四国霊場第八十七番札所・長尾寺の境内の、本堂の西側には、「静御前剃髪塚」というものがあります。
言うまでもないことながら、「静御前」とは源義経の愛妾として有名な静御前のことです。
源頼朝との間に確執が生じた源義経は、壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた最大の功労者でありながら鎌倉に凱旋することが出来ず、亰に戻り、兄頼朝との溝を深めます。そして対立が決定的になり、頼朝が差し向けた土佐房昌俊らの兵を返り討ちにしますが、北条時政らの大軍が攻め寄せるに及んで、亰を離れ西国に落ちて再起を図ろうとします。
ところが大物ノ浦(今の尼崎)から船出したものの、嵐に遭い、家臣たちとばらばらになってしまい、和泉あたりの海岸(?)に漂着し、西国へ行くどころではなくなりました。結局、吉野の山に逃げたというのは有名な話で、その時一緒にいたのが数名の家臣と、愛妾の静御前でした。
追っ手から逃れ身を隠すためには、寺社勢力に頼り、山深い地に潜まねばならない。吉野から南、大峯山辺りは鎌倉方の追及を逃れ身を潜めるに格好の場所だ。だが、女人は足手まといになる上に、吉野からは女人禁制の場所であるから、静御前とは別れなくてはならなくなった。
こうして源義経は愛妾・静御前と別れ、いろいろと身を隠し、落ち延びた先の奥州平泉に落ち着いたのですが、静御前は鎌倉方に捕まり、鎌倉へと送られます。そして鶴岡八幡宮にて舞を舞うことになるのはドラマなどでよく描かれるところです。
静御前は義経の子を宿しており、鎌倉で義経の子を産みますが、生まれたのが男の子であるため、頼朝の命令により赤子を殺されてしまいます。
その後の静御前の行方はよく分からず、各地に「静御前はここへ来て余生を送ったのだ」という言い伝えがあるようですが、四国においても、長尾寺で剃髪して、この地にて死んだのだ、という言い伝えがあるのです。
静御前の母は「磯ノ禅尼」という名で、讃岐国大川郡の出身であるため、鎌倉を離れた静とその母親が故郷である讃岐に落ち着き、仏法に帰依して剃髪した、ということですから、全然関係ない土地で「ここに静御前が来て」云々というより伝説に説得力があります。
母子(磯ノ禅尼と静御前)ともに得度したのは文治四年(西暦一一八八年)で、静御前の法名は「宥心尼」だという風に、剃髪した年や名前まで具体的に伝わっているのです。なるほど、そうなのかな、と思えてきます。

愛する義経と離れ離れになった静御前の心情はどのようなものだったか。離れていても心は一つ、などと思っていても消息が分からない。どこでどうしているのか、連絡が取れない。おそらくは、奥州平泉の藤原氏のもとに義経が身を寄せたと知って、ひそかに手紙を送ったかもしれない。あるいは、誰かに伝言を頼んだかもしれない。しかし、義経側から静への連絡はあったかどうか。
愛する人と別れ、連絡を取りあうことさえ出来ない。そんな静御前の辛い恋心を想像してみたりします。現代人ならば、「今度の金曜と土曜なら時間が空くから、会えるね!」などとメールを送ったりできますが、昔の人は、そうはいきません。
実は、私が四国八十八ヶ所の中で最初に訪れた寺はこの長尾寺で、当初の目的は四国遍路というより静御前剃髪塚を見るためでした。
四国八十八ヶ所をまわりきるというよりも、長尾寺の静御前剃髪塚や屋島の古戦場、弘法大師誕生の地といわれる善通寺や銭形砂絵で有名な観音寺へ行くことの方が目的として比重が大きかったのです。それがいつの間にか、四国霊場をたくさん廻っているうちに四国霊場の魅力に「はまって」しまったのです。
(2013年12月11日の「石川鏡介のブログ」より転載)

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