中山道歩き旅番外編、世界遺産富岡製糸場の操糸所を見学中です(2024年5月4日に訪れました)。



ちょうどこの奥で操糸の実演をしていたのですが、観光客が長蛇の列でちょろっとしか見れませんでした。



 

 

 


 

 



色々と機械がありますね。



どのように使われていたのか分からなくても、男子はこういうの見るだけでも楽しいのです。




 

 

 

こちらは糸整理室。



糸枠から取り出した生糸を整理し梱包していました。



 

 

 

こちらは首長館(ブリュナ館)


 

フランス出身の生糸技術者ポール・ブリュナはお雇い外国人として富岡製糸場の設立に携わり 計画・建設・操業の全てに関わりました。



ブリュナは1870年(明治3年)に製糸場建設の候補地の視察に行き、交通の便や動力源の石炭および水が豊富で建材の石材が入手しやすい事などから富岡が建設地に選定されました。



その後正式に明治政府に雇用され、富岡製糸場の建設から実際の操業の指導に関わり、1876年(明治9年)に帰国するまで富岡製糸場の首長として滞在しました。



富岡製糸場では主にこの首長館に滞在していました。





 

 



 


こちらは寄宿舎(榛名寮)

 


 2つあった宿舎のうちの1つで、ここで女工さんたちが寝泊まりしていたそうです。



渋沢栄一の従兄の尾高惇忠は富岡製糸場の初代場長に就任しましたが、なかなか女工さんたちが集まらないという事が悩みでした。



全くの音の葉もない噂話でしたが、富岡製糸場にいるフランス人(ブリュナ首長など)が若い女性の生き血を吸うとして恐れられていたからでした(ブリュナたちが飲んでいたワインが生き血と勘違いされたという説があります)。



そこで娘の尾高ゆう(勇)は女工達のリーダーとして率先垂範で働き、働く女工さんたちの信頼を得て、徐々に応募が増えていったというエピソードがあります。

 




尾高惇忠の生家は以前に訪れましたね。


 

 

渋沢栄一や尾高惇忠の生地だった、現在の深谷市の血洗島も中山道に近く



活躍の舞台となった富岡製糸場も中山道に比較的近い場所にありました。



こうして実際に歩いたり訪れる事によって、歴史上の人物の行動範囲が肌感覚で分かる、という事も歩き旅の1つの意義かもしれません。

 

 

 

 

 

富岡製糸場について詳しくはこちらもどうぞ。




 

 

 

 

 


さて、富岡製糸場の見学を終えて上州富岡駅へ向かいます。







 マンホーラーですから富岡市のマンホールも忘れてはいないですよ。



ちゃんと富岡製糸場がデザインされてますね。繭も描かれています。

 


 

 

 


帰りの上信電鉄も行きと同じく群馬サファリパークのラッピング電車でした。



 

 

 


再び高崎駅へ到着。



 

 

 


こちらは新幹線の乗り場なので遠目から撮ったものですが



ぐんまちゃんと高崎名物のだるまがいました。



 



 


ちょっと見にくいですが外に出ると



何と気温は31度!



7月ではないですよ。5月上旬のゴールデンウィークの最中でもこのような暑さでした。




さて、それでは次の目的地へ行きましょう。



「りんりんらんち」に続きます。



ランチという事は・・・この前行きそびれたあそこですね。