自然環境もそうですが、現代科学が私たちの人体を奇妙なものに変形しつつあります。何がそうさせるのか。人の内面に巣食う飽くなき欲望やリビドー、生と性活動の衝動と現代科学が結びついた結果です。

 

 もともと男性と女性が同じリングでボクシングをするのは一種の虐待、歪んだ悪趣味でしょう。男性ボクサーが女性ボクサーに強打をくらわせるのは、プロボクサーが普通人に強力パンチを浴びせるのと同様、一発でも命を奪いかねません。だが、性転換して女性になった男が、オリンピックで女性選手に強打を浴びせ、命の危険を感じた女性ボクサーが40数秒で試合を放棄したのです。実に聡明で機敏に対応した、恐ろしい場面だったでしょう。

 

 心が女性なら、肉体は男性でも女性である。これを認めよ。この激しい欲求やリビドーのなせる要求が力をもって徐々に社会で通用し始め、手術による整形とホルモン剤の根気がいる注射で性転換し、めでたくXYからXXになったのですが、今やジェンダー問題が、オリンピックのボクシング・リングから世界に鋭く問題提起されたのです。

 

 男性同士の結婚、女性同士の結婚。同性の結婚も異性との結婚と全く同じように認めるべきである。いかなる性を選ぶかは個人の選択に任されており、結婚に伴う様々な権利も社会保障も同一にすべきである。この声が徐々に大きくなって来ましたが、私はこれらに一定の理解を持ちつつ、そこにさまざまな誤解、軋轢、混乱、行き過ぎがある気がしてなりません。

 

 自分の肉体的な性に違和感を抱いて性転換した人間が再び元の性に戻るのは許されるのか。個人の自由意思を優先する考えからは、それもまた許されるでしょう。だが性転換というのは国籍変更や、住所変更とは根本的に異なります。髪型と同じで、むろん自分の肉体をどのような外形にするかは個人の自由ですが、しかし科学の手を借りて外形を変更できたとしても、いったい新しい性別の自分と本当に和解できるでしょうか。多分そうすることですんなり自分を受け入れることができる人はあるでしょう。だが、そうならない人もあるに違いありません。性転換の道がベストの道と宣伝され、その大衆文化に乗せられる人がいる所に、私は現代人の奇妙な姿を見ないではおれません

 

 この問題には、性だけでなく自分という存在との和解というもっと奥深い根本的な課題が横たわっていると思うからです。男性・女性を問わず、自分という存在を承認し、肯定し、和解することの課題です。自分を喜び迎え、自分自身を感謝する課題でもあるでしょう。だが、今の肉体的な性に違和感を抱いているのは、実はその肉体的な性に違和感を抱く以前に、自分が存在することへの違和感があり、肉体的な性がその違和感を一層激しく見せているだけでないかということです。その場合は、たとえ現代科学の力で性転換を果たしても、自分という存在との和解という根本問題は解決されることにはならないのでないかということです。

 

 明珠在掌(みょうじゅざいしょう)という仏教語があります。自分に違和感があっても、実は自分の掌に実は他人にない希有な素晴らしい宝が宿っているから、自分自身でも違和感があるのです。だが科学の手を借りた解決は、折角の明珠在掌を無にしてしまわないかということです。それによって、光を放つ異才から光を奪い取りはすまいかということです。ここが科学的手段による性転換を、私がまだスッキリ納得できない理由です。それは下駄を履かせた偽りの自分を生きることにならないかと思うのです。

 

 私は性同一障害の苦しみを知りませんが、自分の知力、能力の低さに苦しみ耐えて生きて来た人間で、その劣等感ゆえの苦労と悲しさと涙を知っており、生まれながらの能力差を受け入れられず長年悩んで来て、人前で低さが露呈されると大人になっても顔が真っ赤になりました。だがある時、敢えてそれをも受け入れ、肯定し、負って行こうとしました。その苦闘がどんなに辛く、人に笑われ、理解されなくても、その涙は自分の涙であるゆえに意味があると信じたのです。そして何十年もして、やがてそこに意味があったと悟ったのです。性転換してやっと希望が訪れる人はあるでしょう。それはそれでいいでしょう。だが肉体的な性と違和感を持つ性同一障害である身を、これが自分だとして、苦労とはいえ喜びをもって負って行く道もある筈です。神に失敗作はなく、たとえ失敗作があってもそれを人間が敢えて負うことに必ず意味があろうと思うのです。明珠在掌を忘るべからず、です。

 

「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1章)

 

     8月7日