vol.291 梅雨の晴れ間を走る 信州 佐久ツーリング | 旅ブログ Wo’s別荘

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ある日、ふと思いました。

そういえばここんとこ、信州、ご無沙汰だなぁ・とあせる

 

という事で、Wo号で長野県入り、これまでの信州ツーリング作で空白だった、佐久市を中心に走ってきました。ではスタートです^馬

 

梅雨の晴れ間、風が爽やかな↑サービスエリアで休憩コーヒー

ここは~

上信越道・佐久平PAです霧

"佐久市"と聞いても位置がピンとこないかもですが、ザクっと言えば上田市と軽井沢の間位にあります。見所豊富な街との事で、これから廻っていきます^

上信越道を小諸JCTで分岐し、中部横断道で佐久臼田ICで降ります。佐久市への入口です右下矢印

 

今回そんなに綿密にコース組んでないので、とにかく目に留まった名所を、片っ端からみていきたいと思いますw

↑『日本で一番海から遠い地点』という看板に誘われて走ってみると、少し手前までで通行止でしたあせる

佐久市臼田地区、↑数々の名所があるようです星

 

まずは、新海三社神社へサーチ

集落の中に立つ、↑大きな鳥居。

広いけどやや寂しい^駐車場に、Wo号を停め・駐車場

↑案内板を見るとこの神社、大変な特徴がある事に驚きました。

お寺でないのに、”三重塔”があるというんですひらめき電球

早速見に行きます目

『三社神社』の名の通り、東・中・西の3つ本社があります。

祭神は、ここ佐久の開祖とされる神"興波岐命"を祀っていて、佐久総社とも呼ばれる、同市を代表する神社だそうですもみじ

そして、件の三重塔ですが、その3本社の、↑さらに奥手にありました。

お~

三重塔が建っていましたひらめき電球

念のため再度書きますがここ、神社です(驚)

5月upの兵庫・加西ツーリング(vol.285)で法華山一乗寺の三重塔を訪ねましたが、安定感のある屋根に、共通したものも感じました。

現地看板によると、この塔は平安中期(894)の建立との事ですが、肝心の『なぜこの神社に、こんな三重塔が造られたのか?』は書かれていませんでした(謎)

 

明治初年の神仏分離令の際に破却を命じられ、最大のピンチを迎えたこの塔ですが、神社側はこれは倉庫だと申し立てw、解体を免れたそうですあせる

 

その甲斐あって現在では国重文に指定されている、珍しい"神社の三重塔"です虹

・古来より地域の人々はもとより武将らの信奉も厚かったとの事で、武田信玄もここで必勝祈願したという話も残っているとか・

 

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次は~

千曲川に架る臼田橋を渡り、中心部へ向かう途中に~

橋のたもとに、小高い丘が。

丘の頂上へ、↑お稲荷さんへの千本鳥居がつづいています目

インスタ映えしそうな光景ですカメラ

臼田稲荷神社といい、武田信玄も崇敬していた古社との事カエル

又、臼田橋のたもとにあった↑橋の歴史案内板も興味深い。

戦前の木橋から戦後アーチ橋へ、そして現在の橋は2000(平成12)年に架替えた3代目だとの事です。橋マニア(?)必見の橋です^クリップ

臼田地区から、佐久中心部へ走ります。

佐久の旧市街、岩村田の街へ馬

まずは駅訪問から^

JR小海線・岩村田駅電車

JR小海線は、しなの鉄道・小諸駅と中央線小淵沢駅を結ぶローカル線ですが、全国JRで最高標高駅『野辺山駅』があり、鉄ちゃんのみならず一般観光客にも人気ですハチ

JR東も”高原列車の路線”としてPRし、イベント列車も走らせる等、地方路線活性化のモデル的な面もありますグッド!

そんな小海線、観光路線としてだけでなく、小諸・佐久地区で地域の足としても大切な存在です。

岩村田駅は有人、券売機2台やみどりの窓口もあり、なかなか元気な感じのローカル線ですしっぽフリフリ

(※同線は、佐久平駅で北陸新幹線とも接続します)新幹線

岩村田は、中山道次六十九次の宿場として古から栄え、廃藩置県の際には『岩村田県』として発足、ここ信濃東部の要衝でした。少し街ブラしていきます目

観光用に保存された街並というのはないようですが、所々に古民家が見受けられ、落ち着いた雰囲気です^

大きめなお寺を見つけたのでおじゃましてみます^走る人

竜雲寺(※曹洞宗)

↑山門が重厚な感じ。

本堂はまぁふつう、ご本尊は十一面観音だそうですが、閉じられていて拝めませんでしたあせる

なぜ、このふつ~なお寺を今作で取り上げるのかですが、"特別なもの"がこのお寺にはあるんです。

↑本堂の奥へ続く通路には、『信玄公霊廟』の額が・

同寺の伝えによると、ここで武田信玄が荼毘に付され、その遺骨が当寺で出土したというんです。(※但し信玄公の火葬地については諸説あり、ここで出土した遺骨は分骨されたものだという説もあります)

岩村田には、↑かなり大きめの商店街も女の子

冬は降雪する信州なので、商店沿道の覆屋根も雪国仕様になってました雪

 

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岩村田から南下し、佐久市の中央部・中込地区へむかいますDASH!

↑JR小海線・中込駅電車

次はこの中込地区の名所を廻りますリサイクル

佐久市役所も、中込にありますビル

中込駅から数分走ると、↑洋館建てが見えてきます目

この地に、我が国の学校で最も古くから現存している建物の一つ、旧中込学校があります本

 

当別荘では過去作で栃木・足利学校や岡山・閑谷学校を既に訪ねていますが、中込学校もそれらと並ぶ、明治期を代表する近代教育草創期の史跡ですキラキラ

見学します男の子

↑右側が管理事務所、チケットを購入すると、『まず↑左側の資料館を見学してから学校建物へお入り下さい』と案内されるグッド!

おじゃまします^あし

『教育県・長野』とも言われますが、ここの展示はまさにこの言葉を思い出さずにはいられない、充実したものでした本

1872(明治5)年、明治政府が学制を公布し、全国に学校設立が始まりましたが、当初全国ではお寺等に間借りしてスタートした地方が多かった中、中込は学制わずか3年後の1875(明治8)年、早くも洋館建ての校舎を新築。

長野県内で、校舎新築は中込が最初だったとの事です星

 

戦前の教具も数多く展示。

↑掛図とか、僕の小学校の頃も授業でよく使ってました(古)あせる

かなり貴重なものだと思うんですが、明治期の教科書等を原本で惜しげもなく大量に展示本

石炭ストーブやオルガン等、↑教室の名脇役もかたつむり

素晴らしいと思ったのが、建設費は全て地域住民の寄付で賄われたという事。

↑は、多額の寄付金を寄せた地区に対して長野県が賜与した銀杯と感謝状王冠1

又、学生の動向や財務関係の書類も多く保存されていました。日本の教育史を語るに資する第一級の史料だと思います。

↑こんな史料も。『落第生を慰める文』あせる

明治期は小学校でも落第があったそうです(厳)叫び

また、僕的に注目だったのは、教育史料館なのに↑鉄道に関する展示があった事ひらめき電球

先程来登場しているJR小海線の前身、旧佐久鉄道の史料が・電車

(※佐久鉄道については後述します)

 

つづいて、学校建物へ移動男の子

明治維新直後に建てられたとは思えない程、きれいに手入れされている旧中込学校キラキラ

(※国史跡・国重文)

中へ一歩入ると・

外観より広く感じます。校舎は2階建てです。

↑1Fは、講堂を兼ねた大教室本

当時の机と椅子が置いてあり、座らせてもらいましたが、メッチャ小さいです。現在の子供との体格の差を感じます。

5ツ玉算盤や石板も置いてあり、当時の雰囲気を出していました。

明治期は紙が貴重品で、ノートは高価だったため、授業は石板に書き留め、その都度消していたそうですメモ

つづいて2階へ右上矢印

2階はいくつかの教室に分かれていました。

校長室もあったりしますが、各室内はほとんど展示品で埋め尽くされています。

先程の資料館でも多くの史料がありましたが、この校舎にも当時の教科書や財務・人事等の帳簿が多数サーチ

松本市の開智学校とともに、教育県・長野の歴史をリードしてきた、日本有数の教育史跡ですキラキラ

 

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中込学校に隣接して、↑広い公園(※成知公園)があるんですが、ここで又、興味深いものを見つけましたひらめき電球

鉄道車両が保存してあるようですしっぽフリフリ

中込学校に鉄道車両があったとは、出発前に予備知識無かったので驚きました。

先程学校の資料館で「鉄道の史料がある」と書きましたが、その史料にあった、小海線の前身・旧佐久鉄道の実車が保存されていたんですベル

 

今作は鉄道作ではないので詳述しませんが、先に岩村田駅や中込駅をご覧頂いたJR小海線は、1915(大正4)年開業の佐久鉄道が淵源です。

↑は昭和初期に製造されたガソリンカーうり坊

ペアで国鉄時代の蒸機も保存。

↑ホームや覆屋根も付いている本格的な保存ぶりです。素晴らしいグッド!

 

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中込学校をあとに、アルプスの山並を背におき、しばしWo号で走りを楽しみます^馬

ラストは再び臼田地区へカメ

冒頭行った新海三社神社の近く、ここは・

『龍岡城五稜郭』です。

 

↑看板に"日本に二つ"と書かれていますが、ご存知・北海道函館の五稜郭とともに、日本で2カ所しか無い星形の城郭が当地にありますひらめき電球

駐車場にバイクを停めて歩くと、早速、その形がわかる所がひらめき電球

↑角が鋭角になっているお濠、明らかに一般的な城跡とは違う雰囲気です。

↑現地看板によるとこの龍岡城、三河奥殿藩(※現在の愛知県岡崎市付近)を支配していた松平乗が、幕末も押し詰まった1864年着工。完成したのは明治維新前年・1867(慶應3)年だったそうです。

 

幕末激動の情勢に鑑み、以前より当地にも領地があった奥殿藩は内戦激戦地となる恐れが多い東海道筋から、信州への藩庁移転を計画。既に開国していた日本では西洋の城郭事情も学ぶ事が出来たため、イタリア式の星形城郭を採用したという事です星

星形お濠の周囲を歩いてみます走る人

カクカクっと屈曲しているお濠が独特ですクローバー

しかし竣工が、明治維新の前年だったとは・あせる

ちょっと遅かった感もある龍岡城、1872(明治5)年の廃城令により、完成わずか数年で取壊しの憂目に。叫び

 

今では、お濠のすぐ脇まで↑住宅地になっています家

約7割程の濠が現存しているとの事。

廃城後、一時は大部分が埋められたそうですが、昭和期に住民が掘り起こして保存に努めたという逸話も残っているそうです。

民家の敷地ギリギリに、↑史跡指定の標石が・

繰り返しですが、我が国でイタリア式星形城郭で築城された城は、函館五稜郭とここ佐久の龍岡城の2カ所しかなく、国史跡に指定されている貴重な城跡ですキラキラ

五稜郭の濠の中にも入れます。

中はどうなっているのかというと・走る人

現在、五稜郭の中は小学校と神社になっていますが、当時からの建物が1つだけ、残っています。

 

その建物とは・

小学校の脇に、↑白川郷の合掌造りを巨大化したような大きな建物が。

これは・

この大きな建物、『御台所』といい、櫓の一つだったそうです。

料理をつくってた所ではありませんおにぎり

廃城令でほとんどの建物が取壊された中、この御台所だけは農機具倉庫として残され、その後隣接する小学校舎として使われたりしたので生き残ったようです。

冒頭で、新海三社神社の三重塔を『倉庫だ』と申告して取壊しを免れた話を書きましたが、佐久は、『倉庫』という言葉にだいぶ助けられているようですあせる

城跡の横に、小さな資料館もありますメモ

『五稜郭 であいの館』星

現地ならではの史料が見れるので、立ち寄り必須です^

見所豊富な佐久、僕も実際初めて廻ってみて、ホント"知られざる名所"の連続でしたグッド!

 

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時間となりました、中部横断道・佐久臼田ICより高速の人となり、帰京しますDASH!

 

予想以上にバラエティに富む名所がある、佐久市でした星

上田からも軽井沢からも近く、北陸新幹線からJR小海線という鉄道アクセスもあります。一味違う信州旅におすすめです^虹

 

 

 

 

 

(※2023.8 文一部修正)