考察・十夜ヶ橋 その2 | 石川鏡介の旅ブログ

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四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 弘法大師が大洲の十夜ヶ橋で一夜を明かしたのは、いつなのか。

 夏の夜で、水辺だけに蚊などの虫に悩まされたから一睡もできなかった、と考えられなくもないが、夏の虫の対策はそれなりに考えていたはず。夏の水辺だとマムシなどの蛇が近づいてくる可能性もあるが、それもまた対策を考えていたのではないかと思えます。

 春の場合は春眠暁を覚えずという言葉もありますし、冬に比べて少しずつ暖かくなってゆく季節の移ろいを楽しんだかもしれないし、初秋ならば虫の音を楽しんだかもしれない。

 しかし、冬となりますと何かを楽しむ余裕もなく、実際に日の入りは早く日の出が遅いので’(山間部は特に)一夜が十夜に感じたのかもしれないのです。

 特に、寒さが厳しければなおさらです。

 大きな木の下で休まず橋の下で、となりますと、もしかしたら雨か雪が降っていたのかもしれない。

 山の囲まれた地形だから、寒さもひとしおだったと思えます。

 と、このように考えられるので、時期としては冬が一番可能性が高いと思います。

 では、一人旅だったのか?

 これはちょっとわかりませんが、二人や三人連れならば、何か話しながら夜を明かすこともできますし、一人よりもずっと心強いでしょう。先に同行者が眠りについてしまい、そのいびきの酷さで眠れなかったとしたら話は別ですが。

 となれば、「一夜が十夜の感じる」というのは一人旅だったからではないか、と考えられます。

 次に、どんな橋だったのか?

 土橋と書いてある資料もあります。川崎一洋著『四国「弘法大師の霊跡」巡り』(セルバ出版発行)には「名所図会」に描かれた十夜ヶ橋といって絵が紹介されていますが、土橋のようでもあり石橋でもあるような小さい橋が描かれています。

 弘法大師の時代もそうだったのかは分かりません。

 ただ、現在はそれなりの川幅であって沢や水路程度のものではないものの、肱川の支流に過ぎず地図上でもほんの小さな流れといった程度にしか表示されないことを考えると、小さな橋だったと思われます。

 また、当時の橋建造技術を考えると、そのような小さな流れに大きな橋を造ろうとする(大水で流されたり壊れたりするリスクを考えると)とは思えず、また、大河ならば橋よりむしろ渡し舟にすることを考えても、小さな橋だったと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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