今作は、新旧の”鉄分”が交錯する、本州・北のさい果て、青森を訪ねます^
今作前半は、いま次々と消えゆこうとしている『ブルートレイン』(寝台特急)への乗車記、そして後半は、津軽海峡を走る冬の風物詩、津軽鉄道・ストーブ列車に乗ります。早速スタートします
国鉄が解体され、JRへと転換された昭和の終り・
当時の国鉄は、JRへ移行するにあたって国民の理解を求めるため、新聞各紙に↓な意見広告を打っていました
『JRになっても運賃はこれまで通り、会社を跨ぐ場合でも通し計算です』や・
『複数会社に跨る直通列車は引続き運転します』
『全国規模の周遊券や割引きっぷも継続します』etc・
といった文言で、国鉄が無くなっても鉄道業務はこれまで通りなので安心してほしい、といったPRでした。
そして、その中にはこんな言葉もあったのを僕はハッキリ覚えています。
『ブルートレイン等の夜行列車も無くなりません』
これらの約束、JR転換当初はたしかに守られていました。
JR転換と同時に無くなった夜行列車はほとんど無く、当初しばらくは各地で引続き運行されていました。
しかしJR転換後5年経ち、10年経ち、15年経ち・と、経日するにつれ、雑草を少しづつ間引くように、廃止になる列車が出てきました。
そして2014年、気がつけばもう、夜行列車は全国で数える程しか残っていません
公的機関が、公器である全国紙で約束した事でも、ほとぼりがさめた頃を見計らって反故にしていくんだなぁ・というボヤキを前置きにしつつ、スタートします
そんな夜行列車の一つ、上野~青森間を結ぶ寝台特急『あけぼの』が今春で廃止になるという事で、『久々にブルトレ、乗ってみたろか』と思い立ち、先日行ってまいりました
かつては地平ホームから数多くの長距離列車が発着していた”北への玄関口”でしたが、新幹線開通後は上野発の優等列車も減り、今では"中距離快速電車"のターミナル駅といった様相です
しかしその、中距離電車ターミナルの地位さえ、近日開通する『上野東京ライン』によって危うくなろうとしています。
辛うじて常磐線の特急ひたちの発着があるのと、新幹線の駅が設置されたのが過去の栄光をわずかに伝えますが、でも次第に“上野駅から旅に出る”というのは、思い出の世界になるのでしょうか・
↑地平ホームの付け根のところに、歌碑があります。
石川啄木が同駅を謳った、“ふるさとの 訛なつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく”
東北や上越から列車が到着する度、この地平ホームに響いていたお国ことば、もう帰り来ぬ昔日の汽車旅を偲ぶよすがです。
そして、地平ホームの一番端にある13番線、これから乗る『あけぼの』等、現在残っている寝台特急は全てここから発車しています
↑写真は13番線の終端部ですが、そこに掲出してある編成表は『北斗星』と『カシオペア』だけで、あけぼのは載ってません。
廃止を見越してか?
↑は13番線の行先案内板、カシオペア・北斗星はつくり付けの文字ですが、あけぼの号は↑”シール”で貼った文字・
そんな、廃止を前にやや冷遇されてるあけぼのですが、人気は最近うなぎのぼり^
入線時間が近づくと、↓ホームには沢山の人が集まりはじめます。
20時59分、あけぼの号入線!
客車列車は、先頭の機関車が、後ろに沢山の旅客車を牽引して走る方式です。そのため、電車のように両端に運転台がありません。
上野駅地平ホームは”串型終端線”なので、客車は機関車に押されて、いわば『バック』で入ってきます。これ鉄道では推進運転といいます。
営業用線路で、乗客から至近距離で客車の推進運転が見られるのは、現在全国でも上野駅だけです。バックで入ってくる客車の先端には、後ろから押す機関士と無線連絡をとりながら前方の安全確認をする、”ラッパ屋”と呼ばれる係が乗っています
▽入線するあけぼの号動画です(※Wo撮影)↓
http://www.youtube.com/watch?v=8EHeeEl8coo (Youtubeにリンク)
久々に間近で見るブルートレイン、堂々たる姿に惚れ直します^
鉄ちゃんが一番集まってくるのは、やはり先頭の機関車。
途中上越線で山越えするので、↑勾配に強いEF64型です
国鉄当時からのヘッドマークもしっかり付けてあります。これも感激ポイントです^
(※ちなみに↑右端にも写ってますが、機関車付近にはロープが張られ、警備員が常駐していました。廃止日が発表された事で、特に週末は凄い人が撮影に訪れているとの事)
僕が寝台券をとれたのは↑6号車の『B寝台個室・ソロ』です
想像してたより車体の傷みも少なく、まもなく廃止とは思えない程の堂々たる寝台車
片側の端に廊下があり、2段ベッドが線路と垂直に並びます。
僕が乗る↑B個室は真ん中に廊下があり、両側に各個室のドアが並びます。なので寝台は、線路と平行に設えられています
個室内は↑んな感じ
勿論A寝台に比べると格段に狭いですが、でも横になってしまえば快適そのもの
その上、B寝台料金で“個室を占領”出来るため人気は高く(※というか、あけぼのの寝台券をとるのは各グレード共至難の業)、僕はこの寝台券とるため、仕事休日に発売開始時間に駅へ行き、何とか取れました(※寝台券はネット予約不可)
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そして、21時16分・
冬季は日本海側の荒天で運休もしばしばあるという『あけぼの』ですが、この日は無事定刻に発車!
Wo待望、ブルートレイン・ラストランの旅が始まりました
▽大宮駅へ到着する場面の動画(※Youtubeにリンク)↓
http://www.youtube.com/watch?v=GfsEKE8SLmU
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中の暖房と、外の寒さの気温差は段々大きくなり、窓ガラスが曇ってきました
オープン式B寝台なら、もう窓のカーテンは閉めておかないといけない時間ですが、窓ひとつ占有できる個室は、夜中でも自由にカーテンを開けられ、外の景色が見放題なのもメリットです^^
高崎を出ると眠くなってきましたw、寝台車の揺れに任せて、上越国境のトンネルを夢の中で越えます
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夜中、目覚めると~
↑窓の外はまだ漆黒、時計を見れば03:18、日付変わって最初の客扱停車駅、村上駅です。
寝ている間にもう日本海側、羽越本線に入っていました。
窓にはベッタリと雪が!
外は白銀の別世界になっていました。吹雪です
↑秋田駅06:38、このあたりで夜が明けてきました
夜中吹雪いて雪だらけだった車窓も、ようやく外が見える状態になりました。
▽秋田駅に着くところの動画です↓(※Youtubeへ)
http://www.youtube.com/watch?v=RPuHxYadKJQ
この雪のため、秋田駅着時点で約20分遅れている『あけぼの』、でも運休にならなくてよかったです
途中駅では、↑除雪機を使ってホームを除雪している駅員さんが見られました
↑弘南鉄道と接続する大鰐温泉駅、元東急の電車が雪の中頑張っていました
でも、全国各地の風土に適応して活躍する東急の中古車ってタフだなぁと思います
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・そして~
上野を出てから約13時間、約15分遅れましたが、夢の旅路を走り抜いた『あけぼの』号、雪の日本海沿岸を駆け、青森駅に到着しました
♪上野発の夜行列車降りた時から~、青森駅は雪の中ぁ・
の唄そのものの光景です^
上野駅を出た時、機関車はブルーのEF64でしたが、途中で交直流両用の↑EF81に付け替えられていました。
未明の日本海沿いを吹雪の中走り通したEF81、ヘッドマークが雪で隠れています
機関車は到着後すぐに切り離され、そのあとすぐ、↑客車は反対方向に引っ張られて車庫へ引上げてゆきました
案外片づけるの早め、もう少しホームで余韻の時間がほしかったです(笑汗)
あけぼの号、運転開始は1970(昭和45)年と、夜行列車としては新しいほう(?)のデビューで、当初は奥羽本線経由で運転されていました。
しかし山形新幹線や秋田新幹線の開通で奥羽本線が部分的に標準軌化されて乗入できなくなり、晩年は高崎・上越・羽越線経由という迂回ルートでの運転を余儀なくされました。そのため、上野~青森間の直線距離より大きくロングランとなり、12時間以上かかっています
かつて上野~青森間には、夜行列車銀座と言っていいほど沢山の夜汽車が走っていました
東北線経由の『はくつる』、常磐線経由の『ゆうづる』、また急行列車にも夜行が多数あり、十和田/八甲田/津軽号等、様々なグレード・経由の列車が多彩に走っていました。
しかし新幹線の開通とともに次々と消え、青森駅が起終点の夜行は、この『あけぼの』が最後となりました
車両の老朽化が激しいというのが廃止の主な理由なんですが、僕が乗った感想はホント滑らかな走りで、車内もきれいに整備され、そんなにガタがきてる感じはうけませんでした。ホント惜しいです。
今後は多客期に臨時としては運行するとの事ですが、過去廃止された寝台列車も大抵”この名目”で、その後数年、時たま臨時が走るくらいでフェードアウトしていっています。
あけぼのもそういう運命なんでしょうか・
あけぼの廃止後、残る上野発の寝台特急は北海道直通の『北斗星』と『カシオペア』のみとなりますが、この両列車も北海道新幹線の工事の進展とともに、数年後には廃止(※カシオペアは青函トンネル改造工事後に再開の希望もあり)の予定とききます(2014当時)。
特に北斗星の車両は、あけぼのと同系の車両を改造しただけのものなので、老朽化を理由に無くなる可能性大です・
日本鉄道史に輝く、一つの文化といっても過言でない”ブルートレイン”が、引退しようとしています。
多くの人に沢山の思い出を残し、寝台列車は忘却の彼方へ、旅立っていきます
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せっかく青森まで来たので、ここから後半は、津軽鉄道を乗りにいきます^
↑川部駅で五能線に乗換えます
津軽鉄道は、五能線の五所川原駅で接続です。
↑五能線を走る国鉄型DC・キハ40に揺られて約35分、五所川原駅に着きます
これまでツーリングで2回訪れている、↑五所川原駅です
(※2012.10のvol.123日本海縦断と、2013.8upのvol.150の三陸青森大ツーリングで立寄)
↑昨年ツーリング時の写真です。
雪が無いと、まるで別の駅みたいです
JR駅の左側には↑津軽鉄道の津軽五所川原駅、そのまた左横には津軽鉄道の本社があります。
(※以下、津鉄と略す場合あり)
いずれもコンクリート建ながら、昭和の薫り漂うレトロなつくりです
そして、津軽鉄道といえば~
これあと(※復路で)乗るのは、津鉄・冬の風物詩、ストーブ列車です^^
↑待合室掲示の時刻表、毛筆体で縦書き、なんとも懐かしい書式です
時刻表を見ると、終車が20時と少し早めですが^、約1時間に1本コンスタントに運転されています。お目当てのストーブ列車は日3本です
↑駅構内に入ります
駅はJRと同じ構内です。津鉄の改札は別にありますが、津鉄ホームへはJRの跨線橋を使って渡ります(※接続時間がない場合は直接乗り継ぎも出来ます)
往路は一般列車のディーゼルカーに乗ります。津鉄で自前発注した車だそうです
津軽といえばアノ作家・太宰治、という事で、まずは太宰の生家がある、途中駅の金木へ向かいます。
↑のDC、太宰にちなんで”走れメロス号”の愛称です^
後述しますが、津軽鉄道は今、観光開発に大変気合いが入っています。ストーブ列車はもとより、一般列車にも昼間の全便に、観光案内コンシェルジュの女性(※2014現在、計6人いるそう)が添乗し、走行中、津軽弁で地元ならではの沿線案内をしてくれます
(※車掌業務はせず、運賃やキップ収受、ドア操作は運転士が行います)
沿線は一面の雪、真っ白でした
雪のない都内から夜行で、一夜明けたらこの景色、まさに別世界です^
線路の両側↑に樹木が植わっていますが、津鉄保有の防風林(※鉄道林)です
津軽平野の地吹雪に耐えながら走る津鉄になくてはならないもので、JR以外の私鉄で自社鉄道林を持っているのは津鉄だけだとの事(※観光コンシェルジュさん説明による)
この防風林のおかげで、かなりの地吹雪が吹いても津鉄は滅多に運休しないそうで、普段車で通勤している地元の人も、吹雪が荒れて道路が危いときは津鉄を使うそうです
観光だけでなく、地元の人にも信頼されている津鉄、滅多に運休しない鉄道といえば、関東でいうと京急みたいな信頼感かも(?)
近年改築されたのか、真新しい駅舎でした
金木駅で、対向にストーブ列車と遭遇^
↑しかしなんか、編成が変・
機関車ではなく、DC1両が客車1両を牽引しています。JRではこんな編成まずあり得ません、これは珍しい^
この後、太宰記念館を見学した後に次便のストーブ列車に乗るんですが、これが来るのかな?
太宰記念館へ歩きます
金木駅から歩いて約10分、青森県2つの地銀(※みちのく銀・青森銀)が立ち並ぶ通りの向かいに、↑なにやら重厚な塀と屋敷が・
やってきました、当地で生まれた作家・太宰治の生家、太宰記念館・斜陽館です。
1907(明治40)年築、2階建(※1階11室、2階8室)、延べ床面積1300平米、総ヒバ造りという超豪邸・斜陽館です。
住宅だったとは思えない程豪勢な建物です。
受付をして中に入ると、↑まず目の前には広い土間(たたき)が・
太宰の本名は津島修治、そしてこの豪邸の主、太宰の父は津島源右衛門といい、金木きっての大地主でした。ぶっちゃけて言えば、太宰家は大金持ちだったんです
↑の土間は、米の収穫期になると、小作人が運び込んだ俵が、山のように積まれていたという事です
しかし1950(昭和25)年、太宰家はこの家を手放して人手にわたり、それ以降は旅館として使われていました。その時使われていた旅館名が、現在も使われている"斜陽館"の名前です。
(※旅館当時、↑の土間は喫茶コーナーとして使われてたとの事)
旅館当時の斜陽館は太宰ファンの聖地として宿泊客が多かったという事ですが、1996(平成8)年に営業を終え、建物は金木町(※現在は五所川原市へ合併)が買い取りました。
そして現在、太宰資料館・斜陽館としてリニューアルされたという訳です。
11室もあるという1階、↑各部屋にいろりがあるのが凄い
太宰は著書の中で「父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何もない、ただ大きいのである・」と書いています。
豪勢な大金持ちだった父に対して、繊細な文学者肌の太宰は、複雑な思いを持っていたんでしょう
1階奥にある土蔵の中が、太宰ゆかりの品などを集めた展示室になっています
(※土蔵展示室のみ撮影禁止でした)
太宰にはこの豪邸は居心地を好まず、東大入学とともに津軽を離れ、卒業後も金木に帰ることはなく、関東各地に住みながら文筆活動を行っていました。
「走れメロス」や「人間失格」等、数々の名作を著したのはご存じの通りです
39才の若さで愛人と入水自殺し夭折した太宰、今も多くのファンを持つ稀代の作家。その原点はここ、津軽でした
現在の受付がある向かい側、2階に上がる階段の付け根にあるのは↑『店』
太宰の父はここで金融業も営んでおり、その後様々な変遷を経て、先程太宰資料館の道向かい側にあった銀行、青森銀行金木支店がその金融業を引継いだという事です
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斜陽館見学を終え、金木駅に戻ると~
青空は消え、また雪が降り出しました
その雪の中、↓終点・津軽中里行のストーブ列車が入ってきました
先程、金木到着時にすれ違った際には無かった機関車が、ちゃんと連結されています
ストーブ客車も、往路すれ違った時は1両でしたが、↑2両に増結されています。かつて全国の国鉄線で活躍していた、いわゆる“旧型客車”です。
(※ストーブ客車乗車は、運賃と別に"ストーブ券"が必要です)
乗り込みました!
懐かしのボックスシートが並ぶ車内、まさに国鉄型です
客室の真ん中には、『ストーブ』が鎮座しています。これが見たかったんです^
実際見ると、TV等で見て想像してたより少し小さいストーブでしたが、石炭が燃料の本格的なダルマストーブです(※1両に2つあります)
ストーブ列車には、観光コンシェルジュさん2名、車掌さん1名、車内販売(なぜかおじさん^)1名、それに機関士さん、乗員総勢計5名もおられます。津鉄、力が入っています^
↑終点・津軽中里駅到着です
駅名標にもありますが、津鉄は“日本最北の私鉄”です。
以前は北海道にもいくつか私鉄がありましたが全部廃止されてしまい、この津軽の鉄路が(※JR転換3セクの道南いさりび鉄道を除けば)最北という事です
↑津軽中里駅も近年建て替えられたのか、コンクリートの近代的な駅舎でした
以前はエーコープ(農協スーパー)の店舗併設だったみたいですが、現在は地域のイベントスペースになっていました
津軽中里駅に停車中のストーブ列車
雪をかぶって、風情ある光景
↑2両のストーブ客車の前にもう1両、一般ディーゼルカーも連結されています。これ"地元の人用"で、一般車に乗ればストーブ券は不要です^
▽津軽中里駅の動画です↓(※Youtubeへ)
http://www.youtube.com/watch?v=7XRvfY_RbGM
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ストーブ列車は折り返し、五所川原へ戻りはじめます
コンシェルジュのお姉さん、ストーブの石炭の補充もするし、乗客の求めに応じてスルメまで焼いてくれますw
(※スルメは、車内販売のおじさんが売りに来ます。地元津軽で丹精込めてつくる逸品のスルメです)
僕は、車販で売っていた↑”ストーブ酒”で、雪景色を肴にチビチビいきます
▽雪景色の津鉄沿線の動画↓(※Youtubeへ)
http://www.youtube.com/watch?v=p_DUHmG_RJQ
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津軽鉄道、集客にかける”本気度”は凄いものを感じました。
津鉄、奥羽線や東北線から分岐しているのならともかく、接続が決して良いとはいえない五能線から分岐しているにも拘らず、厳寒の津軽半島にこれだけの観光客を呼び込んでいるのはホント凄いです
金木(太宰治)という観光資源があるとはいえ、ストーブ列車や鈴虫列車など季節ごとにイベント列車を売り込み、一般列車にも観光案内員を乗せる等”攻めの営業”に励む津軽鉄道。雪国を熱くしています^。地方ローカル鉄道再生のヒントが詰まっている気がしました。津鉄頑張れ!と言いたいです
弾丸ツアー、帰京の時間が迫ってきました
そして帰りは新青森駅から、↑日本最速・320km/h運転『はやぶさ』で帰京
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2014.3.14、ブルートレイン・あけぼのは廃止されます
↑の東北新幹線『はやぶさ』の名も、元々は東京駅~西鹿児島を丸一日かけて走っていた”寝台特急はやぶさ”(※2009年廃止)から譲り受けた名です。
消えてゆく列車、消えないで頑張っている列車、そして未来へ走る新幹線、3つの鉄道を一気に味わってきた弾丸ツアー、短い日程でしたが気持ち的にはかなり満足度高かったです。
知れば知るほど深い世界が広がる“鉄道”、ブルートレインは人々の心の中に、流れ星をひきながら走り続けると思います
(※2023.1 2024.6 文一部修正)