母が亡くなりました。
通夜と火葬は終わり、あとは追悼式が残っています。
先週の初めまでは意識もはっきりしており、何とか話もできる状態だったので、もう少し持つかと思ったのですが、
「病魔」とはよく言ったもので、階段を駆け下りるがごとく衰弱し、70年の人生を閉じました。
母がエホバの証人になったのは、家に訪ねてきた伝道者から雑誌を受け取ったのがきっかけだったそうです。
ほどなくして研究が始まりましたが
「急がないと間に合いません!」
という司会者の叱咤激励により、週に2回研究していたと聞きました。
そして、1975年にバプテスマ。
以来、エホバの証人の道を、まさにわき目も振らず突っ走ってきました。
はっきり言って、いい思い出はあまりありません。
子どものころ褒められたことはほとんどないし、JWの活動への不満を少しでも口にしようものなら、目を吊り上げて間髪入れず叱責されたものです。
「ムチ」は皮のベルトか、プラスチックのふとんたたきで5発と決まっていたので、それほどひどいものではありませんでしたが、どうしても、「鬼の形相」のイメージが強く残っていますねぇ。
母は、自分の研究生に対しても、決して甘やかすことなく厳しく指導していた姿も記憶にあります。
まあ、そういう時代だった、ということもありますけどね。
わたしが小学5年くらいのころだったと思いますが、家事もそこそこに、毎日のように伝道に出かける母の姿勢に、当時は黙認派だった父もさすがに不満が募り、わたしと弟に対し
「お母さんには、エホバの証人を辞めてもらいたいと思う」
と告げたことがありました。
それは子ども心にも納得したのを覚えています。
家庭を顧みるより伝道優先。
正規開拓者として、そんな生活を長きに渡り続けてきました。
なかなかいいことが思い浮かばないので、これ以上は書きませんが、さすがの母も、歳をとってから少~しは、まるくなりました。
それでも
「エホバだけをしっかり見ていればいい!」
という信念だけは何があろうと決して揺るがず、それが会衆の皆さんにとっては「忠実さの立派な模範」として励みになっていたようです。
たしかに、母は会衆内でたいへん信望を集めていました。
わたしは残念ながら、母に愛着を感じることがあまりできなかったのですが、特にこの2週間ほど、病室で長い時間をいっしょに過ごし、背中をさすったり、手を握ったり、声をかけたり、よく眠っている様子を見て安心したりしながら、もう一度、元気になってほしい、と願いました。
母にとっては、かつて反対者だった父が、7~8年前だったかにバプテスマを受けたことで、これまでの苦労が報われたことでしょう。
夫婦でエホバの証人として歩めることが、生きがいだったでしょう。
それでもいいから、ペースを緩めて、ふたりでゆっくりしてほしかったなぁ。
退院したらおいしい魚を食べたいと言ってたらしいので、プレゼントしたかったなぁ。
今まで苦労した分、これから楽しく過ごしてほしかったなぁ。
それがかなわぬまま、旅立ってしまいました。
最期まで、毅然としてエホバの証人であり続けた母。
そんな母の息子は二人とも組織から離れましたが、母のおかげで、この世に生を受けました。
できるだけ健康で、まじめに、楽しく生きていきます。
それが、母に対する最大の感謝だと思っています。