岩国徴古館へ行って来ました | 三浦清隆のブログ

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6月16日(日)朝から好天で、岩国駅から徴古館まで歩くと汗がダラダラと出て来ます。

錦帯橋は今日も沢山の観光客が来てました。

今回の企画展は「岩国徴古館収蔵資料展2024」です。
最初に「郷土に関する資料」では、江戸時代以降の歴史資料で当時の人によって記された唯一無二の資料や印刷物などそれらの一部を読み解きながら紹介させています。

上段右の「教民の詞(きょうみんのことば)」は、杉民治(すぎたみじ)が慶応3年(1867)に作成したものを筆写したもの。

民治は、萩藩出身の教育者である吉田松陰の兄として知られる。また、明治時代初期には第三大区長として山代(やましろ)地域の民政に尽力しています。

「教民の詞」は、中国宋時代の思想家「陳襄(ちんじょう)が著した教育書を和文に改めたものです。

生活一般の道徳的な行いを論じたもので、多くの筆写本がつくられたそうです。

昭和20年4月10日ルソン島で戦死された白本勝三さんに贈られた日章旗。皇国護持や武運長久といった文言の中に、幕末の僧・月性の詩「人間到る処青山あり」なども見受けられ、地域性もうかがえます。


次は「今田家関係資料」

今田家は、江戸時代の岩国吉川家で家老を務めた家の一つで、江戸時代を迎える前から吉川家に仕えていた今田家は、毛利一門による中国地方の統治に貢献しました。

家系図と今田家伝来の矢。


次に、「郷土の美術工芸」

江戸時代後期の岩国の武士・渡辺永喜(わたなべえいき)が描いた鶴の双幅(二つで一対の掛軸)。

渡辺は絵師ではないが、絵画を岩国領の狩野派絵師・佐藤永玄(さとうえいげん)に学んだ後、江戸で狩野高信(かのうたかのぶ)に学んだ。鯉を得意とし、その技術の高さから本業の絵師を超える技術があるといわれた。

由来書によれば、弘治2年(1556)の須々万沼城(すすまぬまじょう)の戦いで、松原将監進氏信(まつばらしょうげんのじょううじのぶ)が敵方の勝屋馬之允(かつやうまのじょう)を討ち取ったことに対し、毛利元就より褒美として賜ったものと伝わっている。


次は、「大屋家関係資料」。

大屋家は、岩国吉川家に仕えた武士の家で、五家が確認でき、各家とも建築を専門とする作事組(さくじぐみ)に従事していました。建築関係の資料の他に、医薬や軍学関係の資料もあり幅広い分野の資料があります。

民間療法や薬法について、大屋家で書き写したもの。「取草妙法」(とりくさみょうほう)寛政12年(1800)という資料が合わせて綴じられています。


最後に、「錦帯橋に関する資料」。

江戸時代後期の浮世絵師・三代歌川豊国が描いた錦帯橋の木版画。

ほとんどの錦帯橋の絵画が側面を描いている中で、正面から描いたものは珍しいが、実景がつかみにくいものとなっています。

江戸時代後期の浮世絵師・溪斎英泉(けいさいえいせん)が描いた錦帯橋の木版画。

構図は錦帯橋を下流左岸の少し高いところから描く一般的なもので、当時すでに多く描かれていた錦帯橋を参考に描いたものと考えられる。また、通常と異なり、署名には「画」ではなく「写」と記されています。


今回の展示は、近年新たに岩国徴古館が収蔵した資料の中から一部を紹介されたもので、通常の企画展と異なり、時代やジャンルが幅広く展示されています。

次回の展示は、「岩国を知ろう!岩国の怪談×US-2」で7月21日〜9月23日までとなっています。

この企画展が今年最後となります。

令和6年9月24日〜令和8年3月31日まで新館建設に伴い休館となります。