかけないと、

アスリートが辿る一般的な運命と同じになるかと思います。

 

非常に運が良くて引退の決意で、多くは途中で怪我をしたり病気になって断念します。

 

本来、一般人の運動とは、健康維持のためにあるはずです。

 

あるいはコレステロール値を下げるためのような、健康になるための方法だったりします。

 

しかし健康を手に入れた途端、人間は、ではその健康で何をするのか?を考え始める訳です。

 

この段階から運動レベルはともかく、思考回路はアスリートのソレになる訳です。

 

何をやるのかは人によって違います。

 

ナイスボディを手に入れて不倫か?

 

走って走って倒れるか死ぬか?

 

より高山を目指して遭難して死ぬか?

 

特に中高年以上の人達の運動は、

致命的に危ない要素を多分に持っているかと思うのであります。

 

目標を持つのは凄く大切であり、

それこそ運動の原動力の1つと言ってもいいかと思います。

 

しかし危険と隣り合わせでもあります。

 

ここの折り合いは非常に難しいです。

 

私の場合は登山とランニングが当面のメイン趣味となりますので、

極めて分かり易い運動指標であるランニングを中心に「止め時」をつい最近考え出しました。

 

・日常的な5kmランニングと最長ランニング距離が10kmが出来るケース

 1500m以下の低山のみ

 

・日常的な10kmランニングと最長ランニング距離がハーフマラソン級(約20~25km)が出来るケース

 通常ルートの富士登山、丹沢などの急峻な山々、他3000m級までの日帰り登山

 

・最長ランニング距離がフルマラソン42.195kmに到達しているケース

 0合目からの富士登山、ゼロ富士(海抜0mの田子の浦から42km先の富士山頂を目指す最強ルート)、

 北アルプス縦走(表銀座を縦走して3泊4日かけて槍ヶ岳登頂)など、

 一般登山ルートとしては最大級に厳しいもの

 

上記の体力を維持して臨んだ場合、

最悪遭難しても「体力不足です」とは少なくとも言われないレベルであるかと思っています。

 

これはどの本を読んでもネット情報にも書いてありませんが、

自分の体験と登山ユーチューバーの言動を注意深くチェックして得た結論です。

 

不完全ながらも、何も指針を持たないで登山に臨むよりは遥かにいいと自負しております。

 

あくまでも私的にはランニング能力を中心に組み立てています。

 

終わり

 

余談:

先日、ウォーキングは1日当たり8000歩以上歩くと、

疲労が蓄積したりして却って健康には有害であるのが調査結果で判明している情報を得ました。

だからウォーキングは1日8000歩以下にした方がいい、と言うのが某医師の主張でした。

しかしアスリートもしくはアスリート的思考を持つ者はそんな風には考えないし、

より高みを目指して行く訳です。

健康である事が目的ではなくなり、当たり前となり、

そこから「何か」をする、と。

そしてここが実は一番大切な事なのですが。

≪人は健康であっても幸福は感じない≫です。

余程酷い病気をしていた人でしたら、

治った時は嬉しいと思うでしょうが、

通常、人は健康であっても何も感じません。

むしろ目が覚めて今日も健康で元気だ嬉しいな♪♪などと本気で思っていたらちょっと変です。

淡々と日常生活を遂行しながら、

その中で「パワー動機」「達成動機」「親和動機」をそれぞれ適切に満たしながら、

そこで初めて幸福を感じる訳です。

つまり健康を手に入れたら次は上記3種に向かって行かないと幸福は決して得られない冷徹な現実。

1日8000歩以上歩いてはいけないと医師は言います。

しかし数万歩歩いてもそれほど疲れないアスリートはザラにいます。

スポーツを達成動機を満たすために選んだ人は間違いなくその道を行きますし、

それは止められないでしょう。

健康だけで人は幸せにはなれない、されど失ったら途端に不幸になる現実。

この矛盾こそが人間存在の本質でもあると思う今日この頃であります。