vol.114 2012ツーリング始め 兼 日本海縦断②&東北復興③ 男鹿半島(2) &八郎潟 | 旅ブログ Wo’s別荘

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 2012ツーリング始め、前作に続く後編ですグッド!

なお、前作と同じく『日本海縦断シリーズ/東北復興シリーズ』を兼ねていますが、前作と一体という扱いで、回数のカウントは進めない事としますクリップ

 

前作では、象潟から日本海に沿って秋田・男鹿半島まで走り、雄大な夕日を眺めたところまででした夜の街

 

今作では、”秋田といえばここ”ともいえる、僕がかねがね行きたかった場所へ初走行してきました。ではスタートです男の子
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JR秋田駅からスタートします電車

 

秋田駅といえば、僕は学生の頃、当時上野から出ていた夜行急行"鳥海"号ではるばる揺られて着いた記憶があります星空

↑現駅舎は近年改築された橋上駅で、僕の記憶の中の"国鉄秋田駅"は、もうありませんでした汗
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これまで、鉄道で途中下車する程度でしか知らなかった秋田市内ですが、初めてバイクで走ってみると、街が想像以上にデカくて、奥行きもある事がわかり、県都にふさわしい重厚な街並でしたひらめき電球

 

後で調べてみると、秋田市の人口は約32万人(2012)という事ですが、僕の印象では50万都市位には見えましたビル
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秋田道のICへDASH!

少し郊外に出ると、沿道に量販チェーン店が並ぶ、全国どこでも見られる光景になります^プレゼント
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秋田中央ICから2つ目、五城目八郎潟ICで降ります右下矢印
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これから目指すのは、ご存じ、広大な干拓地、八郎潟ですカエル
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その前に、JR八郎潟駅に寄ります。

秋田市から約20km北にある羽越線の駅です電車
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駅前には、先程のIC名にもあった、↑五城目へのバスが停まっていましたが、かつて八郎潟駅からは、このバス会社(秋田中央交通)が五城目まで、鉄道路線も持っていました(※1969年廃止)

 

駅前でバイク停めて撮影してると地元の若者が話しかけてきたので、試しに「五城目まで昔あった鉄道を知ってる?」と尋ねてみましたが、全く知らないようでした。世代ギャップを感じますあせる
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駅前にあった巨大な壁画は、この地方の祭り(※前出の地元若者の話によると、当地は盆踊りが凄く盛大だそうです)を描いたものですアート
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それではいよいよ、本日のメインへ星

日本最大の干拓地、↑八郎潟へ向かいますDASH!
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干拓地の中へと繋がる↑橋を渡りますDASH!

 

ちなみに、先程のJR八郎潟駅がある八郎潟町は、八郎潟の外側にある自治体で、干拓地の中は、『大潟村』という別自治体ですクリップ
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橋からは、↑干拓地の周囲に残されている、八郎潟調整池が見えます。地元では、"八郎湖"と呼ばれているそうです宇宙人
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橋を渡りきり、干拓地の中に入りましたカエル

なぜか、↑タイヤ人形が出迎えてくれるはてなマーク
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一度訪ねてみたかったけど鉄道では行きにくかった、八郎潟干拓地・大潟村、ついにWo号で初訪問DASH!
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大潟村(※干拓地の中)に入ると、ほぼ想像していた通りの別世界でしたキラキラ

"東北"というより、北海道に近い雰囲気を感じました。

一直線の道と広い区画に仕切られた圃場が広がりますクローバー

僕が↑先程渡った橋は内陸側で、村役場や住宅地区がある村の中心地は、日本海に近い側にあります。

小判型になっている八郎潟干拓地、端から端まで約15km、ホント巨大な別世界ですグッド!

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道路脇に目を転じると、原野と田んぼが果てしなく広がります。重ねてですが、ホント北海道並みの光景です目


この並木、一部区間は桜だとの事で、4月下旬にはきれいな桜並木が眺められるそうです桜
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しばらく走ったところで、↑なにやら小高い丘があったので寄ってみると・
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その名も、↑『大潟富士』富士山

“日本一低い山”だそうです(※現地看板による)

標高マイナスの干拓地上に築山しているため、頂上がちょうど海抜0mだそうですメモ

 

僕はこれまで"日本で一番低い山"は、大阪市港区の天保山だと思っていたんですが(※標高4m)、それを下回る山を発見wチューリップオレンジ

 

しかもこの大潟富士、本物の富士山のピッタリ1/1000に造られており(驚)、海抜マイナス3.776mの地面から築造され、頂上がちょうど海抜0mと、かなり凝ったものです^富士山
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早速、登山してみました^走る人
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"標高0m"と侮るなかれ、↑頂上からの眺望はかなり良く、気持ちよかったです目
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この大潟富士の傍らには、↑最近建てたと思われる解説板があったんですが、これがなかなかスグレモノで、八郎潟の過去から大潟村の成立ち、干拓の概要に至るまで一目でわかるようになっています合格


学校で習った覚えがありますが、干拓前の八郎潟は、琵琶湖に次いで日本で2番目に広い湖でした。

八郎潟や大潟村の歴史については後程、八郎潟干拓博物館を訪れていますので、そちらで詳述しますクリップ
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山すそに、↑"登頂記帳ボックス"も!

でも残念ながら、肝心の記帳ノートがありませんでしたあせる
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そしてここには"記念スタンプ"もありましたが、これまた肝心なスタンプインクがありませんでした。しかし場所柄、こういう所への消耗品の補給/管理は難しいと思いますあせる

押せなかったので代りに、↑印面を撮影させてもらいましたw叫び

 

-*-*-
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そして、"富士"を出ですぐにあった標識、↑"経緯度公会点"旗

 

ここ大潟村は、東経140度/北緯40度が交わっているとの事で、日本標準時の北緯35度/東経135度の公会点がある兵庫県西脇市から、ちょうど5度づつ東北方向に位置していますクリップ
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それと、走ってみて気付いたのは、大潟村は居住地区のある中心部を除き、↑電柱がほとんど建ってない事ひらめき電球

前述の"北海道並の広々感"は、これも大きな要素の一つです虹

 

圃場ばかりとはいっても、農業用の電力はいるはずですし、地下に埋めてるんでしょうか?、もしそうなら、凄く先進的だと思います星


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そうこうしているうちに小判型の干拓地を横断、大潟村の中心部に入ってきましたしっぽフリフリ
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↑大潟村役場の庁舎ビル

村のHPによると、2012現在の人口は約3300人との事ですが、全国でも例がない『干拓によって新たに生まれた自治体』なので、実際来てみて、存在感のようなものを感じましたヒマワリ


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役場からすぐにあった、↑“道の駅おおがた”に寄ってみますコーヒー
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近年オープンした道の駅は、工夫を凝らした建物が多いですが、ここもなかなかです^

滑らかに弧を描く、↑印象的な大きな屋根の建物2棟で構成されています。
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うち1棟は、↑“潟の店”というショップで、道の駅おなじみのパターンの地元産品直売店ですが、特産の米を生かしたお菓子や麺類が豊富で、なかなか充実していましたプレゼント

 

特にうどんの種類が多く、元々秋田では"稲庭うどん"等、東日本では珍しく“うどん文化”があるので、僕も買って帰りましたが米粉のうどんが美味しかったです合格
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そしてもう1棟は、↑大潟村干拓博物館になっています。

全国で唯一の、”干拓がテーマ”の博物館です。

見学していきます目
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天井が高く、気持ちよく見学できる内部です目

国策による干拓で誕生した、ここ大潟村の歴史を分かりやすく解説してくれています。

ここで、八郎潟干拓の概要を纏めてみますメモ

 

そもそもなぜ、日本で2番目に広い湖だった八郎潟は、その大半が干拓されたのか?ですが・

 

その理由は、終戦直後の食糧不足にまで遡ります。

 

敗戦後の日本は深刻な食糧不足に見舞われ、『もっと農地を!』という世論が叫ばれました。ベビーブームで、戦後日本は人口が急増し、戦争で荒廃した農地を単に復旧するだけでは足りなかったんです。

 

政府は、全国に点在する遠浅の海や湖沼を干拓して農地を新造する政策を打ち出し、岡山の児島湾やこの八郎潟、佐賀の有明海等で大規模な干拓事業を繰り広げましたロボット

(※八郎潟の場合は、江戸時代から八郎潟を干拓しようという構想があり、実際江戸期から小規模な干拓は行われたそうです)

 

もう一つの理由、干拓前の八郎潟はよく洪水を起こし、周囲の村々は被害に悩まされていたそうです。その治水対策も兼ねました。先程通った、大潟村への橋を渡った所に"調整池"が残されているのは、その役割もあります。

 

しかし、八郎潟で漁業をしていた人は職場を奪われる事になり、反対運動も起きたそうですが、食糧不足解消という当時の最優先課題が錦の御旗となり、漁業者へ補償した上で干拓事業は始まりました。

干拓の先輩、オランダの技術援助もうけ、前代未聞の大規模な干拓事業はすすめられましたロボット

 

1957(昭和32)年着工、7年の歳月をかけ、1964(昭和39)年に一応の完成をみました。

昭和39年といえば日本では高度成長の只中、東海道新幹線開通や東京オリンピック開催等、まさに“日本が希望に溢れていた時代”でしたが、ここ秋田でもこんな“巨大な希望”が生まれていましたブーケ1

 

↑は、1964(昭和39)年に行われた『干陸開始式』の様子。

希望に溢れ、フロンティア精神で入植した人々が、新しい村のスタートを祝いました。当時の息吹が感じられる、感動の一枚ですクラッカー

全ての事業が完了したのは、1977年との事です。


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又、この博物館は歴史や技術面だけでなく、全国から開拓に参加し、入植した村人の様子も紹介していますチューリップ紫


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入植者たちの初期の生活を再現したコーナーもあり、昭和の雰囲気溢れる↑茶の間で、村人たちが集まっている様子が、少し面白さも交えてつくってありました^お茶
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ここ八郎潟は、"野鳥の楽園"でもありますコスモス

 

干拓で出来た新しい大地なので野生動物がほとんどおらず、鳥にとって天敵も少ないので、稀少な渡り鳥が多種飛来、営巣しているとの事です。まさに”バードサンクチュアリ”ですヒヨコ

観察コーナーも設けられています目


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映像シアターもあり、とても人口3000人の村がつくったとは思えない充実の資料館です。全国に例がない成立ち、そして今も歩みを続けている大潟村の誇りが感じられる施設でしたみずがめ座


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当地に伝わる"八郎太郎の伝説"に、十和田湖に住んでいた竜が棲み家を追われ、最終的にこの湖に安住の地を見つけたところから、八郎潟という名が付けられたそうです。

まさか干拓地になるとは、竜も想像してなかったでしょう叫び

 

村名の『大潟』ですが、昔から八郎潟の別名だったそうです。

この日はうららかな晴天でしたが、↑道路脇に設置された風防壁が、冬は厳しい日本海側の気候を想起させます波



日本もまだまだ、興味深い未踏の地が沢山ある事を再認識しました。Wo号の機動力に感謝しつつ、大潟村をあとにしますDASH!

 

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八郎潟訪問を終え、帰京する時がきました。

秋田道・能代ICから高速の人になりますDASH!

 

帰途に寄った、八郎潟SAコーヒー

ちなみにここ"SA"となってますが、施設はトイレと自販機だけで、レストランはおろか売店もなく、関東近郊のPAより寂しい内容でしたあせる
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しかし、景色はピカイチでした目

SA内に、↑八郎潟を望める丘が造ってあります目
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184段の木の階段には、番号が振ってあります旗

↑看板にダジャレが書いてありますが、吉幾三さんは青森ですけどw
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「184段だったら大した事ないか!」と、タカをくくって登りましたが、かなりの高低差で大変でしたwあせる
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先程走ってきた八郎潟が、↑一望の下目

なかなか壮大な眺めでした霧

(※展望の丘は、秋田・東京方向のSAにあります)
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東北で"製鉄"といえば、岩手県釜石が有名ですが、この八郎潟SA近くでも鎌倉時代に製鉄が行われていたそうです。製鉄工場跡が発見された(※東北初の発見)事を記念して、丘の頂上に↑縄文文様の鐘がありましたベル

 

小学校で"八郎潟の干拓"を習って以来、一度この目で見たかった八郎潟、ついに初訪問を果たしましたグッド!

 

実際訪れてみて、その“規模の大きさ”のみならず、当時の人々の理想の大きさ、さらには現在の大潟村に暮す人々の誇りの大きさも感じることが出来、感銘深かったツーリングでした^ニコニコ

 

前後編2作でおおくりした2012ツーリング始め、これでゴールですフラッグ

 

今作で兼ねている『日本海縦断ツーリングシリーズ』ですが、次回ではこの八郎潟SA、又は前出の能代南ICからスタートする事になります。そして青森県へと乗り入れていきます。次回はいつになるかわかりませんがw、お楽しみに^グッド!

 

そして、東北復興シリーズについても、今年も引続き東北各地を走る予定にしております。続作をお待ち下さい^しっぽフリフリ

 

 

 

 

 

 

(※2022.7 2024.4 文一部修正)