「おめでとうございます!!女の子です。」と看護師さんに言われ、
産院の待合室で不安な時間を過ごしていた私はホッとし、そしてとても喜んだ。
しかし、その瞬間から既に始まっていた嵐の日々については予想もしていなかった。
子供を持ち、親になると言う事は、家の中に嵐がやって来るのを意味していると思う。
その嵐は極めて強大な力を持ち、ややもすると夫婦関係や親戚関係、友達関係を全て、
いとも簡単に破壊するだけのパワーを秘めている。
子供を持ってからの人生は一変してしまう。
今までは自分のための人生であったが、全てが子供のための人生へとシフトしてしまうのだ。
数ある親の中には、この変化に適応できず、音を上げてしまう者も出てしまう。
けれどもそれは少数に過ぎない。
ほとんどの親は、目覚めた本能と共に何とかして無事に子供を育て上げることだけを目標に生きて行く。
嵐の強さは、赤ちゃん時代、保育園・幼稚園時代、小学校時代、思春期、と全く変わらない強さを維持したまま進んで行く。
風向きは変わるが強さは全く変わっていないと言う事実に驚く。
小学校時代になると臨海学校や林間学校で初めて我が子がいない夜を親は体験することになる。
シーーーーーーーンと静まり返った家の中。
ほとんどの親はここで子供がいる嵐の日々の有難さに気付く。
この嵐は人生最大の恵みと喜びそのものなのである、と。
そうして子供が20歳を過ぎてしばらくすると、
あれだけ大騒ぎした子供はあっさりと親の元を離れて行ってしまう。
今の日本は世界でも類を見ない少子化に襲われている。
経済状況の悪化、待機児童、膨大な教育費、追いつかない福祉。
マスコミは盛んに育児の大変さを強調しまくり、
若い世代に結婚と育児が如何に大変なのかを刷り込んでいる。
こうしてますます少子化に拍車がかかっている。
これは間違いなくマスコミが作り出している大罪だ。
子供のいない人生こそ、悲惨極まりないのだと思い知る必要がある。
しかし何故か誰も言わない。
今の私は、娘が海外に飛び立ってからと言うもの、
あれだけ好きだった星も、音楽も、歌舞伎も、落語も全く興味を失ってしまっている。
それらの趣味は、娘と共に楽しむか、娘の外出時、僅かな時間を利用してこそ楽しかったんだと気付く。
元気な子供がそばにいるからこそ得られていた喜びだったのだ、と。
そして今の私は、娘が居なくなった部屋の前を通る度にギクリとして昔を思い出す。
子供のいない、静まり返った部屋を見るのは自分にはかなりキツい。
この静寂と孤独と不安。
自分には乗り越えられないかも知れないと思わせられる。
だが、これまでの過去を想う時。
もし子供がいない人生を歩んでいたらと想像してしまう。
そのような人生は、自分には想像を絶する悲惨な人生に思えてしまう。
今の自分が抱えている孤独や不安は強烈で、
情けない話だが、自分の歩いている姿をショーウィンドーで見ると、
まるで力がない腰の抜けたお爺さんの歩き方をしているほどだ。
美食も芸術も、歴史も伝統も文化も、私にとっては子供と言う存在があって初めて意味を持ってくるものに過ぎないとつくづく気付かされた。
強烈な不安に見舞われながら、どうなってしまうのか?と不安発作に襲われそうになった時。
スマホの緑色のランプが点滅しているのに気付いた。
娘からのLINEだった。
「もっと金を送ってくれーーーーー」と。
親の想像以上に子供は逞しいと思う。
そして親のことなど、親が子供を思うほど思ってなどいやしない。
それでいいのだ、と思う。
ちょっと拍子抜けして、稼がねば、と思った。
そしてもし、もう少し元気が出たら、趣味の再開をしてみたいと思った。
終わり