今次の九州旅、これまで熊本・大分を訪ねてきましたが、今作では帰京前に飛行機の時間までにチョコっと.行ってきた福岡市の”能古島”へのバスをご覧頂きます
博多湾に浮かぶ離島、能古島ブラを付けます。九州初のバスブラ、よければお付き合い下さい^
(※ タイトルが字数制限いっぱいで抜けてるんですが、バスブラは今作で13回目です)
・福岡でバスといえば、日本一の規模を誇るバス会社・西鉄バスの本拠地ですよね・
当別荘では過去作から度々『九州では昔からバスが発達している』と書いてきましたが、これには西鉄バスの存在が大きく影響していると思います。
ではなぜ、西鉄バスが全国一のバス会社たりえているのか・・ですが、Wo的には次の2つの理由を挙げたいです
(※現在はバス台数や輸送人員では関東の小田急バス(グループ)に抜かれているとの事ですが、路線長や沿線面積、また地域的な独占性等からみて、僕は今も西鉄バス(グループ)が全国一のバス会社とみなしていいと思います)
まず①、都市間高速バスを昭和期から広く運行し、鉄道と同等の重要性がある交通機関として九州全体で認知されている事
・今は各地でみられる”都市間高速バス”ですが、これが全国に普及しだしたのは平成に入り、高速道路網が全国にほぼ網羅された頃からです。西鉄バスはそれ以前の昭和期から、九州各県の県都へ直行バスを運行していて、その実績とノウハウは他の追従を許さない程です
そして②、福岡市・北九州市という政令市2市でほぼ寡占状態での路線網を持っている点。
特に福岡市では市営バスが無く、地下鉄の開通も1981(昭和56)年と、政令市の中では比較的近年までなかったため、150万都市の交通網をほぼ独占状態。現在も多彩な路線網を維持しています
・一方、北九州市には市営バスもありますが、主に若松区等の西部地域がエリアで、市全体を網羅しているとはいえません。
一番需要の多い小倉地区等では西鉄バス中心です。かつて西鉄は門司から折尾まで貫く路面電車を運営し(※1990年代までに順次廃止)、それを引き継いだ路線網も有しています
・そんな西鉄バス^、同社の数多い路線からまずどこを取り上げようかと思ったんですが、今作では~・
『高速道路を走る一般路線型のバス』、これを今作テーマにします^
福岡市は福岡都市高速が縦横に整備され、そこを走る一般路線が多く設定されています。いつものように前置きが長くなってきたので(汗)、ここからは写真を出しながらいきます!w
ご存じ、JR博多駅です
九州の玄関口ですが、この駅の横には~
バスターミナルが入ったビルがあります。西鉄バスといえば天神駅のバスターミナルも大きいですが、この博多駅ターミナルもなかなかの規模です
ターミナルのほか、市内路線は駅前の路上バス停も多数乗り場があり、ひっきりなしにバスが行き交います
ターミナルは9階建ですが、バス乗り場は1~3階です(※他の階は店舗等)
これから乗る、都市高速を経由する系統は1階の5番乗り場からです
乗り場はビルの中、また到着時以外は自動ドアが閉じられ、外の専用道を走るバスが見えにくいため、接近がわかるモニター画面があります。こういうの、係員用に設置しているのは各地で見かけますが、「乗客用」は珍しい
本日乗る『のこ渡船場行』が入ってきました!
壁の自動ドアが開き、乗り込みます
ターミナルを出ると早速、朝の渋滞に巻き込まれる
他の系統と抜きつ抜かれつ走ります
高速入口が近づいてきました
呉服町入口から、福岡高速に入ります
吊皮も付いている一般路線型が、高速を走ってます^
この便ではいませんでしたが、通勤時間帯には立客も乗せたまま走ります。もとより、路線バスの客席にはシートベルトも付いていません。”大丈夫?”という素朴な疑問もあると思いますが・・
大丈夫との事です。高速といっても福岡高速は、東名や九州道等の『高速自動車道』とは別の枠組、首都高や阪神高速と同じ『自動車専用道路』という括りで、一般路線型の乗入は路線免許が認可されれば可能です。また、走行速度は60km以下に制限されているとの事です。
・では、福岡以外の他都市ではどうかというと・・
僕が知る限りの『高速を走る一般路線』現状です
・横浜市営でも以前、首都高へ入る系統があったそうですが、現在は廃止となっています。都内を走る京急バスでは、お台場へ行く系統で少しだけ湾岸線へ乗る便がありましたが、最近側道が完成し、入る必要が無くなったため現在はありません。
三陸を走る大船渡線・気仙沼線BRTでは、一部三陸縦貫道に入る区間があるとの事。また、大阪市や名古屋市バス等にも都市高速を走る系統がありますが、この両市では座席にシートベルトを付けた車両を使用。全国的には上記のような例があるようです・
しかし、まったくの一般型車がヒョイと突然料金所から高速に入り、しかも乗客数が多い路線を多数の系統・本数乗り入れているのは、ここ福岡が随一だと思いますね・
博多湾沿いを快調に飛ばしていきます
百道出口で降ります
百道周辺は福岡市が博多湾沿岸を再開発したウォーターフロント『シーサイドももち』地区で、福岡タワーやペイペイドームも当地にあります。これらを眺めながら、高速を降りたバスはゆっくり走ります
海沿いの住宅地をマメに廻ったバスは、終点・のこ渡船場へ近づきます
着きました!終点・のこ渡船場です。ここには西鉄バスの車庫・営業所が併設されています(※後述)
そして、停留所名の通りですが、バス停の前には~
能古島へ向かう、港があります
姪浜港です
福岡で市営交通といえば地下鉄だけと思いきや、この能古島への渡船も市が直営で運航しています
小さなフェリー、↑”フラワーのこ”がピストン運航
出航しました!10分程の小さな船旅です
出航してすぐ、もう能古島が大きく目の前にw^^
海の中道も遠くに望み、博多湾に包まれるようにすすむ
能古島港、到着です^
上陸!
まずは同島の概要から
↑能古島(のこのしま)は、姪浜港から僅か1km程、博多湾に包み込まれるように、ほぼ中央に位置します。1941(昭和16)年に早良郡能古村が福岡市へ合併。現在は西区に属します。島は豊かな自然と歴史が感じられ、政令市でこんな至近距離の離島は他に例がないと思います・
・では、『どう歴史豊かなのか』を、これから歩いてみます
港の前には開放的な雰囲気の売店や食堂があり、手軽に離島気分が味わえます^^
港の近くに↑、能古博物館があるとの事。行ってみます
島の道をしばらく歩くと~
なにやら、屋根に覆われて保存されている遺構のようなものが・・
見学してみます
お~
陶器を焼いていた、登り窯でした
8室構造の連房式登窯で、全長22mに及びます。
(※福岡市指定史跡)
現地看板によると、”能古焼”は江戸中期~後期に同島で焼かれていた陶磁器で、同窯では有田焼系の磁器と、高取焼系の陶器の両方が製作されていたとの事。製品の破片等は同窯周辺から出土しているとの事ですが、完全な製品として保存されているものは稀少で、”幻の陶磁器”とも言われています
(※高取焼=玄人好みの茶器で知られ、風雅な雰囲気。かつては黒田藩の御用達でもあったとの事。現在も早良区内や筑豊地区でその技を伝える窯がある)
この窯の上の丘に、↑能古博物館があります
おじゃまします・
お~
悠久の歴史を語る、島伝来の史料の数々
・少なくとも弥生時代には既に人住があったとされる能古島、文献に初登場するのは天平期だとの事ですが、爾来、奈良時代には我が国最初の国家防衛制度『防人』がおかれたり、元寇の際には攻撃を受ける等、まさに日本の最前線という緊張の地でもありました。
また、江戸期には廻船の寄港地として繁栄しましたが、明治以降は鉄道開通により廻船は衰退、農漁業で生計をたてる一般的な離島となっていきます。近年では市街地に至近な地の利を生かし、福岡市民の手軽なレジャーアイランドとして親しまれています
また、同館が力を入れて解説しているのが↑、亀井南冥
(かめい なんめい 1743~1814)
同館パンフによると、姪浜で医者の家庭に生まれ、大坂で医学を修めた後、福岡へ戻り私塾を開設。その実績を福岡藩に評価され、.武士の身分を与えられる。藩校の館長(※祭酒と称していた)にまで抜擢されましたが、その後幕府が外国由来の学問を禁止した事で、南冥の運命も斜陽となっていきます。
その後館長を罷免され、.1798年には学問所が唐人町の大火で全焼。再建を許されず、家督を息子に譲り、晩年は再び父子で私塾で教鞭をとりつつ、論語の注釈書(※全10巻)を完成。しかし自宅の火災により1814年、死去したとの事です・.
学問所館長時代に、博多湾沖の志賀島で発見されたアノ『金印』を鑑定、歴史上貴重なものである事を世に知らしめたのはご存じの通りです
また、この『能古島』の名の由来、古来「乃古」「能許」等多くの字が充てられてきましたが、↑地図にあるように『残島』の名がよく使われていたとの事。この由来、神功皇后が三韓征伐から帰国した際、同島に住吉の神霊を残し留めたという神話からきているとの事です(※勿論口承の域を出ませんが)
↑ですが、元寇の際の、蒙古軍船舶の碇石だとの事です
同島の民俗行事等も細かく紹介、また↑、終戦直後に、当時存命だった女性から江戸期に廻船で栄えていた頃の話を聞き取った記録も展示され、大変貴重な史料が多数
・また、先程あった能古焼の登り窯、その周辺から出土した陶磁器の一部も展示しています。
同館、部屋がいくつかに分かれているんですが、ラストの部屋は~
「海の部屋」
博多湾に浮かぶ同島、古来海の玄関として重要な位置を占めている事は前述の通りですが、対岸の百道浜等ではヨットの聖地として数々の名選手を輩出してきた事でも有名です。この部屋ではその辺の事を紹介しています
前回の東京五輪に関する史料が豊富で、駒沢公園のオリンピック記念館にもないような貴重な品を間近で見られるのがgood
↑昭和期の百道浜
冒頭バス車窓からご覧頂いた、ドームもタワーも無い、ウォーターフロントのウォの字もない頃の、再開発前の砂浜です。沢山の人が海水浴を楽しんでいる様子がわかります
歴史を秘めた小さな島、能古島です・
なかなか充実の資料館でございました・
(※なお同館、本作では割愛しましたが別館もあり、先の敗戦後に中国や朝鮮半島から多数の引揚げ者を受け入れた経過等を紹介していました。博多港は、舞鶴港等を遥かに凌ぐ、日本最大数の引揚げ者を受け入れた港でした。太古から現代に至るまで、歴史の重要な舞台に立ち続けたのが、この博多湾です)
・戻りの船の時間まで、お寺と神社を1つづつ見ていきたいと思います
博物館近くにある、永福寺(※曹洞宗)
創建時は不明との事ですが、博多祇園山笠発祥の地として知られる臨済宗承天寺の末寺との事。江戸期までは、この後行く白髭神社の神宮寺と呼ばれ、宮司坊として同神社と密接な繋がりがあったとの事・
そして、その白髭神社です。
能古島の氏神として、先程博物館で紹介した『残の島』の由来となった神功皇后の残していった住吉の神霊が祀られる神社だという事です。天平期の創設という、同市有数の古社です。
時間がきました、港へ戻ります(※同島は本数少ないながら、バスも走ってます)
フェリー港は、漁港と併設
小さな船旅でございました・
能古島にわかれをつげます・
海上から見る、ドーム&タワーもまたよし
姪浜港へ戻ってきました
ではここから、本作の主題、西鉄バスに戻ります
港の前にある、西鉄バス能古自動車営業所
西鉄バス、九州北部全域に営業エリアが広がっていますが、郊外部は分社化している一方、福岡市中心部では今も西鉄鉄道直営で経営していて、全国的には大手私鉄でバス分社化がすすむ中、福岡でバスの存在が重要だという事を表す一端といえますね・
定期券等の窓口もあるほか、ちょっとした待合室も備わっています
乗り場からは車庫に停まるバスもよく見えますが、西鉄バスは近年、多数保有するバスの塗色変更をすすめていて、この日見た感じでも、もうほとんどのバスが新塗装(※白ベースに緑や茶色等の縦線が入ったデザイン)になっていました
・でも、僕の持ってる西鉄バスのイメージは~↓
↑です^^
サーモンピンクの横ラインが入った塗装、これが西鉄バスおなじみの色だったんですけどね~
(※↑は別の日に大濠公園付近で撮影、2021現在、まだ少数残っています)
・以前チラッと書きましたが、僕は若い頃、福岡に1年だけ赴任した事があります。博多区の百年橋通沿いに寮があり、博多駅からよくこの色のバスに乗ってました。69系統、百年橋通を通って西鉄平尾駅を抜け、桧原営業所まで行く便でした。就職して初めて遠方に転勤したのがこの福岡で、僕にとって特別な思いがある街であります。この色のバスを見ると、楽しくて苦しかった若い頃の思い出が甦ります。あれからウン十年、バスブラ13回目にして、ついに当別荘初登場となった西鉄バスです・
戻りのバスがきました(↑シャボン玉石鹸のラッピング車)
往路と違う系統で、この便は天神を経由します。帰りは天神で降りてみます
往路と同じく、つり革も付いた一般型車で、事もなげに高速へ登っていきますw
この便は天神北ICで降り、街中へ
おなじみ、天神の通り沿い、西鉄駅前で降ろされます
バスブラ2021、ここをゴールにしたいと思います
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そして、今次の九州シリーズ、全4作もここで『ひとまず』ゴールとしたいと思います。長い間ご覧頂き有難うございました。今シリーズでは、復興がすすむ熊本城を1回目におおくりし、地震と豪雨で被害を受けるも再開通を果たした豊肥本線・久大本線に乗って九州を大横断しました。ご覧になって頂いた方々に少しでも九州の隠れた魅力を知って頂き、コロナ収束後に訪れて頂ければ幸いです
・なお、上記に「ひとまず」と書きましたが、実は今年の九州シリーズ、続編を準備中です。次作から2~3作ほど都内等の作を挟みますが、その後再び、九州のある所へご案内したいと思ってます。いつ頃なのか?どこなのか?は、首を長くしてお待ち下さい^^