難民とか難民キャンプという言葉がよく聞かれる時代です。世界で1億3000万人をはるかに越えたのですからこれは当然のことです。ただ難民という言葉をひんぱんに使う日本人であっても、難民と呼ばれる人たちが実際にどんな中でこれまで住み慣れた家を後にし、ほぼ何も持たず、どんなふうに国境を越えて外国に逃げたのか、よく知らない中でこの言葉を使っている場合が多いと思っています。という私自身が、家をそのまま後にして、難民となって国外に逃げて行く人々の実際の姿がよく分かっていません。

 

それを初めて教えてくれたのが、知人のボゼナ・セインさんでした。ポーランドの東部の住み慣れたヴォリン郡シュトン村で農場を経営していた両親は、ポーランド西部から侵入したドイツ軍を逃れて、毎日一夜の休みと食糧を求める難民たちに食事を作って迎えていましたが、そこへ不可侵条約を破って、東からソ連軍が突然ポーランドを侵略して住民をソヴィエトに強制移送。生後数か月、ゼロ歳で、若い両親はたった25分の猶予を与えられ最小限不可欠と思えるものをできるだけ持ち、家畜移送用トラックに乗せられて零下40度になるシベリアのアーチャンゲルに移送されて難民生活を経験しました。その後、各地で様々な厳しい試練とまれに素晴らしい親切も経験しながら、2年半かかってウズベキスタン、タジギスタン、イランなどをさ迷いながらインドに着くのです。そして10年かかってオーストラリアのシドニーに着きますが、その間に両親が離婚するという生涯拭うことができないトラウマも経験しました。

 

彼女が書いた家族の歴史は、驚くほど悲惨な事実を伝えていますが、それと共にユーモアとウイットに富む彼女の筆致は素晴らしく、シドニーに至って少女時代を過ごすまで続いていて、15年ほど前にいただいたものですが、今もときどき繰って読み返しています。

 

それでも難民についていたって無知な私ですが、最近あるところで知り合いになったある方が勧めてくれた「マルカの長い旅」を読んで、目から鱗が落ちるような気がしました。これは実在の人物をもとに、ドイツ人作家のプレスラーが想像を膨らませて描いた小説ですが、2011年度の高校の部・課題図書になった作品です。当時のポーランドとウクライナの国境近くの田舎、ラヴォツネで開業医をしている母ハンナと長女ミンナと次女マルカの七カ月の難民物語。彼らはユダヤ人で、ドイツ軍が迫るなか、まさに何も持たずに直ちに嶮しいカルパチア山脈をこえ、ドイツ兵やユダヤ人に偏見を持つ人々の目を避けて、道なき山道を辿って隣国に脱出する物語ですが、7才のマルカを信頼できるポーランド人に一時的に託したことから離ればなれになり、やがて母ハンナが偽造IDを得て勇気を奮い起こして地元に戻り、逮捕を恐れず勇敢にマルカを探し出すという息を飲む迫真のドラマです。後半は、ハンナとマルカの親子双方の視点で話が進んでリアルさが一層際立ちます。

 

恐らくこの課題図書を読んだ当時の高校生は多くの影響を与えられて、今30歳前後を過ごしているでしょう。私は、12月の章から最後までの旅の物語は、涙につぐ涙で、よくもこの訳者は多くの男どもを泣かせる女性に違いない(笑い)と思いました。恐らく知人になった訳者ご自身が、泣きながら、涙で文字が見えなくなりながら、感動で心を揺さぶられながら翻訳していたのでないでしょうか。

 

難民らのヒストリーはそれぞれ違って驚くほど多様であるに違いありませんが、難民のことを殆ど知らない私たち日本人が、難民の姿を知るために、ぜひ読んでおきたい1冊だと思いました。アッ、言い残したことが1つあります。昔、ユダヤ人はハイマート・ロス(故郷喪失の民)の民だと習いましたが、この本を読んでいて急にハイマート・ロスという言葉が胸に甦って来ました。

 

「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(マタイ2章)

 

            6月10日