今日は、自分の人生で故郷の変貌について考え
てみます。
僕は、昭和23年生まれ、団塊の世代に入りますが、人口的には前年の22年生まれの方
が多いようです。
この世代も今は72才、71才であり、もはや社会の中枢的な役割を果たしていないわけで
す。「団塊の世代」と誇らしげにいうこともできません。今、老人施設が足りないと言われて
いますが、この団塊の世代はまだ、ほとんどが入所していないんじゃないかと思います。
もちろん、人生としては、配偶者に先立たれたという話は時々聞きます。しかし、体が不自
由で、もう施設に入らねばというレベルには至っていません。まだできる事があるんじゃな
いかと考えている人が多いと思います。
歌手の舟木一夫さん、昨年は73才、五木ひろしさんが、71才でした。一生の想い出にと
お二人を見にいってみようということで、ヨメと6、7千円くらいですか?夫婦で15,6千円
でしたが思い切って行ってみました。
驚かされたのは、もちろん二人別々のショーですが、双方とも1時間半ほど司会ナシでほ
ぼ、ぶっ通しで歌を歌い続ける体力があったということです。
いずれにしても、もう10年すれば、我々世代が本格的に施設に入ることになるかもしれま
せん。 ただ、医学の進歩は著しく、認知症の新薬が出たり、その他、老体を少しでも若が
えらせる新薬がでたりして、80才超えても、まだ、施設入所はあり得ないかもしれないし。
自動車免許返納の問題も、AI化がさらに高度に進み、自動運転がさらに進歩するとかす
れば、返納の問題はどうなるんだろう。 老人にフレンドリーな時代になっているかもしれ
ません。
僕はソフトバレーボールもやっていますが、そのコートで、80才の高齢女性が練習に参加
していますが、言いなれた仲なので、いつかリーダーがその女性にストレートに言いました。
「よい! 80才にしてはうまいぞ!」なんて。
将来の身の振り方はここまでにして、少し、人生振り返ってみます。 自然環境ですね、時
々思うことではあるんです。過去どうなっていたんだろう?って。自分の住む瀬戸内沿岸で
すね、今と昔、どう違っちゃったのか・・・と。 海辺で育ちました。
よく小説などに書かれてある表現に「潮騒」という言葉がありますが、海の潮が音をたて
るんでしょうねえ。 で、波がたてる音を述べているんでしょう。
僕が育ったところは、海岸は白砂(まあ、南紀白浜の砂とは質が違いますが。)でした。
人里離れたところには海岸に当時は見事な松の木が並んでいました。40年ほど前に日
本全国の松の木は「松くい虫」のため、ヘリで空中散布をしながらも壊滅状態になってし
まいました。 だから、その頃までは、「白砂青松」という言葉どおりでした。
現在僕の住んでいたところは川が埋められ、国道196号線が走っています。もう、田舎
のきれいな空気を吸うことはできません。
菊間町亀岡(伊予亀岡駅ってあります。)というところなんですが、太陽石油という会社
(東京に本社があるそうですからここは支社になるんですかね?)があります。
(写真はネットから拝借・・・国家プロジェクトで国内何か所かに
原油が地下備蓄されています。)
この写真の外、左斜め前方当たりに「じの鼻」という網代(あじろ=漁場)があります。そ
のあたりは深さ30mくらいか、磯があるんですね。当然、魚がそこに寄ってくるんです。
3トンか4トンくらいの一本釣りの漁船が7、8隻、錨を下ろし、船を固定し潮の流れに合
わせ、平行に並んで一本釣りをします。「マキ釣り」といっていましたね。
いつもすべての船は沖合を向いた側でエビや砂を潮の流れに沿って撒いて、釣り糸も、
潮の流れにまかせていました。
船の並び方は公平に毎日、順次沖合側から陸側に向かってずれてきます。
「ハマチ」は群れて泳ぐ魚です。いつか、ハマチの群れが船の周りに押し寄せ来て目ま
ぐるしく泳ぎ回ったことがありました。
エサは撒いているわけですから、それが目当てだったんでしょうね。僕は直径50センチ
ほどの網かごでハマチをすくいあげようとしました。 しかし、それを見たおやじに怒鳴ら
れたのを思い出します。
小学校3、4年ころまでは沢山ハマチも釣れました。帰りの船は、左右に船を揺らせなが
ら陸で待つ魚屋さんの所へ一目散。船を揺らせていたのは、少しでも魚の鮮度を落とさ
ないためだったと思います。
当時は、海は内海航路の大型船も多く行きかい、大変にぎやかでした。
上空には、当時、日本が独立したかその直後くらいで、アメリカのマークを付けた飛行
機が、観光でもしてたんでしょうか、僕たちの船の上空を回っていたこともあります。
また、豊かな漁場は他の所から越境ですか、密漁ですか、よくわかりませんが、よく来て
いました。当然、こちらはわが海を荒らされるわけですから、時には何隻かでそれらの船
を追いかけたこともたびたびありました。 しかし、遠方からくる漁船は一回り大きく、いい
エンジンを積んでおり、追いつける相手ではありませんでした。 まあ、追いかけるしぐさ
を見せるだけでしたね。それでいいんです。捕まえれば、その先は、どちらかがケガしま
す。
そんなにぎやかな海だった。 しかし、今、行き交う船は少ないです。瀬戸内海に3本の
橋がかかった影響は大きいと思います。
工場からの荷物、もう一つ、当時はまだエネルギーとして石炭の価値も高かったので石
炭船も多く航行していました。
瀬戸内海を行く石炭船は200トンから300トンくらいでしょうか?それくらいのサイズの
船が多かったです。当時の石炭船は帆を張っていました。
もちろん燃費を稼ぐためです。風が船の後ろから吹くときのみその帆を利用したんです。
ついでに、ふるさともう一つ紹介しますと、
下の写真、「御供うま」と言ってまだ小学生あがらぬ児童も馬を操るんですね。秋祭りの
呼び物になっています。
(写真はネットで拝借しました。)
話は戻りますが、
子どもの頃は、海が満ちてくるにつれ、潮の匂いと言うんですか、独得の新鮮な匂いがし
てきました。海にも匂いがあるんです。生きてる海の匂い。
また、地引網で、いかなご漁をすると、網が陸に引き寄せられ、たくさんのいかなごが網
に入っているのですが、そのまた匂いがなんともいえません。もちろん魚は、時間がたて
ばすぐに異臭を放ち、とても横にいられなくなります。
漁をすれば、すぐさま大きな湯釜にいれてゆであげます。そして、外に並べたムシロの上
にばらまいて干します。
小さいときは、漁をしてると両親も僕を一人家に放っておけないから、毎日船でした。嵐で
なくとも船はゆれます。揺れるだけじゃないんです。木造船だから、虫がつかないように真
っ黒なコールタール塗ってます。そのひどいにおいが重なり、毎日吐いていました。「リンゴ
食べたら気分がええぞ!」でも、すぐ吐くきます。
「陸(おか)を見よったら酔わんけん、陸をみより!」だめですね。吐いてばかり・・・・、
まあ、そのうち、酔うのは酔っても・・・・吐かなくなりましたね。
おかげでかどうか、小学6年の時の大分別府行で豊後水道、春一番で3000トンほどの
関西汽船が大揺れ、しかし、海上自衛隊の護衛艦、そんなに当時のことだから大きなの
はなかったと思いますが、嵐の中、悠然と浮かんでましたね。近くに、荒れる海に前進で
きない貨物船が漂っていました。護衛艦は、時化の中、貨物船をエスコートしているよう
にも見えました。 僕たちの乗っている関西汽船は、左側のバラストタンクに海水でも入
れてたんでしょうかね、別府に近くなるまで左側にひどく傾いたまま航行していました。
波をよけるためだったんでしょうか?
高2の九州方面への修学旅行、やはり、豊後水道の嵐にあいましたが。僕の周辺や、洗
面所はたいへんなことになっていましたが、僕は酔ってはいるんですが、吐きませんでし
た。
海、海上自衛隊の隊員の方も大変でしょうね、最初は・・・・・。
いつか、カンボジアのNGO派遣ですか、輸送船がマレーシア方面でめちゃ揺れて、隊員
の人たちも大変な目にあったとかいう記事読みました。大きな波の前には大型船と言え
どもやはり酔うんでしょう。・・・・・その後、輸送に使う巨大船も、波の影響を少なくするた
めの工夫がなされているという記事内容でした。
それにしても、瀬戸内海を行きかう船は激減しています。
船が遭難してもちょっと誰もすぐには助けにきてくれないだろうな!と小心者の考えるこ
とです。
お立ち寄りありがとうございました。

