【大峠をゆく・第2章】、北海道大ツーリング、第5回です
第5回目という事で、そろそろ中盤です。前回までの道東地区を離れ、旭川に着いたところまでが前作でした。そして今作は~・
旭川駅前の宿を出発、北へ向かいます
2011年の第1回で行った、最北の街・稚内へ、10年ぶりに目指すことにします
旭川鷹栖ICから道央道へ入ります
そして~
↑降りるのは終点、士別剣淵ICです。2011年のシリーズでも登場しましたが、ここがNEXCO管轄の高速道路で、日本最北端です
稚内へとつづく国道40号を走り、名寄市へ
同市へ入って早速、『道の駅 もち米のさと・なよろ』に寄る^
上川管内北部の主要都市・名寄の、いわば入口ですね・
地域FM局のスタジオが道の駅内にあります
名寄市内へ入ってきました。
モダで給油して・・
そして~
セイコーマートで小休止すれば・・
北海道ツーリングの気分満点w^
JR名寄駅へ来ました。ご存じ、宗谷本線の主要駅ですが、かつてこの駅からは、深名線(※1995年廃止)と、名寄本線(※1989年廃止)の2線が分岐していました。宗谷線だけの途中駅となってしまった現在の名寄駅、人影まばらでした・
・で、今作最初の見学場所なんですが、この駅のすぐ裏手にある、大きな公園です
その名も『名寄公園』、ホント駅のすぐ裏です。ここに、是非みておきたい”鉄道遺産”があるんです。早速行きましょう^
四季折々の花鳥、そして~
園中央には大きな池も配する、自然豊かな公園です^
”駅すぐの大きな公園”といえば、2019年のツーリング納めで行った栃木・矢板の長峰公園(※vol.329)とかを思い出しましたが、こういう公園がある街はうらやましいです・
↑公園のはずれ、懐かしの腕木式信号機が・・
↑SLと貨車等を繋いだ、5両編成にしてある車両が、この公園に保存されています。
この”編成で保存”というのが、ここの保存車両の「ミソ」になっています。
SL(※9600型)を先頭に、堂々たる姿のこの列車ですが、『編成の名前』があります。それは~
↑の列車、『キマロキ編成』といいます。
↑の現地看板に沿って説明しますと、この”キマロキ編成”は、排雪列車です
・雪国の冬、鉄道の除雪といえば『ラッセル車』をまず連想しますよね・・
しかし、北海道の内陸や東北・北陸等の豪雪地帯に於いては、雪をただ線路脇にかき分けるだけのラッセル車では、線路の横に”雪の壁”が出来てしまい、その壁が限界に達するとそれ以上のラッセル作業(かき分け)が出来なくなったり、雪の壁が線路に倒れてきたりと、ラッセル車での除雪だけでは追い付かない場合がありました
そこで登場したのが、『キマロキ編成』です
この”キマロキ”とは??という事ですが、これは編成車の仕様名からきています。
まず、『キ』は”機関車”の頭文字です。
そして特に、『ロ』と『マ』とは何ぞや?という事ですが、これは↓の表を基にひもときましょう
↑『マ』は”マックレー車”です。
マックレー車は、線路脇に溜まっている雪をかき集めて取り込む役割をしました。ラッセル車とは「逆」の発想で、キマロキ編成では雪を列車へ一旦取り込んだんです。
・で、取り込んだ雪は、その後ろに繋いだ『ロ』、ロータリー車が、その前部に付いている巨大な回転羽根でマックレー車で集めた雪を吹き飛ばし、線路脇の雪を遠くまで飛ばしていたという除雪方式です
そして、ロータリー車の後ろにもう1両、補機のSL『キ』が後押しし、深い山中の除雪作業で活躍していました。
これで、『キ+マ+ロ+キ編成』です
この4両に加え、作業要員用の車掌車(ヨ)を最後尾に連結した5両編成にしてあります。
キマロキ編成が編成ごと完全な形で保存されているのは全国で名寄のこの編成だけという貴重なもので、準鉄道記念物に指定されています
キマロキの意味が分かったところでw、改めて1両1両をみていきましょう
↑が2両目の、マックレー車です。黄色い帯は「65km/h以上で走行不可」の表示で、これは除雪車に限らず一般貨車にも用いられた表示です
左右のウイングは8m弱まで伸び、雪をかき集めて後方へ送りました。そして・
その雪を、↑すぐ後ろに構えるロータリー車に付いている・
巨大ロータリー羽根で雪をかき飛ばしていたんです
(※現地板によると、横方向へ約30m飛雪出来た)
中へ入れるようです
内装は木も使われている車内、ここで集雪の状況をみながら羽根の回転を操作していました
↑そして補機のSL『キ』、と車掌車です
豪雪地帯で、日本の動脈・鉄道を守るため、身を挺して雪に挑んでいたキマロキ編成・・ まさしく昭和期の輝かしい鉄道遺産、前述の通りかつては主要路線の十字路として鉄道の街として栄えてきた、名寄の宝です
高度成長期の日本経済を、縁の下から支えてきたキマロキ編成
↑保存場所をみると「屋根が付いてない」というのが、いつも僕が保存車両について書く”不安要素”ですが、名寄ではなんと、冬季には編成ごとカバーをかぶせて保存、春になるとカバーを外して見学できる状態にしているとの事(驚)
これ、一口に”カバー”といっても、SL2両を含む鉄道車両の編成ごとですよ、カバーを掛けるのも外すのも大変な作業だと思います・
高速道路でも積雪地帯では『梯団作業』といって、いろんな役割の車両が隊列を組んで除雪をやってますよね、あれの「鉄道版」と思ってもらってもいいと思います。
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名寄を出て、国道40号を再び北上
終点・稚内の地名も標識に登場しましたが、もう1ヵ所寄ります。
上川管内で最も北に位置(※中川町とともに)する音威子府村、宗谷線の音威子府駅に寄ってみます。この駅も2011年の第1回の際にも寄りました。10年間でどう変わっているか・・
国鉄コンテナの前にWo号を停め・w
駅へおじゃまします。↑「駅」ではなく「交通ターミナル」となってますが、バスターミナルも兼ねているためです
おじゃまします・
内部は10年前と、特に大きくは変わってないようです・
北海道の駅らしく、ストーブを備えた”小上がり”も
・そして、音威子府駅にある、↑鉄ちゃんにはつとに有名な2つのコーナーがあります。
一つは↑左側の”駅そば店”、そして右側の、”天北線資料室”
音威子府駅の駅そばは、かつて地元の人々や旅行客に人気を博していましたが、コロナ禍で昨年から休業。そして悲しくも、その休業中に長年店主を務められたかたが亡くなられ、今年(2021)正式に閉店となったとの事です。濃厚な味で有名だった「音威子府そば」を、駅ではもう味わうことはできません。
↑右の天北線資料室も、コロナ禍の影響なのか閉鎖されていて、寂しい駅構内となっていました・
ちなみに『天北線』ですが、この音威子府駅で分岐し、北東へ延び浜頓別でオホーツク海岸へ出て、南稚内で再び宗谷線と合流していた路線でした。
約150kmある長大な路線で、廃止日まで急行「天北」号が運転される等、地域にとって重要な足でしたが、国鉄解体という流れの中で、1989(平成元)年、あっさり廃止されてしまいました・
1912(大正元)年開業という、歴史ある音威子府駅、↑は駅に掲出されていた昔の写真、かつては駅弁の立ち売りがホームに出ていた程の賑いだったそうです・
↑現在の時刻表
特急が日2本(※宗谷/サロベツ)停車するのが、僅かに昔日の栄光をとどめています。しかし普通列車は名寄方へ日5本、稚内方へ日3本という寂しさです。シリーズ初回の網走駅でも書きましたが、この宗谷本線の名寄~稚内間も、JR北より「存廃について地元と協議したい路線」となっています・
・と、その時、ディーゼルカーの音が!
1日3本の稚内発の列車が入ってきました!
僕はこの宗谷線、学生の頃周遊券で北海道へ来た時に何度も乗りました。当時の宗谷線には夜行急行『利尻』もあり、僕は利尻のボックス席で背中を一晩直角にして(笑汗)、腰を揉みつつ朝の稚内駅に降り立った思い出があります
そんな僕の思い出も秘めた宗谷本線w、数分停車のあと、DCは軽やかなエンジン音を立てて名寄へ.去っていきました・
・僕は思うんですが、網走の回で出てきた石北本線や、根室への根室本線、そしてこの宗谷本線は、単にローカル線という事のみならず、国土保全という意味でも(※なぜ鉄道が国土保全に役立つかは、過去作で何度も書いておりますので割愛します)、必ず存続させないといけない鉄路だと僕は思います。
国は、これら路線の運命をJR北に丸投げせず、上下分離方式等しっかりとした財政的手当を行い、存続にむけ積極的に関与すべきと思います。GoToトラベルに何兆円も予算措置しているのなら、JR3島会社へその中のたとえ半分でも割り当てて、上記3線のような地方幹線をより魅力的に育てていけば、それが結果的には一番の『GoToトラベル』になると思うんですが・・
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音威子府駅をあとに、いよいよ稚内市へ、足を速めます^
天塩川を渡り、宗谷管内へ
日本さいはてへの”最終一里塚”ともいえる、北緯45度線通過
またまた前々回(2011)の話ですが、2011年ツーリングの時は、稚内へ入るにあたり日本海沿岸(※オロロンライン)にあったN45標識を見ましたが、↑今回は国道40号です
稚内市内へ入りました、10年ぶりの最果ての街です^
・↑この時、時間は午後3時頃、この日このあと特に設定している見学場所はなく、稚内駅を見たあと早めに宿へ入り、翌日早朝に宗谷岬へ廻るプランを当初予定していました
しかし、写真の通り青空に恵まれた一日でしたが、この翌日の予報が『雨!』との情報
なので、これから宿へ入る前に、今日これから宗谷岬に行ってしまおう!という事に急遽決め、↑の交差点から宗谷岬方面へ曲がることにしました
宗谷岬も前々回(2011)の時行ってますので、距離感も大体覚えてましたので、明るいうちに充分着けるのは読めました
2011年の時記憶に残っていたのが、稚内市内~宗谷岬間は約30kmですが、走っていて「あと5km」位のところで急に風が冷たくなり、信じられない程の温度差で寒くなった覚えがあるので、↑の地点で一旦バイクを停め、1枚多く着込む
岬へとつづくR238号を、日本最北端へむかって走ります
海側も山側も、一面の原野です。まさに最果てです・
↑の丘のむこうが宗谷岬です・
あと5km!
この時は、前述の2011年のような「急激な気温低下」はありませんでした。しかし岬に近づくにつれ、風が強くなってきて体感的には寒く感じます
↑岬に着くすぐ手前(※稚内市内側から)にある、『間宮林蔵樺太出航の地』碑。海のむこうはサハリン(樺太)です。
前作の網走監獄でも言及しましたが、樺太確保にむけ江戸幕府~明治政府はいろんな動きをし、紆余曲折の末日露戦争での勝利で日本は南半分を領有しました。しかし1945年の敗戦で放棄、それどころか北方領土もロシアに取られ、こと北の国境に関して日本は踏んだり蹴ったりの状態で今に至っていますね・
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ついに到着しました!
日本最北端、宗谷岬の駐車場です
まずは最北端の碑へ
樺太を見つめる林蔵さんも健在でした^^
やって参りました、2011年以来10年ぶりの、宗谷岬です^
↑日本最北端碑のプレート、前回なかった英文が追加されていました
碑のむこうは宗谷海峡、そして43km先は、残念ながらロシア領になっているサハリン(樺太)です
↑沖合には、”日本最北端の島”、弁天島が見えています
(※なお、「本当の日本最北端」は、現在ロシアが占領中の択捉島・カムイワッカ岬という事を申し添えておきます)
・で、ここまでは、2011年の時も紹介した岬の光景でしたが、ここからは、今回初めてのところですw^
宗谷岬、どうしても最北端碑がある海側にだけ注目しがちですが、実は反対側(※国道の内陸側)にも、いろんなものがあるんです
海と反対側を見ると、まず↓があります
宗谷岬灯台です
この灯台のある丘にも、駐車場があります
丘へ登る道があります、この上が『もう一つの駐車場』です
丘の上には、いくつかの碑や史跡があります
まず↑、旧海軍の望楼です(※稚内市指定文化財)
1902(明治35)年、ロシア海軍への警戒のため設置されました。バルチック艦隊もここから監視していたといいます。登れるようなので行ってみます
樺太千島交換条約によって宗谷海峡は「国境の海」となり、ここからロシアへの睨みをきかせていたんでしょうね・
明治期は偵察衛星どころかレーダーもなく、こうした哨戒施設が国の防衛で最重要だったと思われます
あと、上の碑も紹介しておきたいです。
これは、1983年に樺太西方海上でロシア空軍に撃墜されて墜落した、大韓航空機007便(※ニューヨーク発ソウル行)の慰霊碑です。
40代以上のかたはご記憶の事件と思いますが、1983年9月1日、途中寄港のアンカレッジを離陸した同機は、本来千島列島の南方沖を飛行すべきところ進路が北へ外れ、ロシア領空内へ侵入、樺太西方のモネロン(海馬)島付近でロシア軍機に撃墜されました。乗員乗客計269名全員が死亡しました。
この事件の詳細は、現在なお謎の部分が多く、乗客の国籍は日韓含め16カ国に及び、サハリンへ慰霊や原因究明に立入るのは困難なため、海馬島に近いここ稚内に慰霊碑を建立したとの事です・
あと、岬の灯台もみておきます
↑宗谷岬灯台です
当別荘毎度おなじみ、橙光会の看板によると・
言わずもがな、日本最北端の灯台、1885(明治18)年初点、道内では3番目に古い灯台との事。現在は無人で、内部公開はしていません。
初の”宗谷岬・丘上見学”でございました・
↑丘のたもとには2階建の『展望台』があります
ここも前回入ってなかったので、おじゃましてみます^
2階には望遠鏡のほか、↑写真にありませんが座席が並んだ一角もあり、悪天候の日はここから岬を望むのもいいかも
館内にあった、↑稚内市の観光ポスターのキャッチコピー
『旅って、こういう場所に行くことだと思う』
まことにおっしゃる通り、納得するしかないコピーです(笑)
10年ぶりの日本最北端、宗谷岬を満喫したところで、稚内市内へ戻ります。今夜は同市内で泊まります
↑の次の日は雨との予報、さぁどうなるのかw?次作はどこへ向かうのか?^^
今作ここまでです、次作をお楽しみに^
(※今作の内容は、前半のキマロキ編成についてが鉄的に重要な場面という事で、鉄道作に組み入れます)