「無駄をなくそう!」という主張に、もろ手を挙げて反対する人はいないでしょう。
誰でも無駄はないほうがいいと、無条件に思ってしまいがち。
ではそもそも、“無駄”って何なんでしょう。
例えば、悪名高き、天下り。
元官僚の人間が、たいした仕事ないのに、関連の独立法人の役員になる。
数年勤務した後、すぐに退職。
数千万円の退職金を得る。
確かに、これって税金の“無駄”以外の何物でもありません。
いてもいなくてもいい人に、多額な血税が流れているのですから。
例えば、過疎地域の公共事業。
ほとんど通行量のないところに、立派な道路をつくる。
現在ある道路でも十分なんですから、これまた“無駄”ですよね。
これらの税金の無駄。
費用対効果という視点からすれば、有無を言わさず、“無駄”と断言できます。
でも、だからといって、“100%無駄”と言えるかといえば、疑問が残ります。
天下りの人に、お金が流れる。
でも、この人が何もしないのでしたら、“完全なる無駄”と言えなくもないですが、通常、そういうことはあり得ません。
人間、生きていれば、何かしら社会と関係を持ちます。
社会と関わるということは、何かしらの消費をするということ。
つまり、お金が他に流れるということです。
現在の経済システムでは、お金が流れていることが健全な状態とされています。
どういう形であれ、お金の流れが滞れば、不具合が生じます。
まるで、お金は血液のようですね。
採算性のない公共事業であれ、何かを作るということは、そこにお金の流れが生じます。
建設業界、しかり。
メンテナンスする業者、しかり。
そうなってくると、何が無駄で何が無駄でないのか、分からなくなってしまいます。
逆説的に言えば、すべての営みは“無駄”であり、“無駄”こそ、人間が人間たるゆえんなのではないでしょうか?
『人間の営みは、すべて無駄である』
これが、無駄の本質だと思います。
生命体としての目的(子孫を残す)からすれば、人類の文化と呼ばれる営みは、すべて無駄。
音楽であれ、芸術であれ、文学であれ、生きていくだけなら、必要ないものですからね。
そう考えれば、ユネスコの世界遺産なんて、“世界無駄遺産”そのもの。
人間がいかに無駄なことが好きか、ということを認定しているのですから。
アリとキリギリスの寓話。
遺伝子的に正しい生き方は、アリ。
でも、バイオリンばかり弾いているキリギリスこそ、人間らしい生き方なのかもしれません。
突き詰めれば、「無駄をなくせ!」とは、「人間らしさをなくせ!」というなんでしょう。
それを求めている人は、少ないような気がしますが…。