ー高校校歌の調べから走馬灯ー

小学校から中学へと順調に過ごしてきた自分たちも中学2年あたり反抗期

に入り様相が一変。昭和38年全国に愛護班(目的は青少年非行対策)がで

きた時代である。

 

ー中学2年の時、「送辞」を読むー

中学2年の時、卒業生を送る「送辞」を読むことに・・・・

筆書きのつづら折りになった見本を渡された。「桜咲く・・・」の始まり

が定番だが、僕は「おかしい!卒業式辺りは桜はまだ咲いていない。

モクレンの花だ!。」

で、「もくれんの花咲く・・・」と始める。しかし、あと続かない。

常識のない当時・・自分なりに悩んだのだ。第一、筆で書くなんてできや

しない。卒業式が迫ってくる。困ったあ・・・。

 

ある朝、目を覚ますと、きれいに筆で書かれた「送辞」が枕元に置かれて

いたのだ。これはパパやママの仕業では絶対あり得ない。

残念ながら、尋常高等小学校しか出ていないわが両親に筆書きの完成品は

書けない。一瞬で他のことを考えた。話はもうひと超えしている、近くに

中学の教員していた人がいる。

 

おそらく、いざとなったら人にひれ伏すことのできる母親が夜の間に無理

に頼んでくれたものだろう。いかに先生といっても筆書きだから、突然夜

のことだし、大変だったろうと思う。

 

僕には、四柱推命でいう「印綬」という星がある。簡単に言えば、「困っ

た時に人が助けてくれる」という象意だという。社会人になり、通信占い

で東京の易者に診断してもらった時はじめて知った。

このことは、後に今治市で街頭易者に見てもらった時にも手相を見て言わ

れたことがある。

今、思えばその「送辞」のハプニングもそうなのかも知れない。

なんとか卒業式典は終わった。

 

ー非情な卒業式の出来事ー

自分の中学卒業式、2年夏ころから学校は異常事態に、3年は意表をつ

いて後ろから殴られた担任がさっぱり出てこなくなった。

級長の僕は決していい立場ではない。まあ、軍隊帰り、親父の仕事が漁

師してたせいだろうか?幸い、やつらに殴られたことはなかったのだが

恐怖の日々だった。

 

卒業式当日、インフルエンザで高熱、出席できないというハプニング。

午後、同級生の一人が家に来た。ワルに殴られて式に出なかったと勘違

いしたようだった。そう思われても不思議ではない学校の状態だった。

 

ー荒れた中学から静かな高校へ入学ー

そんな、灰色の中学から入学できた高校は、元県女、今治北高等学校だ

った。地獄から天国に入った。

 

あっという間の3年間。

 

娘も北高を選んだ。娘は運が強いところがある。

今治北高は高校野球が強い強いと言われながら甲子園に行ったことが

ない。

娘が高2の時かな?北高野球部史上、初めての選抜出場の夢がかなっ

たのだ。ということで娘も応援のため甲子園に行くことになった。

 

ー選抜出場の発表のセレモニー

そもそも、その出場発表なんだが、ある日、全校生徒が校庭で大きく

円陣を組んで待機させられたそうな。

すると、バリバリとヘリが上空に飛んで来て、いったん、高校裏の姫

坂山に隠れ、再び校庭上空に飛んで来た。

 

じょじょに高度を下げてきた、不思議そうにじっと見つめる高校生た

ちの真ん中に、巻物をポトンと落としたという。

そして、その巻物を、毎日(僕は「朝日」じゃないかと思うのだが・・

)新聞松山支社長が「選抜出場・・・」と読み上げたんだと。

 

「うち、とんでもないとこへ行くんじゃわいと思た!」と。

 

普通、テレビなんかでは、校長が電話を受ける風景が放映されているの

を時々見る。

 

娘、いざ甲子園へ、後に曰く「みんな必死の応援で、うち死ぬんじゃな

いかと思た!」と。

 

その北高のことをふと思いだし、校歌を口ずさんでみた。二行しかもう

覚えていない。

 

  げに逝く水や、浅川の〜

        岸の若草、丈のびて〜

 

北高の近況Youtube探してみた。応援風景はあるが、吹奏楽部の定期

演奏会でも、他のイベントでも校歌をうまく撮影したものが見当たら

ない。かくなる上はハーモニカでも吹こうか・・・とか。

’ひいき目に見て!’となるのだが、やはり’素敵な’メロディが記憶に残

る。