大震災と「改憲」をむりやり関連づけようとする動き
世の中には、何でも「改憲」の動きに結びつけようとする人達がいる。
正直言って不快感を感じる。
大震災も「非常事態」の一種だから、本来なら「国家」が毅然とした態度で「大権」を行使しなければならないというのだが、
今の憲法には、そんな条項がないから、大震災を良いきっかけとして「大規模自然災害にも即応できる憲法をつくろう」(新憲法制定議員同盟・4月28日大会スローガン)というわけだ。
皮肉なことに、この主張をしている議員同盟の会長さんは元首相の中曽根康弘さんだ。
原発推進の一番の「恩人」も中曽根康弘さんであることは、知る人ぞ知る明々白々な事実であるから、
自分のタバコの不始末で大火事を起こしておきながら、消防車が来るのが遅いと怒鳴り散らしている理不尽なオッサンみたいに中曽根さんが見えてくるのだが、そう思うのは私だけであろうか?
「中曽根康弘」さんと「原子力発電」推進の関係について知らない人は、この2つの言葉をキーワードにしてネットで検索されたら良い。
ザクザクといろいろ出てくるから。
さて「非常事態」に即応できる「法律」を作ることそのものには反対ではないのだが、なぜそれが「憲法」でなければならないのか、私は頭が悪いので、「自民党憲法改正推進本部」の優秀な頭脳の先生方の考える理屈が全くわからない。
憲法に書き込まなければならないほど重要なことだったら、 05年の自民党の憲法草案にも載せておくべきだっただろうが、
「非常事態」は起きてみなければ、「非常事態」があることすら認識できない実例を見せつけられているみたいで、
憲法に載せる云々よりも、電力会社の安全対策に対して云々すべき性質のものだろう。
「非常事態条項」を憲法に盛り込むことで「非常事態条項」をやたら使いたがるような連中が出てくることのほうが、はるかに心配だ。
平成版「統帥権」の復活とやらで、昔懐かしい気がしないでもないが、誰が「大元帥」をされるおつもりやら。
だいたいリーダーシップを「法律」で決めようと発想することがおかしい。
それよりも優れた人物をリーダーに選出できる仕組みを考えることのほうが先決だろう。
いじめられっ子に大型ナイフを持たせれば、イジメは解決するというのと同じような発想だ。
実に北朝鮮的な発想で、たしかに世襲のボンクラが指導者になっても「国家」は安泰だ。
現に北朝鮮などは年がら年中「非常事態」だ。
自民党憲法改正推進本部の皆様方の理想国家は北朝鮮なのか?
私は物覚えが、年のせいか、とても悪くなっているので、記憶違いなら喜ばしいことなのだが、
今の憲法では「国家」は「国民」に奉仕しなければならないと書いてあるところを
、自民党案では「国民」は「国家」に奉仕しなければならないと書いてあったような気がする。
もちろん調べればすぐわかることだが、基本がズボラな私は面倒くさがりなので、これ以上の追及はしない。
弾よけに
生めよ殖やせよ
国のため
と川柳に詠んで獄死した人が昔いたから、私のようなくだらないダベリも、「非常事態」のもとでは「国家」への反逆と見なされそうだ。
あの治安維持法だって、大正デモクラシーの真っ只中で、「共産主義」を取り締まるためだけに作られた法律だったはずだが、後に拡大解釈されて「国家」への批判と見なされた言論は全て取り締まられた。
だいたい「国民」が忠誠を誓わなければならない「国家」て何?
そりゃあ「国家」を私物化したがってる連中の既得権益と、「国家」にしか自分の存在理由を見いだすことのできない宗教的心情の共同作業でしょう、と言いたいところだ。
それが自民党というかつての「万年与党」の実態ではないのか?
だからいまだに「国家」に対する執着には並々ならぬものがある。
「将来」が不安だから、「過去」に戻りたがる人も出てくるわけだが、大事なことは百年前の日本を懐かしむより、百年後の日本はこれからも激変していくであろう世界の中でどのような位置を占めているのか、あるいは占めていくべきなのか、想像を働かせていくことではないか。
「国家、国家」とニワトリみたいに騒ぎ立てる人のタイプには、単なるえーとこのボンボンのひきこもりみたいで、「世界戦略」らしきもののヒトカケラも持っていないようなタイプは、けっこう多いような気がする。
ただ勇ましいだけなのが、かっこよく見えるのだろう。
だいたい憲法改正して、その後どうすんの?
アメリカをお手本にしたいのなら、アメリカの憲法をお手本にすりゃあいい。
アメリカでは憲法を変えずに修正と追加をするだけで200年以上やりくりしている。
アメリカの「自由と平等」は憲法発布後も100年くらい奴隷制度を続け、さらに100年くらい黒人差別を続けてきたウソ八百のシロモノだが、
この憲法を「古い」だとか「実態に合わない」だとか「現実に合わせよ」とか批判してきた人はいたか?
安倍元首相も、この古くて実態の伴ってこなかったアメリカ憲法を「美しい国へ」の中でとても賛美していらっしゃったが、
同じ憲法でも、日本国憲法は古くて実態の伴わなかったことが批判の対象となるらしい。
しかし、私は日本国憲法の「絶対平和主義」というバカバカしいくらいの理想主義は、200年以上前の「自由と平等」というアメリカ憲法のバカバカしいくらいの理想主義と匹敵するくらい、世界の歴史の展開の中で大きな意味を持つ存在になりうるものと思っている。
200年以上前のバカバカしい理想主義は、現代の「民主主義国」では誰もが否定しようがない当然の権利になっている。
国を愛する気持ちというのは、国が国民に対して誇れるような世界史的役割を果たそうと努力するところに生まれるものだ。
戦前の愛国心も世界の中の「強国」日本を国民が自覚していたからこそ生まれたものであって、愛国心の回復を「教育」だけで達成しようという発想は、単なる戦前回帰であり、日本の北朝鮮化しか意味しない。
日本国民として真の愛国心を育てたいと思うなら、100年後の世界の姿を見据えた日本独自の「世界戦略」こそ打ち立てなければならないのであって、
それを動かすエンジンともなるべきものは、アメリカの「自由と平等」と同じく、バカバカしいくらいの理想主義である日本国憲法の「絶対平和主義」ではないかと私は思っている。
世界経済のグローバルな展開は、一国のだけの経済政策の成功を想像することができないほどの経済環境の激変をもたらしているのであり、
将来的には金融通貨政策の世界的統一、最終的には経済に関して国家が持っているところの経済に関する主権の世界的統一まで進まなければ、待ち構えているものは世界全体の破局かもしれない。
ひきこもりナショナリストとは真逆の世界的視野こそが日本の指導者に求められている資質であるような気がする。
バカバカしい理想主義こそが世界における日本の存在のアピールであるとも私は思っている。
ところが憲法の「絶対平和主義」をバカバカしいと思っている自民党政府は、日本国憲法の理想を世界に宣揚する努力などまともにしてきたことがなかった。
私にしてみれば、自国の憲法を恥ずかしいと思うほうがよほど恥ずかしい。
真剣に理想を追求する日本外交を展開すれば、アメリカの憲法のように200年後の世界史の教科書で、日本国憲法が大きく取り上げられているかもしれない。
ただ勘違いしてはいけないことは、理想は高く持っても、行動はあくまでも現実主義的でなければならない。
自衛隊の強化、尖閣諸島の防衛、実にけっこうなことだ。
憲法はあくまでも「理想」を宣揚したもので、「現実」をおしつけるものでないことは、アメリカの憲法の歴史とちっとも変わらぬではないか。
現実主義的でない理想主義は笑い物にされるかもしれないが、日本を一番ダメにしているものは、理想主義者ではなくて、理想を持たずに現実的に行動することばかり心がけている、いわゆる「現実主義者」である。
「現実主義者」とは変わらぬこと、変えぬことを絶対と思い、理想を現実にひきずりおろし、現在を過去に引き戻すことを考えるような種類の人のことである。
私は「現実主義者」よりも「理想主義者」のほうに惹かれる。
正直言って不快感を感じる。
大震災も「非常事態」の一種だから、本来なら「国家」が毅然とした態度で「大権」を行使しなければならないというのだが、
今の憲法には、そんな条項がないから、大震災を良いきっかけとして「大規模自然災害にも即応できる憲法をつくろう」(新憲法制定議員同盟・4月28日大会スローガン)というわけだ。
皮肉なことに、この主張をしている議員同盟の会長さんは元首相の中曽根康弘さんだ。
原発推進の一番の「恩人」も中曽根康弘さんであることは、知る人ぞ知る明々白々な事実であるから、
自分のタバコの不始末で大火事を起こしておきながら、消防車が来るのが遅いと怒鳴り散らしている理不尽なオッサンみたいに中曽根さんが見えてくるのだが、そう思うのは私だけであろうか?
「中曽根康弘」さんと「原子力発電」推進の関係について知らない人は、この2つの言葉をキーワードにしてネットで検索されたら良い。
ザクザクといろいろ出てくるから。
さて「非常事態」に即応できる「法律」を作ることそのものには反対ではないのだが、なぜそれが「憲法」でなければならないのか、私は頭が悪いので、「自民党憲法改正推進本部」の優秀な頭脳の先生方の考える理屈が全くわからない。
憲法に書き込まなければならないほど重要なことだったら、 05年の自民党の憲法草案にも載せておくべきだっただろうが、
「非常事態」は起きてみなければ、「非常事態」があることすら認識できない実例を見せつけられているみたいで、
憲法に載せる云々よりも、電力会社の安全対策に対して云々すべき性質のものだろう。
「非常事態条項」を憲法に盛り込むことで「非常事態条項」をやたら使いたがるような連中が出てくることのほうが、はるかに心配だ。
平成版「統帥権」の復活とやらで、昔懐かしい気がしないでもないが、誰が「大元帥」をされるおつもりやら。
だいたいリーダーシップを「法律」で決めようと発想することがおかしい。
それよりも優れた人物をリーダーに選出できる仕組みを考えることのほうが先決だろう。
いじめられっ子に大型ナイフを持たせれば、イジメは解決するというのと同じような発想だ。
実に北朝鮮的な発想で、たしかに世襲のボンクラが指導者になっても「国家」は安泰だ。
現に北朝鮮などは年がら年中「非常事態」だ。
自民党憲法改正推進本部の皆様方の理想国家は北朝鮮なのか?
私は物覚えが、年のせいか、とても悪くなっているので、記憶違いなら喜ばしいことなのだが、
今の憲法では「国家」は「国民」に奉仕しなければならないと書いてあるところを
、自民党案では「国民」は「国家」に奉仕しなければならないと書いてあったような気がする。
もちろん調べればすぐわかることだが、基本がズボラな私は面倒くさがりなので、これ以上の追及はしない。
弾よけに
生めよ殖やせよ
国のため
と川柳に詠んで獄死した人が昔いたから、私のようなくだらないダベリも、「非常事態」のもとでは「国家」への反逆と見なされそうだ。
あの治安維持法だって、大正デモクラシーの真っ只中で、「共産主義」を取り締まるためだけに作られた法律だったはずだが、後に拡大解釈されて「国家」への批判と見なされた言論は全て取り締まられた。
だいたい「国民」が忠誠を誓わなければならない「国家」て何?
そりゃあ「国家」を私物化したがってる連中の既得権益と、「国家」にしか自分の存在理由を見いだすことのできない宗教的心情の共同作業でしょう、と言いたいところだ。
それが自民党というかつての「万年与党」の実態ではないのか?
だからいまだに「国家」に対する執着には並々ならぬものがある。
「将来」が不安だから、「過去」に戻りたがる人も出てくるわけだが、大事なことは百年前の日本を懐かしむより、百年後の日本はこれからも激変していくであろう世界の中でどのような位置を占めているのか、あるいは占めていくべきなのか、想像を働かせていくことではないか。
「国家、国家」とニワトリみたいに騒ぎ立てる人のタイプには、単なるえーとこのボンボンのひきこもりみたいで、「世界戦略」らしきもののヒトカケラも持っていないようなタイプは、けっこう多いような気がする。
ただ勇ましいだけなのが、かっこよく見えるのだろう。
だいたい憲法改正して、その後どうすんの?
アメリカをお手本にしたいのなら、アメリカの憲法をお手本にすりゃあいい。
アメリカでは憲法を変えずに修正と追加をするだけで200年以上やりくりしている。
アメリカの「自由と平等」は憲法発布後も100年くらい奴隷制度を続け、さらに100年くらい黒人差別を続けてきたウソ八百のシロモノだが、
この憲法を「古い」だとか「実態に合わない」だとか「現実に合わせよ」とか批判してきた人はいたか?
安倍元首相も、この古くて実態の伴ってこなかったアメリカ憲法を「美しい国へ」の中でとても賛美していらっしゃったが、
同じ憲法でも、日本国憲法は古くて実態の伴わなかったことが批判の対象となるらしい。
しかし、私は日本国憲法の「絶対平和主義」というバカバカしいくらいの理想主義は、200年以上前の「自由と平等」というアメリカ憲法のバカバカしいくらいの理想主義と匹敵するくらい、世界の歴史の展開の中で大きな意味を持つ存在になりうるものと思っている。
200年以上前のバカバカしい理想主義は、現代の「民主主義国」では誰もが否定しようがない当然の権利になっている。
国を愛する気持ちというのは、国が国民に対して誇れるような世界史的役割を果たそうと努力するところに生まれるものだ。
戦前の愛国心も世界の中の「強国」日本を国民が自覚していたからこそ生まれたものであって、愛国心の回復を「教育」だけで達成しようという発想は、単なる戦前回帰であり、日本の北朝鮮化しか意味しない。
日本国民として真の愛国心を育てたいと思うなら、100年後の世界の姿を見据えた日本独自の「世界戦略」こそ打ち立てなければならないのであって、
それを動かすエンジンともなるべきものは、アメリカの「自由と平等」と同じく、バカバカしいくらいの理想主義である日本国憲法の「絶対平和主義」ではないかと私は思っている。
世界経済のグローバルな展開は、一国のだけの経済政策の成功を想像することができないほどの経済環境の激変をもたらしているのであり、
将来的には金融通貨政策の世界的統一、最終的には経済に関して国家が持っているところの経済に関する主権の世界的統一まで進まなければ、待ち構えているものは世界全体の破局かもしれない。
ひきこもりナショナリストとは真逆の世界的視野こそが日本の指導者に求められている資質であるような気がする。
バカバカしい理想主義こそが世界における日本の存在のアピールであるとも私は思っている。
ところが憲法の「絶対平和主義」をバカバカしいと思っている自民党政府は、日本国憲法の理想を世界に宣揚する努力などまともにしてきたことがなかった。
私にしてみれば、自国の憲法を恥ずかしいと思うほうがよほど恥ずかしい。
真剣に理想を追求する日本外交を展開すれば、アメリカの憲法のように200年後の世界史の教科書で、日本国憲法が大きく取り上げられているかもしれない。
ただ勘違いしてはいけないことは、理想は高く持っても、行動はあくまでも現実主義的でなければならない。
自衛隊の強化、尖閣諸島の防衛、実にけっこうなことだ。
憲法はあくまでも「理想」を宣揚したもので、「現実」をおしつけるものでないことは、アメリカの憲法の歴史とちっとも変わらぬではないか。
現実主義的でない理想主義は笑い物にされるかもしれないが、日本を一番ダメにしているものは、理想主義者ではなくて、理想を持たずに現実的に行動することばかり心がけている、いわゆる「現実主義者」である。
「現実主義者」とは変わらぬこと、変えぬことを絶対と思い、理想を現実にひきずりおろし、現在を過去に引き戻すことを考えるような種類の人のことである。
私は「現実主義者」よりも「理想主義者」のほうに惹かれる。