「竹下先生って、札幌に知り合いもいないのに、移り住んで、よく生活できていますね」
昨日来られたクライアントの方が、ふと、そうおっしゃっていました。
確かに、札幌に住むようになって、9年。
それまで、大阪以外に住んだこともなく、進学だの就職だのという理由で、札幌に来たわけではない。
ただ、「住んでみたかったから」という理由だけ。
私の感覚では、普通のことなんですが、一般的ではないのかもしれない。
日本人相手に、日本語で仕事するなんて、それほどたいしたことではない。
そういう思いがある。
だから、知り合いがひとりもいなくたって、それほど寂しいだの何だのという感覚はない。
話が通じるのだから、孤独を感じることなんてない。
仕事をする上で、考えていることがある。
もし、外国で、外国人を相手に、私は通用するのだろうか?、と。
そのことが、自分の中での価値基準としてあるので、日本で仕事をすることが、それほど困難なことだなんて思えない。
言葉も通じない。
文化も違う。
それでも、通用する「価値」とは何か?
私にとって、その答えが「整体」である。
正直、「孤独」なんてものを訴える人が嫌いだ。
少し考えれば分かることだが、人間は、孤独で当たり前。
さしあったって、そのことをアピールする必要がない。
同じように、「無常」を感じていない人も、嫌いだ。
どんなことでも、同じってことはない。
この「無常観」こそ、世の中の真実。
なのに、「自分は死なない」みたいな勘違いをしている人がいる。
「自分だけ不幸だ」みたいな、くだらない思い込みをしている人がいる。
すべてのことは、常ならず。
そう思えば、人生に、良いも悪いもないことが理解できる。
過去のことを考えることが、ない。
20代や、30代でも、「学生の頃はよかった」なんて過去を美化する人もいるが、理解できないな。
年齢を重ねれば重ねるほど、昔話をしたがる人が、本当に多い。
それって、どうなんだろう?
今という時間を大切にしない人ほど、過去にこだわっていると思う。
今という時間を一生懸命生きていない人ほど、未来を不安がる。
過去も、未来も、幻想に過ぎない。
そんな「幻」を相手にすれば、そりゃ疲れ果てちゃうでしょうね。
人生なんて、どうってことではない。
みんな、確実に、死ぬ。
これだけは、完全なる平等。
生老病死・・・。
悩んでも、悩まなくても、何も変わらない。
人生に「哲学」は必要だと思う。
少なくても、私には必要だ。
常に「死」について考えていれば、「生」のありがたみが分かるものだから。
世の中には、自分の「死」について考えていない人がいる。
それは、それで幸せなのかな?
でも、それと真剣に向き合っておかないと、いざって時に、ジタバタしてしまうのでしょうね。
向き合っていたって、たぶん右往左往してしまうのが、人間ですから。