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       ウンターリンデン美術館にある受胎告知と博士たちの来訪のレリーフ

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                                     東方の博士たち(下)

                                     マタイ2章1ー12節

 

 

                           (3)
 博士たちは、王から星の現われた時期などを聞かれたとき、正直に答えました。またベツレヘムに送り出された時も、用心し過ぎて王の言葉を聞いてしまって警戒して出かけなかったのでなく、素直に聞き、素直にすぐ出かけました。

 すると、東方の星が先立って進み、遂に幼子のいる場所の上に留まったので、「学者たちは、その星を見て喜びにあふれた」のです。彼らの素直な心、その正直さに驚きます。まるで天真爛漫にはしゃぐ子どものようです。ここには、「蛇のように聡(さと)く、鳩のように素直な」人間の姿があります。もちろん聡さを軽視してはなりません。賢明に用心もしなければ宝物を持ってここまで来ることはできなかったでしょう。だが素直でなければどうしてキリストまでたどり着けたでしょう。それで彼らはキリストへと導かれました。神は、イエスを殺そうと企む王をも逆に用いられたのです。

 この「喜びにあふれた」という言葉は、前の訳では、単に喜びにあふれたでなく、「非常な喜びにあふれた」となっていました。私は、その方が原文に近いしいい訳だと思います。

 なぜ、それが非常な喜びであり感謝であったのでしょう。6節の引用は旧約聖書ミカ書5章1節からですが、元も言葉を変えて引用したものです。元のミカ書では、ベツレヘムは「ユダの氏族の中で最も小さいもの」となっています。博士たちは、ユダの氏族の一番小さい、取るに足りないベツレヘムの村に、救い主、メシア、偉大な王を発見したのです。御殿でなく、このような所に生まれた方なら、誰しもが制限されずにやって来て親しく拝めると思ったからでしょう。

 また、これは常識を越えた出来事であったからでしょう。彼らも、「ユダヤ人の王として生まれた方は」、当然エルサレムの王家にお生まれになると思ったのに、予想とはまったく違って低い所のお生まれであった。これは神の素晴らしい業としか言えなかったからでしょう。人の予想や推理を越えた神の見事な業に  ……以下省略



                             2007年12月23日


                             板橋大山教会   上垣 勝