「中山道歩き旅」、深谷駅を出発しました(2023年10月28日に歩きました)。
 
 
ここは床屋さんか美容室かな?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いい感じの寂れ具合な建物ですね。
 
 
 
 
 
 
こんな風にあちこちに渋沢栄一の写真を元にしたのぼりがありました。
 
 
 
 
 
 
こちらの建物は
 
 
深谷商業高校。
 
 
100年以上前の設立時の校舎が今も保存されています。
 
 
二層楼と呼ばれているそうです。国の有形文化財です。
 
 
この深谷商業高校の前身、深谷町立商業学校は渋沢栄一が設立に尽力し
 
 
設立後も栄一が訪れて「士魂商才」の揮毫を残したり松を植えたりして生徒たちを励ましたそうです。
 
 
現在の生徒たちもそんな渋沢栄一の精神を受け継ごうと日々励んでいます。
 
 

 

 

 
 

 

 

 

こちらのリンク先からは二層楼の中の様子も見ることができます。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
こちらの石垣があるのは
 
 
深谷城址公園。
 
 
 
 
 
 
中は広々とした公園ですね。
 
 
 
 
 
 
出入り口はこんな風に城の面影が残っています。
 
 
 
 
 
 
何だか妙に目立つ建物だなと写真撮りましたが
 
 
ここは深谷公民館で
 
 
「青天を衝け」深谷大河ドラマ館が開催されていた場所でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次の目的地へ向かって深谷市内の静かな住宅街を歩いていきます。
 
 
 
 
 
 
 
お!深谷といえば深谷ねぎですが
 
 
このネギはどうなのかな?ちょっと細いようにも見えますが。
 
 
 
 
 
 
 
ふと見かけた
 
 
駐車場の中になぜか大きな缶コーヒー風のオブジェ。
 
 
ほんと謎でした。
 
 
 
 
 
 
国道17号をまたぎます。
 
 
 
 
 
 
 
こちらは小山川。
 
 
 
 
 
 
 
 
防災無線の鉄塔が何だかいい雰囲気。
 
 
深谷駅を出て歩いて1時間半くらい経ったでしょうか
 
 
 
 
 
まずは目的地の1つの
 
 
尾高惇忠生家へ。
 
 
尾高惇忠とは渋沢栄一の従兄にあたる人で
 
 
幼少の頃の栄一たちに学問や武芸を教えた兄であり師でもある人物。
 
 
栄一の妻千代は惇忠の妹だったので義兄にも当たります。
 
 
渋沢栄一が若い頃尊皇攘夷の運動に関わり、転じて幕臣となるきっかけを与えました。
 
 
明治時代には富岡製糸場の初代場町を務めました。
 
 
 
 
 
 
 
こちらが尾高惇忠の肖像写真。
 
 
渋沢栄一が主人公の「青天を衝け」では田辺誠一さんが尾高惇忠役を務めました。
 
 

 

 

 
 
 
 
 
 
この部屋で渋沢栄一は尾高惇忠から学問を学んだそうです。
 
 
 
 
 
 
右は尾高惇忠の娘尾高ゆう。
 
 
富岡製糸場の場町となった惇忠ですが
 
 
当時の若い工女さんがなかなか集まらない(富岡製糸場の設立に関わったフランス人が飲んでいるワインを血を飲んでいると誤解されたという噂もあったそう)中、
 
 
娘が自ら率先して製糸場で働き、工女さんたちをまとめる役割を果たしました。
 
 
 
 
そして左は惇忠の弟であり、後に栄一の養子となった尾高(渋沢)平九郎。
 
 
 
尾高平九郎は栄一がフランス滞在中に戊辰戦争で若くして戦死してしまいます。
 
 

 

 

 
 
この平九郎の写真が男前過ぎると話題になった事もありました。
 
 
この尾高惇忠生家を案内してくれた係の方も幕末では土方歳三に勝るとも劣らない男前だと説明してくれました。
 
 
他にも係の方が
 
 
「渋沢栄一は青淵さん(栄一の雅号)、青淵さんと呼ばれていたけど、気がついたら一万円になってしまいました(青淵≒千円。)」
 
 
なんてお得意のジョークも交えて楽しく案内していただきました。
 
 
 
また尾高家の家系図も説明してくれて
 
 
渋沢家が実業界に進む子孫が多い中、尾高家は学究肌・芸術家肌で特に音楽の世界で活躍する子孫が多く
 
 
尾高淳忠の孫は尾高尚忠は作曲家、その子(曽孫)の同じ名前の尾高淳忠も作曲家、その弟の尾高忠明は指揮者として
 
 
この「青天を衝け」のテーマ曲の指揮をしたそうです。
 
 

 

 

 
 
③に続く。