文科省との対話(3)報告篇② | まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ -

文科省との対話(3)報告篇②

【質問3】(実は、問題の事例に満ち満ちているのでは!?)
まず、②のほうから。
担当者氏の返答は、
「全国的に呼びかけるのは難しい。」
というものだった。

何を根拠にそういうことを言うのか?と言われる可能性がある。
仙台市の小学校の例のような、具体的な「事例」(証拠)が必要だ。
それがないと「見えない敵と戦っているようだ」。
とのこと。

不適切な例をいくつか示し、「保護者の選択の自由を尊重するよう注意してほしい。」と示すことはできるのではないか?と反論した。
それに対しては、「私ひとりではどうすることもできないし、上にあげることも難しいと思う。もっと上のレベルで問題になり、下に降りてくれば可能かもしれないが…」と語っていた。また、「判例があるとやりやすいのだが、そのようなものはない。」とも言っていたので、拙ブログでも取り上げた甲賀市自治会裁判判決が参考になるのではと言っておいた(ご存じないようだった)。

このあたりのことを話し合っていて担当者氏より出てきたのが、

文科省としては、
今ある社会教育団体としてのPTAに対して、
学校の活性化
地域の活性化
保護者の活性化
に役立ってほしいと思っている。

ということと、

社会教育審議会の昭和42年の報告「父母と先生の会のあり方について」中の、
「会の趣旨に賛同する親と教師が自主的にできるだけ多く参加することが望ましい。」

という文言。

どうやら、この報告の文言を根拠に文科省は現在のPTA政策を行っている、という言い分らしい。
文科省としては、「PTAが盛んになってほしい」と思っている。そして、そのスタンスにはちゃんと拠り所があるのだぞよ、と。
(今さらではあるが、「原則、全員加入論」の<根拠地>がはっきりしてきた気がする。)

社会教育審議会の報告の文言は、確かに「いろいろな読み」が可能かもしれない。日Pホームページで見られる『日本PTA50年の歩みと今後の展望』3章1節の1には、この文言を取り上げて、

***
また、「会の趣旨に賛同する親と教師が自主的にできるだけ多く参加することが望ましい。」とし、加入の自発性の原則を堅持しつつ、全員参加という網羅的な加入をも認めるような曖昧な言い方になっている。
***
と、「網羅的な加入をも認める」ものとしても「読める」との判断がそれとなく示されている。当方としては、どう読んだらそのような「読み」が成り立つのか、その人権と遵法感覚を疑わざるを得ない。(『日本PTA50年』でもそう「読める」と断言されているわけではないが。)
なお、『50年』の著者は、元文部官僚、現政策研究大学院大学学長特任補佐の今野雅裕氏。氏のPTAに対するスタンスは、カワバタさんのPTA連載の第20回でも知ることができる(氏は「原則、全員加入論者」です。川端氏の話しを聞き、少し考えが揺れておられた風ではあるが…)。第20回は、カワバタさんのPTAに対するスタンスを理解する上でもおススメです(特に終わりの方)。


どうやら、社会教育課内でも『空気』として、「原則、全員加入」が前提とされているのかもしれない。(「私ひとりではどうすることもできないし、上にあげることも難しいと思う。」という担当者氏の発言と結び付けての、あくまでも当方の憶測だが。)

PTAへの加入は親と教師の「努力義務」的なものと考えているのか? と問いかけると、「そうではない…」とは言うものの、はっきりとは否定はしない。
「PTAが盛んになっていってほしい。」というのが文科省のスタンスだと言う。
だから、(これは口には決してされなかったが)PTAの衰退につながりかねない「任意加入の徹底」の呼びかけを、文科省として全国的に展開することは難しい、ということのようだ。


「盛んになってほしい」から、本当のことは国民に対して隠す。
こんな、国民を馬鹿にした行政が許されるのだろうか(嘆息&怒)?
なんか、このあたりで岩盤に突き当たったというか、ひょんなところで、高崎市の教育委員氏と出会ってしまったというか・・。

う~ん、突き詰めていくと、文科省と某教育委員氏とは同じ穴の何とかだったということか(?)。
私は彼が教育委員になったのは何かの間違いかもと思っていたが、間違いでもなんでもなかったのかもしれない。
そう言えば、ツレが「文科省はPTAの親分なんだよ。」と言っていました^_^;。

(話を元に戻します)
もし今述べているような私の「邪推」がそれなりに当たっているなら、あくまでも法令に従い仕事を進めるべき行政として、これは大問題なのではないのだろうか?
社会教育審議会の報告の文言は、先に述べたように、決して「原則、全員加入」を容認するものではないし、そもそも、審議会の報告というのは、「報告に過ぎず、文科省の政策とは別次元のもの」(前回の話し合いでの担当者のことば)ではなかったのか!

注釈:「はてなキーワード」にも、「審議会は答申を官庁に提出するが、答申には原則として拘束力はない。答申を政策に反映させるかどうかは官庁の判断による。」とある。

ひょっとして、文科省の「政策」になっているのだろうか。もしそうなら、「どう政策化されているのか」きちんと示してもらおう。
そして、そういう政策があるのならば、その政策の妥当性をしっかりと吟味させてもらおう。
(PTA「原則、全員加入」政策に根拠法があると言うなら、ぜひぜひ答えてほしい!!)


このほかに議論になったのは、「保護者の意見を集約するものとしてのPTAの必要性」だ。
なぜPTAが盛んでなくてはならないのかの理由のひとつとして、担当者氏は
「保護者の意見を集約するものとしてPTAは必要だ。」
ということをあげた。
私は、(一般論として)現状のPTAが保護者の意見を集約しているとも思えないし、PTAを使わずとも、担任主催の学級保護者会、校長主催の保護者会の活用やアンケート調査等により、十分可能だと述べた。

これは今思うのだが、「保護者の意見を集約するものとしてPTAは必要だ。」という考え方は、もうそれ自体のうちに「全員加入」を含意する、たいへん「危険」な考えだと思えてきた。
なぜなら、そもそもの話し、「意見の集約」という以上、その対象は【保護者全員】でなければならないはずだからである。
文科省は、「思想・信条の自由」という憲法の定めをどう考えているのだろうか?
文科省は、遵法と人権尊重の観点から、どうやら根本的なところでそのスタンスを改めるべきではないのか! と不遜なことを考え始めた私です^_^;。(いやいや、国民として何臆することはないはずですよね。)


①の「説明抜き+学校による給食費等との抱き合わせ会費徴収」の件。
②についての話し合いでエネルギーを使ってしまい、あまり突っ込んだ話はできなかったが、明確な事例があれば、「会の趣旨に賛同するものによる参加」とする審議会報告の文言ともずれる可能性があるので、「学校なり連合会なりに事実確認をする」と言ってくれた。
文科省からの「事実確認」にはかなりの効力が期待されると思っている
(この件に関しては(「も」ですかね)、PTAのあり方とは…さんからの情報提供、ご助言等をお待ちしております!)

注釈中の②の論点(「学校と保護者が連携する上でのミニマム(学級保護者会等)をPTAが押さえてしまっている。」)については、今回十分に問いかけられなかった。次回、ぜひ問いかけてみたい。ほ・ん・と・う・に、これをやられると、保護者は、「選択の余地なく、PTAに入らざるを得なくなる」のです。文科行政として、この不法状態が放置されていいとは思えない。
この当方の主張に反論があるなら、ぜひ聞きたいものだ。
ここで、「皆さんで話し合ってほしい」論が断じて成り立たないことは、あらかじめ言っておきたい。個人がPTAに参加するかしないかは、「みんな」の多数決で決められるものではないからである。


【質問4】(「原則、全員加入」なら、許される?) 
「『原則、全員加入』を認めているわけではない。しかし、あくまでも「原則」だと言われたら,それ以上は言いにくい。」
この話をされた時は、「なるほど」と思ってしまった私だが、よく考えれば、いったいだれが何の権限によってそんな「原則」を打ちたて、保護者に影響力を行使できるのか? 本当に疑問だ。
「住民自治」と言えば聞こえはいいが、【「中間集団」による個人の自由に対する侵害】に対してあまりに無頓着だと感じた。まあ、これは、担当者氏個人の問題と言うよりも、文科省の、ひいては日本の文化の問題なのだろうが。

「うちの小学校のPTAは『全員加入』ですが、あくまでも『原則』なんですよ。」
こんな言い逃れが通用し、国民の思想・信条の自由がやすやすと制限される社会。
日本の社会が、こんな社会ではたしていいのか?
こんな社会のまま次世代にバトンタッチしていいのか?
生涯学習政策局(かつての「社会教育局」)として、よ~く考えてほしいものだ。


以上、またまたまとまりのないご報告になってしまいましたが、仙台市の極端な事例が改善されることになったのは前進。しかし、「原則、全員加入」の実態の解消にまでは切り込めなかったのは無念です。(まあ、しぶとく、「しつこ~く」やっていきます^_^;)
皆様から、またお知恵を賜れれば幸いですm(__)m。
また、長時間の「対話」に応じてくださった担当者氏にも感謝いたします。
ご発言を曲げていたり、ご発言に対する当方の理解不足等がありましたら、次回の話し合いのときにでもご指摘くださいませ。