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TVの報道特集「731部隊 14歳の証言」というテーマを取り上げていた。

TVerでその番組を見ることが出来る。

が、その番組をぼくが見過ごしていたので残念ながら4月21日(日)の12:00までしか視聴できない。

 

 

その時間以降にこのブログ記事を訪れた方は、その動画について触れているこちらの記事をご覧になってください。

 

 

731部隊とは中国のハルビンで、生体解剖やペスト菌による非人道的な実験を行った部隊だとは広く知られている。

もっとも、裏金政治家を支持している人たちは、日本の最高裁さえもが認めているその事実を認めたくないようだが。

 

ぼく自身も731部隊跡を訪問したこともあり、多少の知識は持っているつもりだった。

が、14歳の少年兵までもが細菌兵器の開発や実験にかかわらされていたことまでは知らなかった。

 

が、ぼくは9年前の12月に沖縄に護郷隊と呼ばれる10代の少年が徴兵されゲリラ兵として教育されていたことをブログ記事として取り上げている。

その折も己の不明を恥じている。

何度も取り上げた記事だが再掲する。

 

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「戦争を知らない子どもたちへ」といっても、1970年にヒットした「戦争を知らない子ども」という歌の話ではない。
11月28日に第一部と第二部に分けられて放映されたNHKのB1スペシャルのこと。
サブタイトルは「元少年兵の告白」
ぼくはそれをビデオにとって視聴した。
それぞれが50分、計100分の長番組なので、とてもじゃないが全てを紹介することなどできない。
ネット上のどこかにその映像がないものかと探した。
が、見つからなかった。
せめてのこととして、己の無知を思い知らされた箇所のテープ起こしを試(こころ)みる。
知らないということは、時として罪になる。

          護郷隊員となった少年たち。

 


番組は、次のようなナレーションで始まっている。
日本軍とアメリカ軍が激突した沖縄戦。およそ20万人が地上戦によって命を落としました。
その沖縄戦の中でもこれまで語られなかった悲劇があります。10代半ばの少年たちが兵士となり、凄惨な戦いを繰り広げたのです。部隊の名前は護郷隊。存在を隠して戦うゲリラ部隊であったためその詳しい実態は分かっていません。
少年たちは戦場で何を見たのか。元少年兵たちが重い口を開きました。


護教隊という言葉を耳にしたのは初めて。
己の不明を恥じるしかない。
召集されたのは10代半ばの少年たちだったという。
子どもを兵士へと変えることを異常と感じない戦争の狂気
果たして、ヤマト(日本本土)の子どもなら、さらには自分の子どもならゲリラ戦士に仕立て上げようなどという発想は生まれたのだろうか。
 

 

 

番組は30人あまりの護郷隊だった元少年兵を取材している。
そして戦後70年を経て、やっと重い口を開いた元少年兵(現87歳)の証言にまず驚かされる。
10名殺したら死んでもいい。
10名殺したら日本が勝つから。

そう上官(大人)に叩き込まれたという。
苛酷な軍事訓練の下、少年たちはゲリラ戦士へと教育され、戦場に駆りだされた。
そして、戦場では「目の前で幼なじみが撃たれ倒れても、友を見捨てて戦い続けるま」でに。
人を殺し殺されることに、怖くもなんとも思わなかったという。
何も考えられない、考えておられない、とも。
護郷隊はおよそ1,000人14歳から17歳までの少年たちが中心。
ぼくが指導に出向いている中学校の3年生は15歳
おもわず、彼らの幼い顔と重なる。

また別の元少年兵(現86歳)は言う。
自殺用の手榴弾を持たされるのです、斥候兵(偵察役)には。
捕虜に捕まったときには、すぐに手榴弾で(爆発させて)自殺しなさいって。
だからぼくはやろうと思って手榴弾のヒモ(信管)は抜いて地面に当てようとしていた。

命よりも秘密を守れと訓練されていたからだ。
 

 


訓練の情景も語られる。
前列、後列で交代で打ち方(殴り合い)はじめ、弱くたたく人には模範を示す。
体の大きい分隊長(大人)が殴る、大変よ。

頭も何も考えられなくなる。
そして、死は鴻毛(こうもう)よりも軽し、と叩き込まれる。
その結果、
(当時は)いつ死んでもいいという気持ち、全然怖いという気持ちがなかった。
死ぬということ、死んだら神宮(靖国)に送るからと、喜ぶ教育をされていた。

ぼくが靖国神社を認めない最大の理由がここにある。
なにもA級戦犯が合祀されているから反対をしているだけじゃない。
人を殺し、殺される戦争を美化・正当化し、それを遂行するための思想教育のシンボルが靖国神社だからだ。
その事情は、現在においても変わらない。
国のために犠牲となった戦没者を弔うためには、千鳥ヶ淵戦没者墓苑という立派な国立墓苑がある。

部隊は1944年の10月に設立されている。
が、軍が兵力不足を補うため沖縄や一部の地域で17歳未満を召集できるように省令を定めたのは1994年の12月
つまり、子どもたちが召集されたのは省令が出される約2ヶ月前
召集には何らの法的根拠もなかったことになる。
また、沖縄や一部の地域という表記は、事実上沖縄を狙い撃ちしたものだったと言えないだろうか。
法律ではなく、陸軍省の省令だったことにも驚かされる。
当時にあってすら、内務省兵役法の改正によってなされるべきであるとし、憲法違反の疑いを指摘してる。
憲法を無視して、力によって既成事実を積み上げていくやり方は、今の政治状況に似ていないか。

しかも、志願という形式をとってはいるものの実際は、上官からの命令。
逃亡してもいい、逃げてもいい。
ハガキ一枚で呼び出して死刑にする。
命令だから、志願ではない。

と、脅され逃れられなかったと、当時15歳だった元少年兵は証言する。
今の自衛隊員も、タテマエ上は自由に退職できることになっている。
が、上官が任務遂行に支障をもたらすと考えたときは、「自衛隊の任務を遂行するため最小限度必要とされる期間、その退職を承認しないことができる」という規定が自衛隊法(第40条)にある。

       番組はアニメとドキュメントで構成されていた。

 


護郷隊の編成には、陸軍中野学校が深く係わっていたことなど、まだまだ記したいことは多々ある。
が、最後に元少年兵の話を転記して今日のブログを閉じる。
敵の戦車30台集まっているという情報が入ったので、そこに“切り込み隊”として行った。
生き抜くということは恐らくない。
突っ込んだらそのまま戦車と一緒に吹き飛ぶ、そういう戦法。
黄色火薬、石割るための工事用10キロを木箱に詰める、それに導火線をつけて火を点ける。
1センチ1秒燃えて。
距離を決めておいて火を点けて吹っ飛ぶ。
戦車と一緒に人間も吹き飛ぶ
自分が爆雷、弾になる、まったく特攻隊です。
弾にあたって苦しんで死ぬわけではないと思っていた。
いっぺんに吹き飛ぶから、あっという間に自分が分からないうちに亡くなる。
別に苦しむわけではないから、ただ“生まれなかった”と思えばこれでいいんじゃないか、と。
幸運にも、この部隊の戦車への攻撃は直前で中止になった。
が、この元少年兵は、敗戦後2~3年たって“いくさ”のことを思い起こしてしまって、戦争恐怖症のような精神異常になって(病院の)独房に入れられたという。
心に負った傷がそれほど深かったということだろう。
いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス)に悩まされている。

            護郷隊鎮魂の碑。

 


約1,000名の護郷隊員のうち、162人が戦死したとされる。
ぼく(たち)は沖縄の何を知っていたというのだろうか。
そして、今も沖縄に米軍基地を押し付けたまま平気な顔をして暮らしている。
 

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ぼくは10年前に中国東北部(旧満州)を訪れた。

その折に731部隊跡や「南京大虐殺記念館」も訪れている。

日本軍の手で実験棟は破壊されており、731部隊跡は事務棟しか残っていなかった。

この近くにはスラム化している旧満鉄職員の社宅もあったが、通りを挟んだ向かい側の土地はりっぱな建物が並んでいた。

おそらくは、もう社宅跡などは残っていないのだろう。

 

 

また、「南京大虐殺記念館」の敷地内には「平和」と書かれたモニュメントをもっており、この記念館は、追悼施設であり鎮魂の場でもあった。

 

さらには、孫文のお墓にも詣でた。