2008年、今年初のツーリング作です
今作では千葉~茨城両県に跨って存在する古社3ヵ所、いわゆる"東国三社"を訪ねたいと思います
東関道で一路、千葉県の東端、利根川の河口付近まで向かいます
この日は朝から春の陽気、快調に走っていきますが、
最初の休憩は↓
酒々井PAで休憩^
そして、佐原香取ICで下車
東国三社1ヵ所目、まずは香取神宮から訪ねます。
このICから3分程との事です
ICからすぐ、↑参道の入口がみえてきました
駐車場の隅に植えられた菜の花、千葉らしさが香ります
朝の参道、人影はまだまばらです。
まだシャッターの閉まった売店の前で、↑ワンコが日なたぼっこしてました
神社によくある、↑注意事項を昔風に書いている"高札"
まぁ書いてあるのは大体、どこの神社でも「車馬を乗入ない事」「草木や魚鳥を獲らない事」といったお決まりの文句ですが、まぁ"結界"を示す演出効果はあるかもです^
入ります
石灯籠が両側に並ぶ広い参道です。
静寂が包む、朝の境内
現在の社殿は1700(元禄13)年に建てられたものです(※国重文)
東国三社のひとつに数えられる香取神宮、関東で特に多い『香取神社』の総本社であり、下総国一之宮です。神武天皇の頃に創建と伝わる超古社だとの事です
現在も、元旦に皇居で行われる"四方拝"では、伊勢神宮等と共に遥拝先になっているとの事。
一見地味なつくりの本殿ですが、屋根の梁や壁面には、細やかできれいな色を使った装飾が施されています
本殿の周囲は、巨木に覆われた鎮守の森
巨大な樹々に歴史を感じます。
境内にある、↑"要石"への道
鹿島神宮のところで後述しますが、地震の守り神という言い伝えもある要石(かなめいし)という巨石が崇拝の対象となっています。
↑が"要石"です。
地上に顔を出しているのはほんの一部だけと言われ、ほとんどは地中に埋まっているとてつもない巨石だとの事。その巨大さで、地中に住み、地震を起こすと恐れられていた大ナマズを押さえつけているという伝承です
実に緑のきれいな印象の神社で、爽やかな気持ちで参らせてもらいました
次は~
香取神宮から近い、佐原の中心部です
2006年、旧佐原市は周辺の3町と合併し、香取市になりました
ここは、埼玉の川越同様"小江戸"と呼ばれ、豪商の歴史を残す古い街並が残っています。
↑は旧三菱銀行の建物。洋館も残っています
1924(大正13)年に建てられ、1989(平成元)年まで実際に使われていました
佐原に、現在はない都市銀行があったという事自体、佐原が商業で栄えていたという過去が窺えます。
旧三菱銀行の↑内部です。
現在は『佐原三菱館』として、町おこしと観光PRの会館として公開されています
カウンターもそのまま残っています。
後に増築された部分、↑観光案内等のスペースとなっています
金庫室。↑重厚な扉がそのまま残され、展示室に利用
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つづいて、Wo号を駐車場に置き、街中を歩きます
小野川の両岸に沿い、古い街並がつづきます
その小野川に架かる、佐原で有名な橋、↑『樋橋(とよはし)』
1時間毎に橋桁から水が出て、滝のように川に注ぎます
別名"ジャージャー橋"というそうです
この橋のたもとから、水郷舟めぐりツアーが出ています。上総の小江戸、そして水郷でもある佐原、いい雰囲気でした
そして、この橋のたもとに、もう一つ紹介したい建物があります。
佐原の生んだ偉人、そして僕もですが"地理オタク"にとっての神様のような存在である、伊能忠敬の生家があります
樋橋の前にある、↑伊能忠敬の生家。忠敬はここ、佐原で生まれました。佐原家は酒造のほか、水運や貿易なども手広くやっていた商家だったとの事
内部を見学します
上総の豪商だった同家、当時の生活が窺える内部です。
そんなに豪勢ではない感じですが、品が感じられる邸宅です。
店舗部分や、忠敬の書斎の部分等が残り、よく保全されていました。
土間の台所がレトロです^
かまど(おくどさん)も、今や文化財的存在
この生家の、川を挟んで反対側に、伊能忠敬記念館があります。
内部は撮影禁止でしたが、彼の生涯や業績を詳細に展示、特に彼の手になる地図は興味深く、見応えある館でした
伊能忠敬(1745-1818)
ご存じ、我が国初の近代的地図を、はるか樺太まで自身の足で踏破し、実測の上見事に作図した忠敬ですが、彼が生家を出て、地図作りの勉強をしようと発起したのはなんと49歳の時だそうです。人間、やろうと思えば年令関係なく、志と努力次第で、道は開けるという事ですね
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佐原旧市街から、↑JR佐原駅に寄ります
目にも眩しい白亜の屋根が独特^
ひなびた地方都市の雰囲気でした
佐原をあとに、次の三社へとむかいます
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↑小見川大橋です。
千葉県と茨城県を結んでいます(※全長822m)
流域面積では日本一といわれる利根川、いつ見ても広いです
ここ河口付近には、"利根川"が2本並行しているんです。
"もう一つの利根川"が、↑常陸利根川です
その常陸利根川を渡り、茨城県に入りました
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先程の小見川大橋を渡って、すぐの所にあります。
この神社、三社の中では交通の便が一番わるく、車(バイク)でないとなかなか訪れにくい場所にあるので、閑散としていました。
でもその分、一番ゆったりと参拝できます
門前のみやげもの屋、三社中でここだけ無かったです
息栖神社、5世紀頃・応神天皇の代に創建と伝わり、現在地に鎮座したのは807年だそうです。現在の社殿は、前社殿が火災のため1963(昭和38)年に再建されたものです。
ご神木の↑杉も。
同社には鎮守の森もあり、鬱蒼とした本格的な森でした
・息栖神社近くに、↓を発見しました。
神社近く、利根川ほとりにある"忍潮井"といい、水中から泉がわき出ていました
現地銘板によると、日本3霊泉だとの事です
この利根川岸は、江戸期には三社詣の舟や、貨物水運の拠点として栄えたという事ですが、今はその面影なく、静かな田園と住宅地帯となっていました
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三社詣、残るのは鹿島神宮なんですが、せっかく茨城県の端・利根川河口までやってきたので、その前に『鹿島臨海工業地帯』をチラッと訪ねていきます
鹿島港公園へ来ました(※茨城県神栖市)
公園入口にある、石にはめ込まれた↑銘文には・
『人間性の勝利』と刻まれています
この気高い文言、なんか高度成長期の日本の勢いを感じるような気がしなくもなかったです
↑銘文の奥左に見えている、丸い円盤が付いているようなタワー、鹿島港が一望できるという展望塔だそうなので、これから昇ってみます
先程みえていた"円盤"が展望階です。
工業地帯のコンビナート群も俯瞰できます
日本経済を陰で支えている鹿島港が、まさに一望の下
社会科の教科書にも載る鹿島港ですが、改めてその大きさに圧倒されました
この鹿島港、元来あった入江を利用したものではなく、元々は砂浜だった浜辺に人工的に巨大な堀を掘削し、一からつくった港です。1969(昭和44)年開港。完成時は世界有数の人工掘削港湾だったとの事
昭和の高度成長期を支えてきた鹿島港の見学、有意義でした
【※2024追記】
↑鹿島港展望台ですが、2020年以降、老朽化のため閉鎖されているそうです。神栖市HPによると"休止して調査中"だそうなので、補修の上復活の可能性もなくはないですが、本作は貴重な記録となりました。
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工業地帯の真ん中にある、緑のオアシスです
鹿島港公園をあとに、鹿島工業地帯を走ります
神栖市の道路、典型的な日本の郊外の光景です
・で、東国三社ラスト・鹿島神宮なんですが、実はこの後僕、時間的な都合で、鹿島には行かず都内へ戻ったんです
で、残る鹿島神宮ですが、後日電車で行ってきました
という事でここからは、別の日の撮影です。ご了承下さい
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↑JR鹿島線に乗り、利根川を渡ります
鹿島神宮駅到着
↑鹿島神宮駅前です。
鹿島線のライバル、都内へ直行する高速バスが停車しています
案内看板に従って、神宮に向かいます
駅からしばらくは↑な感じの道で、案内板がないと"ホントに合ってるのかな"と思う程、何気なさすぎるw道でした
看板はしっかり出ているので、迷う事はありません
神宮が近づくにつれ、だんだん賑やかな感じに・
ようやく"参道らしく"なってきて、鳥居も見えてきました
門前にたどり着きました。
行った日は新年明けてしばらく経っていましたが、初詣の人もけっこう来ていました
↑本殿です。
現在の本殿は1619年、江戸初期の造営です(※国重文)
創建はなんと神武天皇元年と伝わり(※同神宮HPによる)、事実なら約2700年の超古社という事になりますが、神話の世界ですね・
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鹿島神宮の神髄は、むしろ本殿から奥にあると思います。
"奥の宮"があります。
冒頭の香取神宮と同じく、↑"要石"が鹿島にもありました。
香取神宮のところで前述しましたが、地中深く、どこまであるかわからないほどの巨石だとの事で、ご神石です。
↑が、地上に出ているホンの一部
要石すぐ近くの、↑御手洗(みたらし)の池
ちなみに、ここの隣にある茶店のみたらしだんごが、"我が国みたらしだんごの元祖"だそうです
森のマイナスイオンを浴びて、気分爽快です
"鹿"島神宮という事で、神の使いとしてシカが飼われているとの事です
以上、東国三社を完訪しました!
鹿島神宮駅に戻ってきました
(※2020追記:現在は引退し、新型車両に置き換わっています)
かつては横須賀線の色だった青とクリーム色のツートン、いわゆる"スカ色"
まもなく発車です。
鹿島線、本数は1時間毎程度、電化ですが単線、ローカル線ムード満点です
発車しました。↑利根川の長い鉄橋を渡り、車輪の音を轟かせる115系電車
この利根の流れのような、長く大きな歴史を秘めた、千葉/茨城の県境地帯でした
(※2020.9 2024.1 文一部修正)