以前に、手元にある三省堂・漢和辞典(第三版)で「絆(きずな)」という言葉を調べたことがある(こちら)。
それによると、
㊀キズ(ヅ)ナ。馬の足をつなぐなわ㊁ホダす。人の行動をしばる㊂ホダシ。人の自由を奪うもの
とある。
その時のぼくのコメントは、
なるほど、誰が見つけ出して来たのかは知らないが、声高に叫ばれる「絆」という言葉は、確かに思考を停止させる言葉としては十分機能している。
といったものだった。
で、今日は「万歳」という言葉のお勉強をしてみようと思い立った。
今回も使用したのは三省堂・漢和辞典(第三版)。
㊀一万年㊁いつまでも生きる。生命が長い。㋑天子の長命㋺一般人の長命㊂めでたいこと㊃お祝いを現す言葉㊄天子など貴人の死「ーー後」㊅一般人の死㊆おてあげ㊇昔朝廷や幕府の庭上で行われた、年始を祝う歌舞㊈新年にえぼし・ひたたれを着け、他の人がつづみを打ち、ときには胡弓をも加えて、民家を歩く、かどづけ㊉漫才
となっていた。
アレレ、㊀から㊃までと㊄以降ではその意味がまるで違っているじゃないか。
今、嬉々として「万歳」を連呼している人たちは㊄以降の意味を知って使っているのだろうか。
そういえば、この両手を挙げて「万歳」と叫ぶ日本の「伝統」とやらは、誰が?いつ?なんの目的で考案したのかということを、森巣博氏の「無境界家族」から学んだことがあったっけ(こちら)。
それによると、氏は江戸以前の日本の歴史に「万歳」という言葉は出てこないと指摘する。
『古事記』にも『日本書紀』にも出てこない。光源氏が美女をコマして「万歳」と叫んだ話も聞かない。関ケ原で東軍兵士たち西軍兵士たちが「万歳」吶喊(とっかん)を試みたという記録もない。弥次さんも言わなかったし、喜多さんも仰らなかった。近松文学にも歌舞伎にも登場してこない。
ぼくが持っている口語訳・古事記(文藝春秋)にも、当然のことながら「万歳」は出てこない。
では、いつ生みだされた言葉なのだろうか。
少し長いが、引用を続ける。
だいたい江戸の住民にとって「天皇」とは馴染みのないものだった。
それで東京遷都以降、明治新政権は東京市民を教化する目的で、「天皇というのは、お稲荷さんより偉いんだ」と、喧伝して回ったのだが、これがあまり効果がない。
(中略)
「国民」の創造に腐心していた明治政府は、「祝声」の制定を試みる。
これを統括したのが文部大臣・森有礼だった。
西洋には「祝声」として、「ヒップ、ヒップ、ホレーッ(筆者注、Hip Hip Hooray)」というのがある。
しかし、「天皇陛下ホレーッ」というのは、どうもいただけない。
森は、「奉賀(ほうが)」を提案したのだが、これも連呼すると、「ホーガァ、ホーガ―」となってしまうので、没。
紆余曲折の末、帝国大学教授・外山正一の「バンザイ」案が、なんと東京大学教授会で承認されたのであった!!
「天皇陛下万歳」の連呼、無気味さしか感じない」との声も:朝日新聞
ぼくも、若者を無駄死にさせた戦中の「特攻」を連想してしまう。
蛇足だろうが書き加えると、「万歳」の起源(オリジン)は、もちろん中国で、官吏たちが皇帝に対して、「バンゼイ、バンゼイ、バンバンゼイ」と九跪三拝(?原文ママ)したところからきている。
(中略)
「天皇の前で大声を発するなど不敬きはまりない」とする宮内省の強い反対を押し切り、森有礼は「万歳」を「祝声」として日本に定着させた。
(中略)
「祝声」を政府が勝手に制定したところで、民衆が突然「万歳」などと叫びだすはずもない。
そこで帝国大学書記官・永井久一郎たちが、帝大生(!!)を集めて特訓を繰り返した。
1889年(明治22年)2月11日、『大日本帝国憲法』発布祝賀祭で天皇の馬車が皇居正門を出ると、整然と列をなした帝国大学生五千余名が、「天皇陛下万歳、万歳、万々歳」
と叫んだのであった
この記事をアップしたときの、ぼくのコメントも再録しておこう。
つまり「万歳」が生まれたのは、明治22年2月11日。
な~んだ、明治22年って、ぼくのオヤジが生まれた2年前じゃないか。
そう、ぼくのオヤジの誕生日は明治24年8月。
日にちは忘れた(親不孝者”!)。
だって、オヤジがなくなったのは50年前だもの。