東京都昭島市拝島町の龍津寺へ行ったときは九月で、本堂の前では萩の花が咲いていました。
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東京都昭島市拝島町の大日堂や拝島大師などを紹介しましたので、ついでというわけではないですが、同じく拝島町にある龍津寺を紹介しましょう。
「龍津寺」と書いて「りゅうしんじ」と読みます。
宗派は曹洞宗です。
所在地は東京都昭島市拝島町五の二の三十七。
開創は戦国時代の天文年間と言われます。
天文年間のころと言えば武田信玄や上杉謙信、北条氏康などの武将がまだ若かったころと言えましょう。拝島大師の元三大師像が拝島の地にもたらされたのが織田信長による比叡山焼き討ちの後ですから、その時にはもう、龍津寺は建っていたことになります。
山号は玉応山(ぎょくおうざん)。
多摩川が秋川と合流して川幅を増した流れの北岸の、河岸段丘上にあります。
本堂は江戸時代後期の文化九年(西暦一八一二年)に建てられたものだそうで、堂内の天井には龍、花、鳥獣の絵画が描かれているという。
「拝島大師」としてこの地域の人々に尊崇されているものは何なのか。
拝島大師と呼ばれる構想がこの地にいたのかというと、そうではありません。
「元三大師」と呼ばれるように、拝島の本覚院でまつられている元三大師の像のことなのです。
では、元三大師とは誰のことなのか。
それは天台宗の慈恵大師のことです。
いや、そもそも慈恵大師って誰なのか分からん、という人のために説明しますと、平安時代中期、西暦九一二年から九八五年まで行きた、僧名を「良源(りょうげん)」という人のことです。
「慈恵」はおくりな。元三大師は俗称。角大師という異名もあります。
近江国浅井郡の生まれ。第十八代天台座主。比叡山中興の祖ともいわれます。(以上 岩波書店『岩波 仏教辞典』参照)
たいへんな学識、組織力、カリスマ性、法力があったことが、業績や様々な伝説からうかがえます。
元三大師と呼ばれるのは入滅(亡くなる」こと)の日が正月三日だったからです。
その元三大師こと良源が自分の姿を刻んだ。自刻の像は日演算延暦寺に長らく安置されていたが、戦国時代、織田信長による比叡山焼き討ちのために消失の危機にあった。その際、比叡山の僧が大師像から声がするのを聞きつけ、像を持ち出して逃げた。そして遠く武蔵国にまで落ち延び、拝島の地に安置した。
だからこれを「拝島大師」という。とのこと。
北関東にある某寺院がとく、年末年始にテレビでCMを流し、「関東の三大師」などと言って」います。では、関東の三大師とは何かと調べてみますと、二種類あり、弘法大師をまつる寺院で関東を代表するほどの由緒、規模の真言宗寺院三箇所のことと、天台宗の「元三大師」こと良源をまつる寺院で関東有数の由緒、規模を誇る天台宗寺院三箇所のことをいうらしい。
真言宗の方は「関東厄除け三大師」といい、東京都足立区の西新井大師、神奈川県川崎市の川崎大師、千葉県香取市の観福寺大師堂をいうとのこと。
天台宗の三大師のほうは、栃木県佐野市の佐野厄除け大師、群馬県前橋市の青柳大師、埼玉県川越市の川越大師(喜多院)の三箇所のことだといいますが、諸説ありで、上記の三箇所のうちどれかが外れて、代わりに拝島大師が数えられるとか、東京都調布市の深大寺がそうであるとか、栃木県足利市の足利厄除け大師がそうであるとか、同じく足利市の寺岡山元三大師がそうであるとあk、他にも道合大師だとか、小塚大師がそうであるとか、いろいろと名前が挙がっているのですね。
こうなるともう、そもそも誰が「三大師」を決めたのか、とか、「いっそのこと三大師ではなく六大師とか七大師とか八大師とかにしたほうがいいのでは?」と思ってしまいますね、
それはともかく、諸説ありとはいえ、拝島大師は関東の三大師のうちに数えられるほどの規模と由緒をほこる寺院なのです。