真面目な人ほど生きづらいのはなぜか? | 自分の心にまるをつける 心理カウンセラーまるやのブログ

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2020年5月7日第一子誕生、重い先天性心疾患を持つ。親として我が子の生命力を信じていきます。

「真面目な人だと思ってたんですけど・・」

「勤務態度は真面目で無遅刻無欠勤でした」

「ちゃんと挨拶もして真面目な印象でした」

 

これらは事件を起こした加害者に対して知人、近隣の人が多く口にする言葉だ。

ニュースを取り扱うメディアも、この言葉が欲しいんだろうなとさえ思う。


「あいつは必ずやると思ってましたよ」なんて言葉はほとんど目にしたことがない。

 

「真面目な人がなぜこんな酷い事件を起こした?」

つまり、

真面目な人なんだから悪いことはしないという大前提があって、驚きをもって報じているわけだ。

 

こういうニュースに僕はいつも違和感を覚えていた。

真面目な人はいつも正しく、優しく、人畜無害というレッテルを貼られているようで、絶対に道を外れないだろうという無言のプレッシャーが真面目な人を余計に追い込んではいないかと。

 

なぜそう思うかというと、僕自身が過去、周りから「真面目だね」と何百回も言われ続けてきた。

自分自身もそうだろうなと思っていた頃、その言葉は全く嬉しくはなく、むしろちゃんとしなくてはという圧力に、息苦しさを感じていたからだ。

 

過去の僕は確かに苦しんでいた。


真面目にやっているのになぜ報われないのか?楽しくないのか?

不真面目なあいつがなぜチヤホヤされるんだ?おかしくないか?

 

まさに怒り心頭だった。

 

常識、世間の目、ルール、こうあるべき、公平、正しさ、誠実、立派、不正は許さないetc、僕を含め、真面目な人は一見するとまともであるこれらの言葉に、忠実に従っている。

 

するとどうなるか?

 

自分にも他人にもその基準を当てはめてしまう。

真面目の烙印に、それ以外の行動が何かいけないことのように感じてしまう。

 

それの何がダメなのか?

 

世の中、社会には理不尽な面がある。

 

身を粉にして一生懸命働いてもパワハラを受け病んでしまった。

人手不足の介護職で頑張っているのに、生活するのがやっとの収入。

真面目にしているのに面白くない奴と言われ孤立している。

 

逆に、

道端にゴミを捨てる奴でも高級車に乗れるぐらい収入を持っているケースもある。

浮気、不倫を繰り返してしても、周りから人気者だったりすることもある。

国民のためと言いながら自分の懐を厚くしている政治家もいたりする。

 

つまり、真面目にしていれば報われるとは限らず、ふざけていても報われることもある。

 

むしろ自分の体験からも言えるが、真面目な方が【心の制約】が多すぎて、思っていても動けないことが多い。

 

バカなやつほど成功するという本や格言があるが、それは常識、ルール、世間の目などを気にしないことによって、自分らしく好きなことを進められるという大きなメリットのことを指しているのだと思う。

 

こうなってくると正直者がバカをみる。

真面目な奴は損をする。

というような言葉が真実味を帯びてきてしまう。

 

じゃあどうしたらいいのか?

 

僕の中の答えは、真面目で損していると感じる部分があるのなら、それは不必要と判断し、勇気を持って捨てていくことだ。

 

僕は昔、真面目を絵にかいたような人間だったので、高校も大学も誰よりも早く教室へ行き、視力が悪いせいもあったがなるべく前の方で授業を受けていた。

その代償のせいなのか、冗談も言えない、クソ真面目さが原因で友達が全然いなかった。

そしてチャラチャラしてるやつが大嫌いだった。

当然だが彼女などできるはずもない。

 

しかし、転機が訪れた。

 

大学一年のある日、相も変わらず前の方で講義を受けていると、僕と同じような真面目そうな男が、「そんな真面目に受けてどうすんの?とりあえず後ろの方にいこうよ」とすすめてきた。


初めて愛知県に来て右も左もわからない僕は、真面目そうだからという理由と、友達が欲しかった理由からその言葉に従った。

座席の法則のようなものがあるのか知らないが、後ろへいけばいけほど、私語は聞こえてくるし、不真面目なやつが増えていく。

最初はその雰囲気に違和感を覚えていたが、ある日僕は真面目を脱皮した。

といえばカッコよく聞こえるが、授業の途中に教室を出て、その真面目そうな友達とパチンコに行ったのだ。

今だから言えるが、出席扱いにして、途中で抜け出すなど不真面目な極みである。

他にもっと良い脱線の仕方がなかったのかと今になってみれば思えるが。

 

それでも何かから解放されたような気がした。

尾崎豊の15の夜のような青い春が3年遅れでやってきた。

そして大学生活が心から楽しいと感じ、心許せる友達もでき、僕の中ではデメリットを遥かに凌ぐメリットを手に入れた。

空の色がこんなにも青いものかと、その景色が今でも忘れられない。

ちなみに要領よく単位だけは取っていた。それも悪友のおかげかもしない。

 

客観的に見てみると、真面目な人は、面白みが無いとみられてしまいがち。

融通が利かないというか冗談が通じないというか。

それ故に、周りに人が寄ってこず、一人ぼっちになりやすい。

実際に、かなり真面目そうに見えていた人が大学に来なくなったということは少なからずあった。

悲しい事実だが、地方から都会の大学へ行き、そこでなじめずに自死を選んでしまったという話もある。

 

こうして書いていると真面目が悪いことように思われるかもしれないが、僕の言いたいことは真面目の程度が過ぎると、かえって自身を苦しめてしまうよということだ。


真面目を否定しているわけではないし、真面目で得している部分も僕の中ではちゃんとある。

 

しかしながら、これは重荷になると判断した真面目さを一つずつ捨てていったことで、僕の人生は明るく、そして楽になっていった。

 

そして何より劇的な変化は【他人を否定しなくなった】という点だ。

自分を緩めたことで、人のことがそこまで気にならなくなってきたのである。

不真面目な人に救われたかっこうだ。

振り返るとその友達も、真面目に息苦しそうな僕を不真面目にしようとしてくれていたのかもしれない。

 

時間に真面目な人は、時間にルーズな人が許せない。

常識に真面目な人は、非常識な行動を取る奴が許せない。

冒頭の〇〇を変えるだけで、大抵はその対極にあるものに嫌悪感をおぼえてしまう。

 

それは平たく言えば、「こっちは真面目に守ってるのに、何好き勝手やってるんだ」という怒りの感情だ。

そういう状況下では、心理学の言葉で「投影」というものが起こりやすい。

自分の中にある抑圧した感情を、相手への不快な感情を通してみてしまうということである。

 

一番初めに書いた、「真面目な人だと思っていた人が何でこんな事件を・・・」という世間の驚きの声は、僕に言わせてみれば、その真面目さがかえって危ないんだよと思ってしまう。

 

真面目に度が過ぎる人ほど、生きづらく、息苦しく、我慢し、他人に怒りを感じてしまう。

下手をすればその思い込みの強さで、他人に危害を加えてしまうかもしれない。

その怒りが自分に向き、自傷行為や最悪な場合自死を選んでしまうかもしれない。

 

芸能界でもなんであの人が・・・というケースも実際にある。

事件や悲しいニュースを聞くにつれ、何かもっと道はなかったか、もっといい加減になれなかったかと思ってしまう。

 

しかしながら人間はそう強くないし、人に頼ってはいけないと思う人ほど脆いものである。

 

だからこそ、真面目で苦しむ人は、真面目に真面目をやめてほしいと願ってしまう。

それで、苦しさが取れ、生きやすくなるのなら、重荷を投げ捨ててしまおう。

 

そんな時に、心許せる人、他愛もない話ができる人がいたら幸運だ。

一人ではどうしても視野が狭くなり、ネガティブな思考に支配されやすい。

 

誰かに話すことで楽になるという側面があるが、視野が広がるという大きなメリットがある。

そんな人が周りにいなければ、プロのカウンセラーに頼ってほしい。


「あなたは一人じゃない」


そんなメッセージが届けばいいなと願い、締めさせて頂きます。


長文を最後までお読みくださりありがとうございます。

 

最後は真面目に終わります。