「中山道歩き旅」、埼玉県深谷市内を歩いています(2023年10月28日に歩きました)。
前回の尾高淳忠生家から少し歩いた、こちらは
深谷市渋沢栄一記念館。
では入ってみましょう。
渋沢栄一翁のパネルがお出迎え。
渋沢栄一の生涯についての展示でした。
そして深谷市渋沢栄一記念館の大きな見どころ
渋沢栄一アンドロイドです。
実際に動いて講義もしてくれます。
時間外だったので写真だけ。
こちらお披露目の時の動画。
裏手には巨大な渋沢栄一像があります。
こちらは渋沢栄一記念館に隣接している青淵公園。
のどかな雰囲気です。
イルミネーションもあるようですが、昼間なのでこんな感じ。
夜のイルミネーションの動画はこちらからどうぞ。
渋沢栄一の雅号「青淵(せいえん)由来之跡」碑。
ここにかつて「淵」があったそうで、それにちなみ尾高淳忠が栄一に「青淵」という雅号を名付けたそうです。
そしてすぐ近くには旧渋沢邸
「中の家(なかんち)」があります。
渋沢栄一の生家であり、23歳まで過ごした家です。帰郷した際にはここで寝泊まりもしました。
こちらが母屋。
火災に遭った後、栄一の妹夫婦によって再建されたそうです。
左は大河ドラマ「青天を衝け」で
渋沢栄一役を演じた吉沢亮さんの衣装
右は奥さんの千代を演じた橋本愛さんの衣装です。
こちらは応接室かな?
ここ「中の家」にも
渋沢栄一アンドロイドがいました。こちらは和装の渋沢栄一アンドロイドでした。
わたくしが見た時は正装の和装ではなくて普段着の和装でしたけれどね。
渋沢栄一の父、市郎右衛門は藍玉作りの名人で、市郎右衛門の才覚によって渋沢家は次第に裕福になってきました。
栄一も市郎右衛門の才能を受け継いで、付近一帯の藍農家が繁栄するように
「番付表」を作り、切磋琢磨する環境を整えたそうです。
その後、時代の流れから栄一たちは尊皇攘夷運動にのめり込み
高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちの計画を立てていきます。
これは横浜焼き討ちの時の血判状のレプリカ。
しかし従兄尾高長七郎の説得により計画は頓挫。
追われるように京都へ逃れた先で出会った徳川(一橋)慶喜に仕えるようになります。
商売・財政に明るい栄一は一橋家の勘定方としてめきめき頭角。幕臣となり、慶喜の名代としてヨーロッパを歴訪した弟の徳川昭武に随行します。
パリでは西洋の進んだ資本主義を学び帰国。その間に徳川家は大政奉還して明治新政府ができますが、そこでも栄一の手腕を買われて銀行や郵便など様々な新制度の設立に携わります。
その後政府から離れて、在野で多くの企業立ち上げに尽力します。
設立に関わった企業は実に500社にも及ぶそうです。
渋沢栄一の業績を語るととてもじゃないが語り尽くせないのでここまで。
「青天を衝け」の脚本を書いた大森美香さんのパネル。何度となくここ「中の家」を訪れたそうです。
渋沢栄一の故郷のこの辺り一帯は
「血洗島」という、かなり物騒な名前ですが
一説にはこの付近の合戦で片腕を切り落とされた武士が血を洗ったからという伝承があります。
また別の説では利根川の氾濫によって地を洗うような土地だったから、というものもあるそうです。
④に続く。