私は1997年のとても暑い日に愛知県の名古屋で生まれた。生まれたという知らせを聞いて姉と祖父母は喜んでくれたが、父親だけは違った。生まれると言っても病院には来ず、立ち会うこともなかった。実は父親は男の子が良かったのだ。しかし、生まれたのは女の子だったことから父親は愛情を注ぐ必要は無いという考えになってしまった。

 

 当時、3歳だった姉は妹が出来て喜んでいたが、決して父親の前では表情に出すことはなかった。1週間後に母親が退院して家に帰ってきたときも父親は見向きもしなかった。姉は祖父母の家に預けられていたため、怖い思いをすることはなかったが、父親が当時はかなり怖かったことは姉の脳裏に焼き付いているようだった。そして、その日から家族4人で過ごす時間が始まった。父親は自分の部屋から出てくることはなく、美菜子のお世話をすることもあやすこともしなかった。そして、朝食・夕食は子供達とは別で食べていた。それほど夏菜子と美菜子を嫌っていたのは当時からだった。

 

 そのため、彼女の散歩に行くときも母親、買い物に行くときも母親が娘2人を連れて行っていた。そんな生活が5年ほど続いていたときに待望の弟が生まれた。その時、父親は今まで見たことがない笑顔で息子を抱き上げたという。この時、姉は小学生、私は幼稚園生だったが父親の見たことがない姿に怖さを覚えた。その後も俊輝には愛情を注ぐが姉たちには一向に愛情を注ぐどころか虐待のような行為を繰り返していた。あるときは夏菜子に「プールに行きたい」とねだられたこともあったが、「その辺で泳いでこい」と言われ、夏菜子が友達にプール行こうと言われても行かせなかった。

 

 そして、彼女が高学年になっても父親の夏菜子に対する接し方は変わらなかった。そして、彼女が反抗期に入ったときには殴り合いの喧嘩をすることもあった。なぜなら、父親がいきなり娘達の行動に対して干渉するようになったからだった。例えば、門限は5時だったが、学校が早く終わり、遊びに行った彼女が帰ってきたのは6時だった。理由はお友達と遊んでいて、その日は次の日が休みだったため、みんなでお泊まりをしようということになったのだという。もちろん、当時は母親が良いと言えば問題が無かったが、父親には納得がいかなかったのだ。なぜなら、父親には泊まりに行くという考えを持っていなかったため、そこまでする必要があるのか?という疑問があったのだろう。そして、今まで何も口出ししてこなかった父親に対していらだちを覚えたのかもしれない。