若年層は決して諸待遇の問題で就職先が偏向化している訳ではない。現在はプライベートを重視する傾向にあるため、きちんと休日を取れること、飲み会や忘年会、新年会の参加義務がないことなどかなりハードルが高くなっていってしまう。それだけでなく、今の若い世代は“独立”や“起業”という自由になるための手段を確保しており、一定年齢以上になると“会社員”と名乗る割合が減少している事が分かる。もちろん、会社員のまま定年を迎える人も居るが、ほとんどは何らかのアクションを起こすため、一時的な経済悪化などの悪循環を生んでしまうこともある。そして、社会における生産性の低下にも大きくつながってくる。そのため、社員を失うことよりも社員を失って次のステップにどう向かっていくかが重要ではないだろうか?

 

 会社という組織である以上“利益優先”という考え方は少なからずあると思う。もちろん、利益が出なければ社員を雇用し続けることも会社を経営維持していくことも難しいのかもしれない。しかし、その考え方が最上位にどんと構えているような状態では好循環は生まれない。なぜなら、いくら利益を上げたとしても自らの給与所得には何の影響も出ない。それだけでなく、下手をすると賞与などにも該当してこない。そうなってくると、社員のモチベーションの低下だけでなく、時間をかけて世に送り出した労力などを評価することもないため、会社の利益として社員に還元されることもほとんどない。これは、裏を返すと“あなたを利用して、あなたのアイディアで稼がせてもらいました”という意図的な策略としか感じることがないように感じる。もちろん、会社は商品が売れることで信頼を勝ち得て、売り上げに直結させていくのだからこれらのプロセスを崩せない。しかし、働き方改革などで残業を減少させなくてはいけないという風潮であれば、少ない時間で大きな結果を求めたのなら、このような結果を生んだ社員に還元をしなくてはいけない。

 

 日本は労働対価を人件費という考え方をするが、安く働かせることで人件費が抑えられて、効率的に利益を生んでいると考えているのはグローバルスタンダードの観点から見てもあまり好印象を持てない。なぜなら、海外では従量労働制の導入、職種・業種問わず給与水準の統一化といった社員軸の考え方が根付いており、社員の頑張りを給与査定に組み込む場合が多い。そのため、社員の離職率は日本のように若年層の数字は流動的ではなく、会社の倒産などといった間接的な事由による失職という場合が多い。そして、万が一そのような事態に陥ってしまったとしてもきちんと生活水準は保証されるため、安心して仕事を見つけることが可能となる。今の日本にも失業保険などの何かあった後の保証はある。しかし、退職事由が“解雇”や“倒産”といったいわゆる“会社都合”でないとこれらのお金はすぐには出てこない。これが“自己都合”などの個人的な自由の場合求職期間が3ヶ月間必要となり、その間に就職活動をしていないと就職する意思がないとみなされてしまう。では、精神疾患等で退職を余儀なくされた場合には何も出ない。つまり、会社側の過失は認めないということになってしまう。さらに、一方的な退職勧奨や不当な解雇などをされたとしても自己都合にしてしまえば会社は責任を負わされることはない。

 

 現在はこのような行為をしても労働者側では泣き寝入り、会社側では行政処分を含めた社会的制裁を受けることはほとんどないという安心感。その状況が日本では日常化していてあまり問題視されていない。そのようなこともあって、全ての起業ではないが、未だに残業をこなしてもサービスになっているもしくは時間操作を行われているなどにより、労働搾取の状況になる。そして、残業時間の認識のズレから本来もらえるはずの残業代を含めた給与が減額され、年末に年末調整と源泉徴収で労働基準監督署に提出した数字を実労働分は払っているように記載し、実際にもらっていない額から税金を徴収されるという税金額が不釣り合いになっている場合も少なくない。そういう事態をすればするだけ、公には出ないが、国税庁や労働基準監督署などからの監視の厳格化や臨検実施時の検査基準の変更などを誘発させる事態になってしまう。

 

 これから社員は減少傾向になっていくだろう。そうなったときに国や労働組合などの労働者を守る側の人間がそれらの問題に対してどれだけ真剣になって、状況の改善や会社特権のコントロールなどをしていくかが重要で、会社を“守る”のではなく、会社を“活かし、成長させる”事が大事だろう。

 

 よい人材に長く努めてほしいと願っているのであるのなら、これらの問題を自ら引き起こさないことが重要だと思う。