マルです。



家臣に尽くされ、領民に慕われ、何故だかとっても愛された戦国最弱と云われる武将 小田氏治。もちろん家族だって氏治が大好き。


戦国時代『家族は協力し合うのが当たり前』とばかりはいきません。権力争いとなれば、親子でも兄弟でも殺し合うのが戦国の常。いつ裏切るか分からない身内がいたら、屋敷の中でもゆっくり休むことなんか出来ませんよね。


氏治は少なくとも自分の城では、信頼する家臣や家族達に囲まれ、安らぎの時を過ごせていたのではないかと思います。あ、すぐに外敵に攻め込まれるから、そうでも無いか。





氏治は1534年 父 小田政治が42歳のときに生まれた跡取り息子です。きっと家臣や領民達にとっても待望の小田家嫡男の誕生。沢山の愛情を受けて育ち、そして当主となってもそれは変わらず。負け過ぎた武将は、生涯、愛され過ぎた武将でもあったのです。




氏治の庶長子 小田友治は、なんと氏治が14歳のときの子供です。(氏治1531年生説だと17歳のとき)  お、おませさん!友治の幼名は氏治と同じ『小太郎』と名付けられました。庶子とはいえ、氏治は友治の誕生を喜び、愛情を込めて命名したのが分かります。


1562年 北条氏との和睦のため、長男 友治は14歳で小田原の北条の元へ人質に出されています。家のためとは云え、側室の子である自分は人質に差し出され、弟は跡取りとして家に残るのですから辛かった筈です。


しかし北条の家臣として仕えた友治は、氏治を恨んだりはしませんでした。小田家の窮地となると友治はしきりに北条氏へ父への援護を請い、北条氏はそれに応え遥々常陸国まで援軍を送ってくれるのです。北条の後ろ楯もあったお陰で、氏治はしぶとく戦い続けることができたのです。友治は故郷の父のため多大な貢献をしました。


人質なのにちょっと図々しいくらいに故郷への助っ人要請をしている友治。北条氏に気に入られていたのでしょう。もしかして親(氏治)譲りの愛されキャラだったのかも。


友治は、親を恨んでもおかしくないに境遇にありながら、父である氏治に深い愛情を持ち続けていたのだと思います。




次男 小田守治は、1557年 氏治23歳のときに正室 葉月との間に生まれた嫡男です。守治は父 氏治の側で共に戦い、共に逃げ、氏治の晩年まで共に暮らしました。


戦で家臣達に退くよう促されても、「敵将の首を捕るまではおめおめと退き下がれぬ」と、人の言うこと聞かないところが氏治譲りでしょうか。


豊臣秀吉に小田家の所領全てを没収された後、氏治が結城秀康の客分となると守治も共に結城家へ仕え、結城秀康が越後へ移封されると氏治と共に越後へ移ります。いつ、如何なるときも氏治の側にいたパパ大好きっ子です。




は、結城秀康の側室に入っていました。かつて宿敵だった結城家との和平のため嫁いだようです。


秀康は結城家に婿養子に入った徳川家康の次男です。結城家に入る前は、豊臣秀吉(羽柴)の養子でした。


豊臣秀吉に所領没収された氏治は、奥州まで秀吉を追い謝罪しました。所領は返してもらえませんでしたが、結城家の客分に入ることを許されます。


きっと駒がいたお陰でしょう。駒が夫 結城秀康に懇願したのかな。父を助けて下さいと。秀康が『氏治親子を結城家に預かる』と秀吉に口利きをしたのかも知れません。とにかく駒が側室となっていた結城家に、氏治と次男 守治もお世話になることになったのです。


数年後には長男 友治もやって来て、親子3人結城秀康に仕えたのですが、残念ながら友治は後に結城家を出てしまいました。関ヶ原の戦いで徳川家康の怒りを買い、弟 守治の家臣となるよう命じられたのです。


庶兄とはいえ、長男としてのプライドがあったのか。主従関係ではなく兄弟として過ごせたなら、友治も結城家を出ることなく家族と共に暮らしていたのかな、と思うと切なく思えます。



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小田氏治は子等にも助けられ、不死鳥の如く何度も立ち上がり、晩年は家族と共に(多分)穏やかに暮らしました。家臣や領民達と同様に、負けてばかりの氏治を見捨てず支え続けた家族達。きっと氏治も家族を沢山愛したからではないでしょうか。


戦国最弱と云われるほど負けてばかりの氏治ですが、家族に恵まれ、天寿を全うした幸せな殿様です。







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氏治と正反対で家族仲の悪い武将↓