http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%82%B9

『ウィキノミクス』という本の何章かを読んだ。『ピアプロダクション』とか『DIY』とか、注釈も付けない邦訳はヒドいんじゃないの?


コトラーの『新マーケティング原論』(翔泳社)も、『ケイパビリティ』なんて言葉を英語表記も示さずにカタカナだけってのはヒドい。ちなみに"capability"。ずっと「キャパビリティ」と思ってた(笑)。

http://d.hatena.ne.jp/fslasht/20080328#1206716012

↑同胞発見(笑)

名作とされている戯曲にはなるべく目を通しておこうという姿勢でいるが、今回、やっとベケットの『ゴドーを待ちながら』を読んだ。


やはり、この作品は多くの追随作を生んだので、いま読むと陳腐に感じられる。寺山修司の『さらば、映画よ』での主役二人のホモっぽさ、別役実の『部屋』は反復構造、唐十郎の『24時53分「塔の下」行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』なら夢現な感じとか、絶対影響受けてるよな。映画なら『恋はデジャブ』なんてハリウッド版ゴドーって感じか。


ところで、『ゴドー~』自体は、ベケットと同郷の先輩であるワイルドの『サロメ』の影響があるんじゃないかと思った。ゴドー=ゴッドだという解釈もあるらしいけど、そうだとすればなおのこと。私流の解釈だと、『サロメ』はニーチェが『悲劇の誕生』に書いたような、ディオニュソス的なものが疎外されて悲劇が成立しなくなってしまった近代を風刺した喜劇であり冒頭に”悲劇一幕”と銘打ってあるのはアイロニーであるということになるが、『ゴドー』はそれに輪をかけて喜劇的にしたという感じ。


『サロメ』のヨカナーンには一目惚れしてくれる美少女サロメがいるが、こっちはむさくるしい野郎だらけの世界だ。

小室直樹の『経済学をめぐる巨匠たち』(ダイヤモンド社)

木暮太一の『落ちこぼれでもわかるミクロ経済学の本』(マトマ商事)。


これらを読むと、ワルラス、ジェヴォンズ、メンガーによる「限界革命」というのが、経済学史におけるかなりの革命であったというのがよく分かる。だが、素人の口から出てくる経済学者の名前はいまだにスミス、マルクス、ケインズ。彼らは、本当は経済学者ではないしね(倫理学者や哲学者や統計学者だった)。

文学史における「古い順史観」を、このブログやテキスポでさんざん批判して、紀元=数直線(または座標)の原点をどこかに設定せよ、と書いたが、経済学史でも同じこと。アダム・スミスから始めたら退屈でしょうがない。限界革命以前と以後に分けたほうがいい。実際、経済学の呼称が「ポリティカル・エコノミー」から「エコノミクス」になったのも、限界革命のちょっと後、マーシャルあたりだとか。


でも、実は大学時代に「経済原論」の講義で、「近代ミクロ経済学」を習ったはずなのだけど、最初のほうに出てきた「限界効用逓減の法則」というのがあまりにも疑似科学的な感じがしたのでウンザリしてその後ほとんど聴かなかった(出席もあまりせず)。あの科目、必修だったんだけど、どうやって合格したのかも覚えてない(笑)。

最近、やっと「ミクロ経済学」の面白さが分かってきた。

マクロのほうは、上述の小室先生の本で、ケインズ(というよりサミュエルソン)を勉強したりして、ちょっと面白かったけど。


サミュエルソン自身が、マクロとミクロ、どちらから教えたほうがよいかという自問自答を著書の中でしていたのを思い出す。いわく、マクロのほうがお話として面白く興味を持たせやすい。いっぽう、ミクロは理論的な精緻さで学生を魅了することができる(だから、結局どっちもうまくいくはずだ)、と。

筒井康隆の戯曲です。


筒井さんはもともと俳優志望で、東の仲代(達矢)、西の筒井、と言われたとか。幼少のころからバーナード・ショーとか福田恒存の『キティ颱風』とか読んでたなどという述懐も読んだことあるな。


『シナリオ 大魔神』は、頓挫した企画の書籍化なのかレーゼシナリオなのか、よく分からんね。

『文藝時評』で、脚本家でもある筒井ともみの小説にふれたときに、そろそろ戯曲=文学、シナリオ=非文学という線引きも止めた方がいいんじゃないかと書いてて、ハメットやヘミングウェイのハードボールド文体を引き合いに出してたのが印象的だった。


『本の森の狩人』では、クノーのレーゼシナリオ『イカロスの飛行』の批評もやってる。そこでは何故か、「戯曲形式の小説」という表現で『イカロス~』を呼んでいる。

昨日(5月11日)の朝日新聞GLOBEでダナ・グッドイヤー記者による記事には、日本のケータイ小説こそが、アマゾンのキンドルが普及するであろう近未来にとって先駆的だと書いてある。

戦前の小津映画を初めて観た。サイレントだったとは。

しかし、田中絹代の顔以外は洋風だね。『お茶漬の味』の前半を思い出した。