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一切の装飾を排したこの教会は、中世以来カトリックの中で大きな影響を与え続けました。

                  それがこのホントネー修道院。

     聖ベルナルドスは後のプロテスタント教会のようにマリア像も排除しました。

   1100代に造られた修道院には畑だけでなく溶鉱炉もありました。「ほんとネー?」

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                              知と愛(上)

                              Ⅰコリント信徒への手紙13章1-3節

 

 

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 著者のパウロはこの手紙を通して、教会とは何か、私たちは信仰生活を共同でしていますが、教会共同体とは、信仰共同体とはどういうものかを語っています。

 そのことは1章からすでに明らかで、洗礼を受けてキリスト者になることを、「キリストに結ばれる」という言葉で言い表わしながら、キリスト者一人ひとりはキリストの手や足、目や耳などキリストの体の各部分を形づくっているという譬えを用いながら、「皆、仲たがいをせず、心を一つにし、思いを一つにし」なさい。自分勝手なことを言わず、「固く結び合いなさい」と勧めました。今日の少し前の12章27節には、「あなたがたはキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です。神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました」とあるのもそのことを語っています。

 今から1500年ほど前のドロテウスという信仰者は、私たちは中心を持つ円のようなもので、一人ひとりはいわばその円周に立っていると言うのです。それで、それぞれが円の中心であるキリストに向かって進めば進むほど互いに近づき、心と思いを一つにした交わりを持って固く結び合っていくと語っています。

 教会共同体の中心におられるキリストは、私たちに自由をお与えになる方です。キリスト教の救いとは、自由にされることだとガラテヤ書は語ります。ただ、キリストの与える自由は自分勝手とは違います。自分勝手というのは、キリストが中心にならず、自分が中心であり、自己中心だから自分勝手なのでしょう。何が中心かは極めて重要です。

 会社は営利追及のために一丸となって働きます。  ……以下省略



                                2007年12月9日


                                板橋大山教会   上垣 勝