料理の勘所は、恐れないこと、あわてないこと。恐れたり、あわてたりしなければ、たいていうまくいきます。主夫をして約9ヶ月、私が数か月で最初に見つけた勘所はこれでした。

 

むろん私だって料理のお手本を見ないわけではありません。今はインターネットがあるので、魚ならイサキの料理、金目やカレイの煮つけ、ムール貝のワイン蒸し、タイの塩姿焼き、あるいはまた夏ミカンのママレード、ザボンの砂糖漬け、さらには真鯛のカルパッチョなど、インターネットで色々お世話になりました。

 

料理は火を使いますから、例えばつい先ほど作っていたぶりの照り焼きにしても、湯通しなどや片栗粉での下処理の仕方、調味料の準備や、こんがり焼き目がつくまでの焼き方や調味料を入れてからの煮詰め方など、すべてあわてたり、教科書通りうまくいかないことの恐れを持たなければ、ちゃんとそれなりの料理が仕上がり、いや最高の料理に仕上げることができます。今ではこの照焼きは一番喜ばれるもの。そう、それ以上に絶品は真鯛のお頭の煮つけ。白髪の二人が頭を揃えて、「おいしいね」と言いながら目玉の脇の白身までしゃぶります。

 

途中でうまくいかない時は、本にはなくてもちょっと火を弱めたり、火を止めることもアリです。煮えた肉だけ鍋から一時外に出したりもアリです。料理を完全に教科書通りにしようと思うからあわてたり、それ以上に恐くなったりするのですが、教科書通りの料理を作っても本当の意味でそれが100点かと言えば、そうではありません。料理が楽しく、その前のスーパーでのお買い物が楽しく、今日は何を作ろうかな?と考えるのが楽しく、食材を見て今日はこれだと決めるのが楽しく、食卓に出して驚かれたり、食卓が明るくなっておいしく食べていただければ、それが満点じゃないですか。(……と私は思います。)教科書通りに微塵も間違いなく作らなければならないと考えるから、料理が負担になったり嫌になったりする気がします。

 

この9カ月で学んだのは、料理って芸術だってこと。教科書通りにある風景を絵に描いてもそれって芸術と言えますか。大抵ありきたりのつまらない絵です。料理もそうで、たとえばシュリンプのガーリック料理にしても、基本は変えないにしてもガーリックの量や調味料に変化をくわえることで、こんな味ってあるんだ、おいしい!と相手の歓声を得れば、それが最高の料理ってことです。料理は芸術なんです。色々と自由に手を加え、品を変え、味を変えて、時には世界でただ一つの料理をわが家のテーブルに出すこと。料理の途中で、ここであれを加えて見ればこんな面白い味になるかも知れないって思えば、頭の中で先ず推論して即実行すれば、案外面白い味ができあがるものです。恐らく絵を描くのも、作曲するのも、小説を書くのもほぼ一緒でしょう。その面白さに気づけば、もう料理から離れられません。ですから時には、朝早くからコトコトと包丁の音が聞こえ、午後11時半までキッチンに立ってしまう主夫が生まれるのです。

 

昔、私が一番苦手だったのは英語でした。文字通り教科書の英文通りを書かなければ満点はもらえませんでした。いわば東京から大阪に行くには東海道で行けば満点。中央本線で行ったり、新潟まわりで行ったりすれば大幅に減点され、普通列車の乗り継ぎでエンヤさ、コラさと行けばゼロ点になりました。ところがイギリスで知ったのは、ある文章でも無数の表現の仕方があることでした。だって日本語でも色々な言い方がありますから、色々の言い方があっていいのでした。それは私にとって英語への、大げさに言えば人生への開眼でした。中学、高校時代の英語の先生って、多分英語社会で一度も暮らしたことがなかったんでしょう。

 

料理を恐れないこと、料理を芸術のように思って色々とジャンジャン工夫して楽しむこと。……この料理の文章、走り書きのような書き方で、あまりおいしくお料理できていませんね。

 

「彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。」(箴言31章)

 

         1月26日