坂東三十三観音霊場第七番・光明寺(金目観音)《過去のブログ記事より》 | 石川鏡介の旅ブログ

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四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 坂東観音霊場第五番の勝福寺(飯泉観音)や五百羅漢の玉宝寺へ行った日、小田急線の足柄駅から新松田まで行き、さらに新宿行きに乗って東海大学前駅へ行きました。目指すは坂東観音霊場第七番の光明でした。

 なぜ六番の長谷寺(厚木市の飯山観音)ではなく七番の光明寺を目指したかというと、長谷寺の最寄駅である本厚木駅が東海大学前駅より先にあるからです。つまり、順番通りに行くと本厚木まで行ってバスかタクシーに乗り、さらに本厚木に戻ってまた新松田方面に戻るかたちになって不便なのです。

 長谷寺を優先しては手間暇がかかる。それよりも七番を先に行って、その後、時間に余裕があれば八番札所にも行こう、と考えたのでした。

 そういう事情の説明はこれくらいにしておいて、光明寺についての説明を始めます。

 七番札所の光明寺は通称を金目(かなめ)観音といい、神奈川県平塚市南金目八九六番地にあります。宗派は天台宗、山号は金目山、本尊は聖観世音菩薩、開基は道儀上人です。お寺の縁起によると、大宝二年(西暦七〇ニ年)、現在の大磯町小磯の浜で海女の桶に小さな観音像が入った。それは七寸ほどの金の像だったという。ちょうどそこへ旅の僧が現れ、金の観音像をみて「それこそ聖徳太子の作の観音像である」と言った。そのため海女はありがたく感じて家の奥に観音像をまつった。
 そして、その後に道儀上人という方が一宇を建立した。これが光明寺の始まりだといいます。

 さらに、天平年間には行基菩薩が五尺九寸の観音像を刻み、その胎内に金像(このお寺にもともとあったもの)を納めた。

 これこそが光明寺の本尊で、「お腹ごもりの観音」といわれたという。

 以来、人々の信仰を集め、源頼朝・北条政子夫妻も祈願したといい、北条政子は実朝を産む時に祈願したといわれています。そのためでしょうか、現在でも安産祈願に訪れる人が多いということです。

 源頼朝・北条政子夫妻だけでなく、足利尊氏などの歴代将軍も祈願所と定めたという光明寺は、平塚市街と秦野市街を結ぶ道路と、金目川という川の間にあります。平塚市街や秦野へ通じる街道はクルマの通りが激しく、その両脇は人家が多いのですが、その南、金目川のあたりは緑が多く静かです、光明寺もまた市街地にあるお寺の雰囲気もありながら、静かで落ち着いた雰囲気も併せ持っています。

 お寺の入り口は街道に近い方にもあるのですが、正式な入り口は南側、つまり金目川に面した方です。私は小田急線の東海大学前駅の南口からタクシーに乗りましたが(歩くと時間がかかるので)、タクシーから降りたのはこの金目川に面した正式な入り口の方でした。

 ここに仁王門があります。源頼朝ゆかりの寺だからか、門には笹竜胆の家紋がついた大きな提灯がぶらさがっています。この光明寺の仁王門の金剛力士像はケヤキの一木造りで、関東で最も古いものであり、神奈川県重要文化財に指定されているそうです。

 仁王門をくぐってまっすぐ進むと、そこには観音堂があります。いかにも古い建物です。そう感じるのも当然で、室町時代の明応七年(西暦一四九八年)に再建された建物で、平塚市最古の建物にして神奈川県指定重要文化財だそうです。

(2012年5月 9日の「石川鏡介のブログ」の記事を再編集)

 

 

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