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石川鏡介の旅ブログ

四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 

 四国霊場第三十番札所の奥の院とされる安楽寺でのお参りを済ませ、納経所では(奥の院専用のご朱印帳を持っていていなかったので納経はせず)お守りを購入。

 お守りが置いてある横に代金を入れる箱がありましたが、五百円のお守りを買おうかと思って財布の中を見たら五百円玉が一つもなく、百円玉五枚あるわけでもなかったので、中にいたお坊さん(住職だか副住職高はわからない)に「これ買います」と言って千円札を出そしたら、「お金はそこの箱の中に入れてください」などとそっけなく言われたので、(その五百円玉がなくて釣銭が必要だから千円札出したのに~)と思いつつ、仕方なくそのお守りのほかに五百円のお守りをもう一つかいことにして、箱の中に千円札を入れたのでした。

 

 さて、境内の外に出て、次の目的地に向かいます。

 そのまま市街地の道路を真南に向かうと、高知城の杉東に出ます。歩いて行ってもさほどつかれないような近距離です。

 先達大会のために高知県入りしたからには札所をたくさんまわりたいところではありますが、他の札所へ行っては時間の余裕がなくなりそうでした。

 高知城なら近いし、ゆっくり、時間をかけて見学できると思いましたし、なにより、先達大会の会場にも近くて便利なのでした。

 せっかくの機会だし、高知城には一度も言ったことがないので、行ってみなくては、とも思いました。

 四国遍路として何度も何度も高知県を訪れましたが、高知城には一度も言ったことがない。私としては、もしも四国八十八か所に出会わなければ必ず高知城に言っていたはずなのに、と、不思議な思いもありました。

 もしもお遍路に興味のないひとならば、高知観光ではまず桂浜と高知城には行くでしょう。しかし私の場合、桂浜へは前回の高地旅行で初めて行き、高知城は今回で初めて。

 高知城に規模を実感してみたり、天守閣にのぼって周囲の景色を眺めてみるのも良いだろうと考えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 大師堂にお参りした後、本堂へ向かいました。

 今は三十番札所・善楽寺の奥の院となったとはいえ、かつては四国霊場第三十番札所を名乗っていただけに、立派なお堂です。

 明治の神仏分離令と廃仏毀釈の嵐の中、もともとの三十番札所・善楽寺は廃寺となり、本尊は国分寺に移動したらしいですが、同じく廃寺になっていた安楽寺が復興すると明治九年に本尊・阿弥陀如来をひきとって「札所」として名乗りを上げた、とのこと。

 そのときまだ善楽寺は復興されていなかったので、安楽寺が札所を名乗っても、誰も異議を唱えなかったのでしょうね。

 善楽寺が再興されたのは昭和四年だそうです(朱鷺書房『四国八十八所遍路 徳島・高知編』参照)。

 そこからまあ、老舗料理店や和菓子店によくあるような「どちらが元祖か」みたいな、争い、論争がおこったわけですが、はっきり言ってしまえば安楽寺の方には悪いですが元来、善楽寺が土佐一ノ宮の別当、神宮寺なのであって、それでこそ三十番札所であり、十三番札所も阿波一ノ宮のとなり、八十三番札所の一宮寺も讃岐一ノ宮のとなりにありますように、土佐一ノ宮の隣にある善楽寺こそ三十番札所として正当なのだと私は思いますし、三十番札所並立の時代に終止符が打たれて、落ち着くべきところに落ち着いたのかな、と思います。

 私が初めて四国霊場を訪れたのが西暦一九九七年の夏。その時に用意したガイドブックが昭文社発行の『四国八十八ケ所巡り』でした。この本のが発行されたのが同じく一九九七年の一月(第一版九刷でした)。これには三十番札所として紹介されているのが善楽寺だけで、安楽寺については善楽寺の紹介文の中で過去のいきさつと簡単な歴史が紹介されているのみです。

 これと同じ時期か、初めて高知県方面の札所へ行ったその年の暮れごろに買ったであろう朱鷺書房『四国八十八所遍路 徳島・高知編』では、善楽寺・安楽寺ともに第三十番札所として紹介されているのです。

 ちなみに朱鷺書房『四国八十八所遍路 徳島・高知編』の第一版第一刷の一九八七年四月三十日です。まだ元号が平成になる前です。

 三十番札所並立の時代に終止符が打たれて安楽寺が三十番札所奥の院となったのが平成五年十月ということですから、昭和の時代に発行されたガイドブックでは、善楽寺とともに安楽寺が紹介されたのも、ある意味当然といえるでしょう。

 私が初めて四国一周した時でさえ、途中で出会った老歩き遍路の方が私との会話の中で「ようやく三十番札所の問題も決着しましたね!」と、つい最近のことのように言っていたのが印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 四国霊場第六番札所が安楽寺というので、ここでは高知市の安楽寺のことを書くのに「安楽寺(高知市)」と、括弧をつけて書くこととします。

 さて、私より少し遅れて安楽寺境内に入った小グループが本堂に向かったので、私は大師堂に向かうことにしました。

 小グループの中心人物が先達だと思ったのは、こういう参詣者のグループを「率いる」というのはまず先達だろう、と思える、ということからですが、その中心人物が先達輪袈裟をつけているように見えたからです(私は視力が弱いので確信が持てないし先達輪袈裟だと分かったとしても中先達か大先達だかもわかりません)。

 先達用の杖を持っていたかどうかは記憶にありません。

 

 もともとこの安楽寺(高知市)は真言宗豊山派の寺院ですから、札所であったかなかったかに関係なく、大師堂が存在したのでしょう。

 で、四国の三十番札所だった時代があるので、その時代は大勢の遍路が子の大師堂を三十番札所の大師堂としてお参りしたのです。

 ただ、善楽寺も寺院として復興した時以来、もとの本尊は安楽寺に安置されたままではあっても、善楽寺の大師堂こそ三十番札所の大師堂であると主張したとのことですので、やはり、善楽寺と安楽寺、ともに三十番札所だとされた時代は、善楽寺の大師堂にも大勢の遍路がお参りしたわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 先達さんらしき人が率いる小グループが大師堂や本堂でのお参りを始めたので、私は境内入って左側すぐの多宝塔へ行きました。

 塔の前には不動明王像があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  一之宮である土佐神社の別当寺として善楽寺が創建され、四国霊場第三十番札所となったので、本来、安楽寺は札所でもなんでもなかったのです。

  それが明治の初め、神仏をと廃仏毀釈により、善楽寺が壊され廃寺となった。

  善楽寺の本尊は安楽寺に安置されるようになり、安楽寺が三十番札所となった。

  その後、善楽寺が復興された。

  もともと札所だったのだから、善楽寺は「うちこそが三十番札所です」と主張します。そして、本尊の阿弥陀如来像も返してください、と安楽寺側に言います。

 安楽寺は安楽寺で、「うちは明治以来ずっと三十番札所としてやってきた。うちこそが三十番札所」と主張して譲りません。

 こうして三十番札所が二か所、という時代が続いたのです。

 そほ名残りが境内入り口の脊柱で、「四国第三十番霊場」とか、「土佐一ノ宮安楽寺」というように刻まれています。

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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