「 東京裁判 」 | 0・・映画toほげほげ

0・・映画toほげほげ

   
  
♪ ほげほげたらたらほげたらポン ほげほげたらたらほげたらピー ♪
★映画のほげほげ等、気まぐれ備忘録★

  " 東京裁判 "

 極東国際軍事裁判
 INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR FAR EAST


監督 小林正樹
ナレーター 佐藤慶


1945年

 7月17日
ポツダム会談
前日に原子核爆発実験を成功させたアメリカは強気だった

8月2日まで行なわれた会談で
ヨーロッパの戦後処理問題は合意に達しなかった
合意のなったものは
 米英中三国による日本に対する降伏勧告
いわゆる"ポツダム宣言"の公表だった

日本にとってこの勧告は受け入れられなかった


 8月6日、8月9日
アメリカは念願の原爆を広島、長崎へ投下

 8月15日
終戦の詔勅が放送され
日本は"ポツダム宣言"の受諾を表明した


 8月30日 厚木基地
連合軍最高司令官マッカーサー元帥、日本到着

 9月2日
東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書調印
それはマッカーサーに日本に於ける最高の権威を与えた


皇居の堀に望む第一生命ビルはGHQとなった

 GHQとはGHQ/SCAP即ち
 General HeadQuarters,
 the Supreme Commander for the Allied Powers
 の略であり
 日本語では連合国最高司令官総司令部と呼ばれ
 ポツダム宣言執行のために
 日本での占領政策を実施した連合国軍機関である


ポツダム宣言により決定していた日本統治の占領政策
まず、軍事力を粉砕
継いで、戦争犯罪人を処罰
代表制による政治形態を築く

これらの内 最も急を要するのは戦争犯罪人の処罰だった
戦争中の指導者を処罰することは
日本人に敗戦を思い知らせることになる
マッカーサーにとって戦犯処罰は政治的手段だった

そのマッカーサーが迷う事なく戦争犯罪人に指名したのは
元首相 陸軍大将 東条英機
真珠湾の挑発者、コレヒドールでマッカーサーを敗走させた男
彼と彼の閣僚こそ第一に戦犯として指名されるべきと判断した

 9月11日
マッカーサー司令部による
賀屋興宣、嶋田繁太郎、鈴木貞一、東郷茂徳、東條英機ら40人の
第1次戦争犯罪人指名が行なわれ
土肥原賢二ら3名が追加された

米軍は東條逮捕に向かった
東條大将は拳銃で自決を図った
弾は心臓を外れ一命を取り留め米軍野戦病院に運ばれた


 9月27日
天皇は米大使館にマッカーサー元帥を訪ねる
この会見の結果マッカーサーは天皇に同情するようになった


ヨーロッパに於いてはニュルンベルク裁判が行なわれていた
この裁判で戦争指導者個人の責任を規定した裁判所条例を規定した


 11月19日
荒木貞夫、小磯國昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、白鳥敏夫、
真崎、本庄、ら11人の
第2次戦争犯罪人指名が行なわれた


その頃巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)は改造を終え
これら被告の出頭を迎えた


 12月2日
第3次の指名は
畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、
星野直樹、大川周明、佐藤賢了ら59名に及んだ


 12月6日
賀屋興宣、大島浩ら9名が第4次指名され
さらに永野修身、岡敬純、重光葵、梅津美治郎4名が追加された


1946年

 1月1日
天皇は神格の座を降り人間宣言を行なった
マッカーサーはこれを支持した

 1月22日
マッカーサー元帥は極東国際軍事裁判条例を布告
それはニュルンベルク裁判のそれをほとんど引き写したものだった
市ヶ谷の法廷もニュルンベルク裁判を参考に改造された


裁判を目前にして
マッカーサーの最大の目標であった民主主義化への道も
着々と達成されていた
マッカーサーの指令による五大改革
 憲法の自由主義化
 婦人に参政権付与
 財閥の解体
 農民の解放、農地改革
 神道の特権廃止
それまでの日本のそれまでの組織や習慣を
根底から覆す画期的な方向を指し示していた
民主化は時の合い言葉であった


 4月29日
起訴状の全文の公表と
A級戦争犯罪人28名の氏名が発表された

荒木貞夫、 土肥原賢二、橋本欣五郎、畑 俊六、平沼騏一郎
広田弘毅、 星野直樹、 板垣征四郎、賀屋興宣、木戸幸一
木村兵太郎、小磯國昭、 松井石根、 松岡洋右、南 次郎
武藤 章、 永野修身、 岡 敬純、 大川周明、大島 浩
佐藤賢了、 重光 葵、 嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一
東郷茂徳、 東條英機、 梅津美治郎

人数は法廷に用意された被告席の数で決められた

この中の2人は
最後に到着したソ連検察団の強い要求により
直前に入れ替えられた


 5月3日
極東国際軍事裁判、いわゆる"東京裁判"は開幕を迎えた

 法廷第1日
裁判官は降伏文書に署名した連合国
アメリカ、英国、中国、ソビエト、オーストラリア
カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドから1名づつ
加えて極東委員会のメンバーである
フィリピン・インドからも招かれ11名で構成された
裁判長は元オーストラリア高等主席判事ウエップだった

法廷執行官による開廷の宣言に続いて
裁判長の挨拶が始まる
その内容は刺激的だった
米国人記者の中にも
不必要かつ非礼な言葉であると指摘する声があった

キーナン主席検事官による各国参与検察官の紹介があり
裁判第1日の前半が終わり昼の休憩に入った

 午後
起訴状朗読
 1928年から1945年に至るまでの期間に
 日本の対内外政策は犯罪的軍閥に支配され且つ指導された
 この政策は重大な世界的紛争と侵略戦争の原因となり
 平和を愛好する諸国の利益と日本国民自身の利益を
 大きく損なう原因となった

膨大な起訴状は2日に渡って朗読された
 東條以下28名の被告達は一つの「共同謀議」に加わっており
 その目的は侵略による世界支配であり
 その目的の為、通常の戦争犯罪の他
 「平和に対する犯罪」及び「人道に対する犯罪」を犯し
 あるいは犯すことを奨励した
と断じた

そして55の具体的な素因を列挙し
各被告がどの素因によって起訴されたかを述べた

  第1類
  平和に対する罪
 戦略戦争の計画遂行計画の共同謀議
1. 1928~45までの戦争に対する共通の計画謀議
2. 満州事変
3. 支那事変
4. 大東亜戦争
5. 日独伊三国同盟

 戦争の計画と準備
6. 対 中国
7. 対 米国
8. 対 英国
9. 対 オーストラリア
10.対 ニュージーランド
11.対 カナダ
12.対 インド
13.対 フィリピン
14.対 オランダ
15.対 フランス
16.対 タイ国
17.対 ソビエト
 
 戦争の開始
18.対 中国 満州事変
19.対 中国 支那事
20.対 米国 大東亜戦争
21.対フィリピン 大東亜戦争
22.対 英国 大東亜戦争
23.対 フランス 北部仏印進駐
24.対 タイ国 大東亜戦争
25.対 ソビエト 張鼓峰事件
26.対 ソビエト ノモハン事件

 戦争の遂行
27.対 中国 満州事変
28.対 中国 支那事変
29.対 米国 大東亜戦争
30.対 フィピン 大東亜戦争
31.対 英国 大東亜戦争
32.対 オランダ 大東亜戦争
33.対 フランス 北仏進駐
34.対 タイ国 大東亜戦争
35.対 ソビエト 張鼓峰事件
36.対 ソビエト ノモンハン事件

  第2類
  殺人及び殺人共同共同謀議
 開戦以前の条約違反
37. 1940.6.1~1941.12.8に至る間の
  米国 フィリピン 英国 オランダ タイ国に対する
  侵略 不当攻撃による軍隊 一般人の殺害
38. 同上
39. 1941.12.8 真珠湾攻撃
40. 英領コタバル攻撃
41. 香港攻撃
42. 上海の英艦ペトレル号攻撃
43. フィリピン・ダパオ攻撃
 
 捕虜及び一般人の殺害
44. 満州事変から大東亜戦争終了までの
  関係諸国に対する攻撃
45. 南京市攻撃 (南京事件)
46. 広東市攻撃
48. 長沙市攻撃
49. 衡陽市攻撃
50. 桂林 柳州両都市攻撃
51. ノモハン事件
52. 張鼓峰攻撃
 
  第3類 
  通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
 戦争法規及び慣例法規違反
53. 満州事変から大東亜戦争までの
  戦争法規違反防止の回避
54. 同法規違反の命令 援護 許可による戦争法規違反
55. 俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視


被告の1人大川周明は
寝間着で出廷し東條のはげ頭を叩くなどの
奇行で退席させられた後
梅毒による精神障害と診断され
裁判から除外された
$0・・映画toほげほげ-大川周明


 5月6日
 罪状認否
裁判はここから実質的に始まる
$0・・映画toほげほげ-被告席

荒木貞夫  陸軍大将 陸軍大臣・文部大臣、   無罪を主張
土肥原賢二 陸軍大将 奉天特務機関長・奉天市長、無罪を主張
橋本欣五郎 陸軍大佐 大政翼賛会常務総務、   無罪を主張
畑俊六元帥陸軍大将陸軍大臣・支那派遣軍総司令官、無罪を主張
平沼騏一郎 男爵   総理大臣・枢密院議長、  無罪を主張
広田弘毅       総理大臣・外務大臣、   無罪を主張
星野直樹   満州国総務長官・東条内閣書記官長、無罪を主張
板垣征四郎 陸軍大将 関東軍参謀・陸軍大臣、  無罪を主張
賀屋興宣      大蔵大臣・北支那開発者総裁、無罪を主張
木戸幸一  侯爵   内大臣・文部大臣、    無罪を主張
木村兵太郎陸軍大将陸軍次官・ビルマ方面軍司令官、無罪を主張
小磯國昭  陸軍大将 総理大臣・挑戦総督、   無罪を主張
松井石根  陸軍大将 中支那方面軍司令官、   無罪を主張
松岡洋右       外務大臣・満州総裁、   無罪を主張
南 次郎  陸軍大将 陸軍大臣・関東軍司令官、 無罪を主張
武藤章陸軍中将軍務局長・フィリピン方面軍参謀長、無罪を主張
永野修身 元帥海軍大将 海軍大臣・軍令部総長、 無罪を主張
岡 敬純  海軍中将 軍務局長・海軍次官、   無罪を主張
大島 浩陸軍中将駐独日本大使館付武官・駐独大使、無罪を主張
佐藤賢了  陸軍中将 軍務局長、        無罪を主張
重光 葵     外務大臣・駐ソ大使・駐英大使、無罪を主張
嶋田繁太郎 海軍大将 海軍大臣・軍司令部総長、 無罪を主張
白鳥敏夫       駐伊大使・外務省情報部長、無罪を主張
鈴木貞一  陸軍中将 企画院総裁、       無罪を主張
東郷茂徳     外務大臣・駐ソ大使・駐独大使、無罪を主張
東條英機  陸軍大将 総理大臣・陸軍大臣、   無罪を主張
梅津美治郎 陸軍大将 関東軍司令官・参謀総長、 無罪を主張

英米法の手続きにより全被告が無罪を主張したが
何人かの被告は無罪を主張することを潔しとせず
弁護人はその説得に苦労した

裁判が始まって2日目ようやく弁護側は日本弁護団を結成した
しかもこの時点に於いても弁護方針の意見が別れていた
だが裁判長は弁護側の要求する3週間の猶予を許さなかった


 5月13日、法廷 第4日
 裁判管轄権問題

勝利者である連合国が裁判を行なう権利を持つか否か
裁判と名づけられた以上管轄権は争われねばならぬ第一の争点だった

ポツダム宣言の条項は連合国をも拘束するものと
東條被告の弁護人清瀬は主張する

弁護団は終始ポツダム宣言の受諾はその条項にある通り
日本軍隊の無条件降伏であり
国家の全面的無条件降伏ではない

と言う事を弁護の中核としていた

すなわち俘虜の虐待を含む戦争犯罪を厳罰に処する条件は認めるが
問題となるのは戦争犯罪と言う言葉の意味である

当時の国際法学者は宣戦布告・戦争行為自体を
戦争犯罪とはみなしていなかった
平和に対する罪また人道に対する罪と言うのは
ポツダム宣言の時点では法律上戦争犯罪の範囲外だった

従ってこのような罪で起訴する事は違法である
ある行為を後になって法律を作って処罰することは
近代法の大原則に背くものであり
公正をうたった裁判は根底から崩壊する
清瀬の異議は重大な意味を持っていた

当然検察側が受け入れるはずがない
キーナン検事の反発の激しさは
ウエップ裁判長の法廷常識を驚かせた

キーナン主席検事は弁護側の法律論議は
文明を救う為に行なっているこの裁判に対する挑戦だと言う
法律論による反対で犯罪人が処罰されないなら
人類は生き残る法律的権利がなくなるではないか
キーナンの反駁は2時間に及んだ
さらに検察側は英国代表のカー検事が反駁を加えた

再び反論に立った清瀬弁護人は
トルーマン大統領の
 世界の歴史始まって以来初めて
 戦争製造者を罰する裁判が行なわれつつある
と言う言葉を引いて報いた
 あなた方の大統領が従来の法律的観念では律しえない裁判が
 行なわれている事を認めているではないか
 それなのにこの裁判が適法であり公正であると主張するのは
 矛盾ではないか

清瀬弁護人の抗弁は打ち切られ
決議は後日に保留され休廷となった


 5月14日 法廷 第5日
 補足動議

重光被告の弁護人ファーネスは主張する
 真に公正な裁判を行なうのならば
 戦争に関係のない中立国の代表によって行なわれるべき
 勝者による敗者の裁判は決して公正ではありえない

続いて発言台に立った梅津被告の弁護人ブレークニーは
戦争は犯罪ではない。と言う
 国際法は国家利益の追求の為に行なう戦争を
 これまで非合法とみなした事はない。
 歴史を振り返って見ても戦争の計画・遂行が
 法廷に於いて犯罪として裁かれた試しはない
 平和に対する罪と名づけられた素因は
 総て当法廷により却下されねばならない

継いでブレークニーは言う
 国家の行為である戦争の個人責任を問う事は法律的に誤りである
 何故ならば国際法は
 国家に対し摘要されるものであり個人に対してではない
 個人による戦争行為と言う新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである

彼の論議はさらに続く
 戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない
 戦争が合法的だからです
 つまり 合法的な人殺しなのです
 殺人行為の正当化です
 たとえ嫌悪すべき行為でも 犯罪としての責任は問われなかったのです
 キット提督の死が真珠湾攻撃による殺人なら
 我々は広島に原爆を投下した者の名をあげることができる
 投下を計画した参謀長の名も承知している
 その国の元首の名前も我々は承知している
 彼らは殺人罪を意識していたか していまい
 我々もそう思う
 それは彼らの戦闘行為が正義で 敵の行為が不正儀だからではなく
 戦争自体が犯罪ではないからでしょう
 何の罪科で いかな証拠で 戦争による殺人が違法なのか
 原爆を投下した者がいる!
 この投下を計画し その実行を命じ それを黙認した者がいる!
 その人達が裁いている


英米法に精通したアメリカ人弁護人は
日本人弁護人以上に法の公正を要求し
この裁判の欠陥を突いて止まなかった

 5月17日
裁判管轄権に対する異議は却下された
理由は将来宣告するとして明らかされなかった
この裁判の成立に関する大きな疑問は解かれる事なく終わった
裁判は有無を言わさず成立した


 6月3日
来日の遅れていたインド代表判事パルがこの日から審議に参加した
パルは判事団の中で
只一人国際法関係の著書を持つ裁判官
だった


 6月4日
キーナン主席検事の冒頭陳述


 6月13日、一般段階
被告達が検事側の言う不法な侵略戦争を行なうにあたり
その全期間に於いて行なった
政治組織の変革及び宗教・教育・宣伝等による軍国化の実態の究明

検察側の証拠提出はこの日から始まり6ヶ月に渡り
裁判で問われる17年間が各段階に分けて論告された


 6月27日
病の床にあった松岡被告は病院の一室で死去


 7月1日、満州段階
板垣被告が満州事変に関与した件
土肥原被告が謀略により溥儀を満州国元首にした件


 7月22日、中国段階
梅津被告が河北省支配に関わった件
南被告がチャハル省支配に関わった件
広田被告が軍による政治権力獲得への道を開いた件
土肥原被告が盧溝橋事件に関わった件


 7月25日
 南京事件の告発
当時現地軍の最高指揮官は松井石根被告だった
南京事件は裁判冒頭に於いて管轄権を疑われた罪状ではなく
議論の余地のない戦争犯罪だった


 8月16日
元満州国皇帝愛新覚羅溥儀が検察側の証人として出廷
溥儀は日本軍部のロボット同然だったと証言

 裁判から18年後に出版された自伝の中で溥儀は
 戦争犯罪人となる事を恐れて偽証したと告白している


 9月19日、日独伊同盟段階
松岡被告が日独伊三国同盟に関わった件


 9月30日、対仏段階
松岡被告が仏領インドシナの進駐に関わった件


   10月1日
  ニュルンベルク裁判の判決が下る
  絞首刑12名、終身刑3名、有期刑4名、無罪3名
  処刑は2週間後に行なわれた


 10月8日、対ソ段階
ソ連検事は起訴状の定めた期間を25年もさかのぼる
日露戦争時代に言及し
さらに日本の侵略の実例として
日ソ間で正式に解決済みの事件を持ち出して来た


 10月21日、太平洋戦争段階
東条被告の真珠湾攻撃に関わった件

 12月3日、対蘭関係
 12月10日、対比関係

 12月16日、残虐行為(B級犯罪)段階
バターン死の行軍について


1947年

 1月3日、残虐行為に関する被告の個人責任段階


 1月5日
真珠湾攻撃の最高責任者であった永野被告が急性肺炎により死亡


 1月24日
検査値側立証終了
 

弁護側の反論も検察側の定めた各段階に対応して進められ
1947年1月27日より1年の長きに渡った

 1月27日
弁護側公訴棄却申立

 2月3日
裁判所上記申立を全面棄却

 2月24日
弁護側冒頭陳述
弁護側反証

 2月25日
一般段階


 3月5日
広田の弁護人スミス
裁判長の度重なる介入に対し
"不当なる干渉"と言う言葉を使って抗議した
法廷はこの言葉の取り消しを求めたがスミスは
この言葉はアメリカ法廷ではしばしば使われており取り消す必要はない
と主張し審理から除外させられた


 3月18日
満州段階


 4月10日
被告の証言の機会は只一回に制限すると検事側は主張
この主張は判事団の多数決により認められた

 4月11日
南被告が証言台に立ったが
カー検察官の辛辣・執拗な反対尋問にさらされ苦渋を嘗めた
 満州事変の勃発にあたって
 不拡大方針を取る日本政府の陸軍大臣である南が
 関東軍の行動を抑制できなかったのは何故か
 表面では政府の不拡大方針に同意しながら
 本心では関東軍の行動を承認していたからではないか
 
南は統帥権の独立によって陸軍大臣には
直接現地軍の作戦行動に命令を下す権限がなかったと陳述した


 4月22日
中国段階

 5月3日
証人石原莞爾陸軍中将は
満州事変の中心は自分であり
その自分が法廷に召還されないのが不思議である
と、連合国の戦犯指名の基準の誤りを指摘した


 5月16日、対ソ段階
弁護側はソ連の非常識な論告は認められぬと反駁し
さらに日ソ中立条約を破り攻撃してきたのはソ連であると追求する
ブレークニーはソ連が日ソ中立条約を侵犯したこと
及びソ連の対日侵略準備を証明するための証拠書類の受理を迫った
法廷は証拠書類の受理を決定した



 6月12日、日独伊段階
大島被告の弁護人カニンガムの反論は
三国同盟が何ら軍事的効力のなかった事を主張していた


 8月4日、太平洋戦争段階
ブレークニーは数日間に渡り証人に質問を浴びせアメリカ首脳が
ハルノートを日本が受け入れる可能性はないと考えていた事
即ちハルノートは事実上の最後通牒であった事
更にこのハルノートの提示以後ハル国務長官が
もはや戦争は避けられないと言っていた事
更にルーズベルト大統領が
日本政府の発した12/6の電報を傍受していた事など
数々の証言を引き出した

このことは日米開戦が日本の奇襲であるとする
検察側の主張を覆すに足る大きなポイントだった


 9月10日、個人反証段階
荒木被告が最初に証言台に立つ
冒頭陳述は精神主義者荒木の面目を如実に反映し
検察の主張に真っ向から立ち向かって法廷を驚かせた
検察側は当惑しカー検事も歯切れが悪かった

 9月16日
土肥原被告は証言台に立たなかった

畑、平沼、広田、星野、木村、佐藤、重光、梅津も証言台に立たなかった
それらのほとんどは法廷戦術上被告が証言台に立たない方が有利である
との弁護人の判断によるものだった


板垣被告が証言台に上がる
満州事変の鍵を握る板垣は中国検事の激しい反対尋問を浴びた
板垣は満州事変の発火点となった武力行使が
関東軍の自衛行動であったと主張した


 10月14日
木戸被告が証人台に向かう
木戸は文官被告中広田と共に検察側から最も重要視された人物である
長年天皇のそば近くにあった木戸の証言は注目を集めた

検察側は反対尋問にキーナン主席検事をあてた
天皇の責任を追求しないと言うアメリカ政府の意向を受け
キーナンは日米開戦が天皇の意志によって行なわれたのではないことを
証明しようとしていた
反対尋問の焦点は対英米開戦を決意した御前会議と
東條総理大臣任命の経緯だった

キーナンは天皇は只単に判を押しただけだろうと言って迫る
しかし木戸はキーナンの度々の誘導に対して
満足のゆく証言を与えなかった

やむを得ずキーナンは次の質問に移る
 あなたは東条に戦争か平和かの選択を委ねたのですね
木戸はそうではありませんと軽く否定した


 11月7日
法廷はウエッブ裁判長の発言から混乱した
 私は一時帰国する為12月のある時期まで出廷できません

 この帰国問題は天皇の責任を追求したいウエッブの思惑が
 マッカーサーの思惑と衝突した為と言われた


 11月13日
武藤被告の個人反証
検察側は武藤を東条の重要な共犯者とみなした


 12月3日
自ら証言台に立たなかった重光被告に対し
この裁判を裁く側の人から寄せられた証言は
重光の誠実な外交生活の証だった


 12月8日
真珠湾攻撃当時の海軍大臣嶋田被告が証言台に立つ
 帝国海軍は伝統として国際法を厳守すると言う事を
 日露戦争以来の誇りにしています
 我々は国際法を破って敵の裏をかくような
 けちな考えは毛頭持たない
 永野はもとより他の誰からも海軍の誰からも
 そんな汚い考えを持ったのを聞いたことがありません

 12月15日
当郷被告は当初海軍は真珠湾奇襲を意図していたと言う
 連絡会議で当郷が開戦時期を正した時
 永野軍令部総長は奇襲作戦を明らかにした
 これに対し予は激しく戦った後国際法の要求する限界に食い止めた

更に反対尋問に立った嶋田被告の弁護人の質問に対し
 嶋田と永野から海軍が奇襲を企てている事を言ってくれるな
と脅迫された事実の証言を行なった

徹底した個人弁護を当郷に決意させた背後には
開戦気運の高まりの中で平和交渉に携わるものを
孤立無援に追い込んだ軍部に対する不審と怒りが深く根ざしていた


 12月26日
東京裁判の主役東條被告の登場
清瀬弁護人は大東亜戦争の侵略説を真っ向から否定した
対戦中のアジア政策が侵略ではなく
諸民族の植民地からの解放と独立を目指したものであると訴えた

続いて3日間に渡ってブルーエット弁護人が読み上げた口供書の最後を
東條被告はこう結んだ
 国際法から見て
 正しき戦争か否かというその問題と
 敗戦の責任問題は明らかに別個です

 第一は外国間のことで国際法解釈の問題です
 私はこの戦争が自衛であり
 現在承認されている国際法には違反しないと最後まで主張します
 私はこの戦争行為が勝者によって国際犯罪としい訴追され
 合法的に任命された敗戦国の官吏個人が
 国際法の犯罪人として個別に告発され
 条約の違反者として糾弾されるとはかつて考えた事がありません

 第二の問題 敗戦の責任については総理大臣であった私の責任です
 その意味においては私は進んで責任を負うものであります

 12月31日
キーナン主席検察官による反対尋問が始まった

キーナンにとって最大の課題は
天皇免責のはっはりした証言を東條から聞き出すことだった
このキーナンの意図は日本人弁護人を通じて東条に伝わっており
東條もこれを承知していた

ところが木戸被告の弁護人より
 天皇の平和に対する御希望に反した行動を木戸がした事はあるか
と質問された時、東條は
 そう言う事例はもちろんありません
 日本国の臣民が陛下の御意思に反して
 彼此する事はあり得ぬ事であります

これは東條の本音であったろうが明らかな失言となった
天皇の責任を問うべきであると主張しているウェブ裁判長が
この発言を見逃すはずがない

東條にこの発言を訂正させねばならない
キーナンはあらゆる人脈を動員して工作をした

1948年

 1月2日
キーナンの反対尋問は続く

 1月5日
開戦直前の対米交渉文書 甲案・乙案
東條に対するキーナンの反対尋問は振るわない

 1月6日
再び天皇免責問題
キーナンは東條説得工作を完了し法廷に望む

キーナンは問う
 12月31日にあなたは
 日本国民は天皇の命令に従わないと考える者はない
 と言いましたがそれは正しいですか

東條は答える
 それは私の国民としての感情を申し上げたのです
 責任問題とは別です

キーナンは更に念を押す
 戦争を行なえと言うのは天皇の意思でしたか
東條は言う
 意思と反しましたかもしれませんが
 しぶしぶ御同意になったと言うのが事実でしょう

この証言によりキーナンは政治目標を達成した

東條の証言は1月7日に終わった
その後法廷は梅津被告の個人段階を経て
個人反証を完了した


 1月8日
マッカーサーは天皇の不起訴を決定した


 1月9日
個人反証段階終了後に嶋田は特に発言を許された
 私どもが脅迫した事は全然ありません
 脅迫ととるのは当郷の心にはよほど疾しい所がある
 彼は自分の逃げ道を探して普通使えないような言葉を使って逃げた

当郷・嶋田の対決は開戦当時の指導者の分裂の実態を露にした


 2月11日
法廷では検事側の最終論告を迎えた

キーナンは
 彼らは誰一人として人類の品位を尊重していないと決めつけた
 従って被告たちは実行した犯罪に相当する死刑に値すると結論した


弁護側の最終弁論は日本人弁護団団長鵜沢により始められた

 東洋に於いては和を求める王道を基本としている
 被告達もその思想の中で育て上げられてきたのであって
 不正行為を謀議し侵略戦争を行なうなどのあるはずがない
 東洋を図るには東洋の尺度を以てせねばならず
 西洋の尺度のみで図ろうとするこの裁判は
 そこに根本的な誤りがある

鵜沢の弁論はこの裁判で感じられた
人種的偏見を突いたものだった


続くローガン弁護人の最終弁論では
日本は挑発せられ自衛の戦争に立った。と主張し
経済封鎖は戦争行為とみなす言葉を引用し
最後こう付け加えた
 彼らは日本国を愛しました
 そして彼らの決定は祖国にとって生きるか死ぬかの決定でした
 彼らは祖国を愛しました
 そして決定をしなけばならぬ地位にありました
 彼らの立場になって考えて下さい
 その立場に立ったら他の決議をできるでしょうか


 4月16日
 審議終了
法廷はタブナー検察官の論告が終わろうとしている

 この人たちはならず者ではない
 かのニュルンベルグ裁判の被告ら屑とは別種の人達です
 だが、それだからこそ罪を負わねばならぬ
と言って論告を終わった

この瞬間に東京裁判の総ての審議は終わった
公判回数は800回を越えていた


 11月4日
 判決
10章に渡る判決文の朗読は約1週間を要した
その内容は弁護側の主張をほとんど取り入れず
裁判冒頭に問題とされたこの裁判の違法性についても
ニュルンベルクの判例を根拠に簡単に裁定を下していた


裁判長は判決にあたり判事団の中に少数意見があった事を述べた

裁判所条例は
これら少数意見の内容を法廷で朗読すべきものと定めており
弁護側はそれを実行するよう動議を出した
しかし裁判長は
これが長文であり朗読に数日を要するとの理由で却下した


少数意見は5名の判事によるものだった
その一人がウエッブ裁判長自身だった

ウエッブ裁判長の意見は天皇の責任問題に言及し
日本国最大最高の権限を持つ立憲君主の責任は
まぬがれるものではないと指摘した
そして天皇を不起訴とする以上
被告達を有罪とするのは公平を欠くものであるとした

フランスのベルナール判事
多数派の判事達が証拠採用の可否を見当する際
全員による討議を行なわず
多数派によって運営を強行してきた事実を暴露した

オランダのローリング判事
平和に対する罪はニュルンベルグ裁判所条例以前には
真の犯罪とはみなされておらず
従って現在確定されている国際法からすれば
どのような人も
平和に対する罪を犯したかどによって
死刑に処せられるべきではない。と言う主張を第一にあげた

フィリビンのハラニーヨ判事は
裁判所が被告に対し寛大過ぎて裁判を長引かせた事
一部の被告の刑罰が軽過ぎて見せしめにならない
と言う不満を延べた


インドのパル判事が提出した意見書は英文にして25万語に及んだ
このパル判決書の内容は
その後の法学者や歴史家に大きな波紋を投げかけた

パルの意見書はまず
この裁判所で適用すべき法とはいったい何か
と言う問題から出発しその結論として
裁判所条例と言えども国際法を超える事は許されない
これを犯すことは将に謁見であるとし
国際裁判所の裁判官は最高司令官より上位に立って
裁定する権限を持つべきである
と言う基本的な姿勢を表明した

そしてパルはこの裁判に於いては
日本の行為が侵略であったかどうかを
正す事が本義であったにも関わらず
裁判所側が始めから侵略戦争であったとの前提で
裁判を進めた事実を非難

彼自信の歴史への深い造詣から
裁判で問われた諸々の事件を解明し
検察側の描いた日本の侵略戦争の歩みを
歴史の偽造とまで断じた

彼はアジアの歴史に於いて
更に遡った時代に於ける
欧米の行為こそ将に侵略の名に値する。と言及し
全被告を無罪と判定し
総ての起訴事実から免除すべきである。と主張した


 11月12日
 法廷 第416日
午後の法廷でウエッブ裁判長はかく被告毎の罪状判定に移り
全員を有罪と判定した

荒木貞夫  訴因 1、27
土肥原賢二 訴因 1、27、29、31、32、 35、36、54
橋本欣五郎 訴因 1、27
畑俊六   訴因 1、27、29、31、32、        55
平沼騏一郎 訴因 1、27、29、31、32、    36
広田弘毅  訴因 1、27、              55
星野直樹  訴因 1、27、29、31、32
板垣征四郎 訴因 1、27、29、31、32、 35、36、54
賀屋興宣  訴因 1、27、29、31、32
木戸幸一  訴因 1、27、29、31、32
木村兵太郎 訴因 1、27、29、31、32、     54、55
小磯國昭  訴因 1、27、29、31、32、       55
松井石根  訴因                   55
南次郎   訴因 1、27
武藤章   訴因 1、27、29、31、32、     54、55
岡敬純   訴因 1、27、29、31、32
大島浩   訴因 1
佐藤賢了  訴因 1、27、29、31、32
重光葵   訴因   27、29、31、32、33、      55
嶋田繁太郎 訴因 1、27、29、31、32
白鳥敏夫  訴因 1
鈴木貞一  訴因 1、27、29、31、32
東郷茂徳  訴因 1、27、29、31、32
東條英機  訴因 1、27、29、31、32、33、    54
梅津美治郎 訴因 1、27、29、31、32


被告は一たん退席
刑の宣告を受けるため
起訴状に並ぶ名前の順で個別に入廷する


荒木貞夫  終身禁固刑
土肥原賢二 絞首刑
橋本欣五郎 終身禁固刑
畑俊六   終身禁固刑
平沼騏一郎 終身禁固刑
広田弘毅  絞首刑
星野直樹  終身禁固刑
板垣征四郎 絞首刑
木戸幸一  終身禁固刑
木村兵太郎 絞首刑
小磯國昭  終身禁固刑
松井石根  絞首刑  
南次郎   終身禁固刑
武藤章   絞首刑
岡敬純   終身禁固刑
大島浩   終身禁固刑
佐藤賢了  終身禁固刑
重光葵   禁固7年
嶋田繁太郎 終身禁固刑  
鈴木貞一  終身禁固刑
東郷茂徳  禁固20年
東條英機  絞首刑 

欠席の賀屋・白鳥・梅津にそれぞれ終身刑の判決を下し
東京裁判は終わった


 11月23日
マッカーサーは対日理事会に於いて
原判決通りの執行を決定した
そして次のように声明した
 全知全能の神がこの死の事実をもって
 すべての国家をして戦争を放棄せしめるに至るまで
 象徴として使い給うことを願う


 12月23日
7人の処刑は午前0時1分30秒より行なわれ同35分に終了した



  裁判より25年の後に
  アメリカ国防総省が公開したフィルムを再編集し
  ナレーションを付したドキュメンタリー映画


  東京裁判の様子を
  その背景となった歴史的事実を交えながら描く


  かなり長いですが
  歴史に興味があれば必見


 $0・・映画toほげほげ-東京裁判


1983年 日本映画 277分 白黒
 ブルーリボン賞 作品賞受賞
 ベルリン国際映画祭 国際評論家連盟賞受賞