池田純一が書いた『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』(講談社現代新書)を購入。何章か飛ばし読みしたけどかなり面白そうだ。今まで私なりにアメリカ文化について考えてきたことに通じるものがあると思う。
「メリケン情緒」 だよ、これこそが!
池田純一が書いた『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』(講談社現代新書)を購入。何章か飛ばし読みしたけどかなり面白そうだ。今まで私なりにアメリカ文化について考えてきたことに通じるものがあると思う。
「メリケン情緒」 だよ、これこそが!
堀江貴文が収監中に、「あの母にして、この子」みたいな記事を載せるのは、ヒドイんじゃないの?
小説というよりノンフィクションか?しかし、星一が白髪だらけの年齢になっているのに結婚もしてないようだから、新一(親一)が生まれてないころのことを(多少は)心理描写も交えて書いたわけだから、小説でいいだろう。前から読みたいと思ってました。「明治・父・アメリカ」も読もうかな
科理雄の野郎と同姓の方が亡くなった。
http://hiritog.blog111.fc2.com/blog-entry-260.html
歌道師範だそうだ。私のプロフィールの「例是道師範」は、こういう方がいらっしゃることは全く知らずに作った肩書きでした。何かの因縁がある かもしれないので、ご冥福を祈ります。合唱
マイバックページの話が出たのでついでに映画の話をいくつか。
今年に入ってからだと記憶してるが、念願のハル・アシュビー監督の「ハロルドとモード」を見た。カルト映画とされるニューシネマの隠れた名作で、なぜかビデオ化されたことがない。
これはやっぱり傑作で、ニューシネマは、一時は興隆を極めたのに、シネフィルみたいな人からは馬鹿にされ、おバカな一般大衆みたいな人からは興味を持たれないし、時代の徒花のように言われることもあるけど、誰がなんと言おうといいなあと思ってしまう。バッド・コートのルックスは最高だ。長身に似合わぬ童顔というとティム・ロビンズや香取慎吾が浮かぶけど、彼は本当に凄い。
ウェス・アンダーソンの映画って「天才マックス~」と「ザ・ロイヤル~」しか見てないし、私好みの世界を描いてる割にはノレなかったのだが、バッド・コートが主演で出てくるような映画が作りたいんだろうな、というのはよく分かる。ウェスの映画にバッドはゲスト出演してたっけ?「ライフアクアティック」のキャストに見かけたような記憶もある。ウェスが好きな感じを人間の形に集約させると、(若き日の)バッドのような姿になる。
清水宏の「風の中の子供」も素晴らしかった。ただ、ラストに子供が泣くのはダメだ。お父さん!お父さん!と、はしゃいで叫び続けるだけでも十分に感動できるのに、ラストでぶち壊しだ。子供というのはゲンキンなもので、父が戻ってくればただ嬉しいだけで、今までの溜まりに溜まった感情が噴き出して号泣、などということは、あまり無いと思う(それは大人の感覚だ)。その無邪気さの方が観客の涙を誘う。
山下敦弘が新作を撮るにあたって、スコセッシ監督デニーロ主演の「キング・オブ・コメディ」のビデオをマツケンに見せたという話を聞いて、はやく本作を観たいと願っていた。キンコメは、私の五指に入るお気に入り映画だからだ。
冷泉科理雄って奴が、twitterで、山本浩司さんに「リアリズムの宿」の思い出し笑いのシーンは、「キンコメ」のパプキンの漫談シーンなどと並んで「真似したくなる名シーン」のベスト3にランクインしてますと送信したら、お礼の返信が来て、フォローまでしてもらっていた。ちゃっかりした野郎だ。
「マイ・バック・ページ」は、脱力系と評される山下監督にしては、かなり力が入っている。「力み系」と言ってもいいくらいだ。手放しで傑作とは呼べない。五点満点なら四点つけてもいいけど、百点満点なら78~79点あたりか。しかし、新しさを感じたし、とにかく、観た後に元気をもらったので、それだけでもよしとしよう。
冒頭のウサギ売りのシーンで、髭モジャで長髪のキリストが就職面接するために背広買ったと言って、テキ屋と沢田が「そういう問題じゃねえだろ!」と声を揃えてツッコむくだりが、山下が帰ってきた!と喜ばせはするものの、インタビューでも自己模倣的になるような要素は極力封印したと言ってるくらいだから、その後はいかにも山下的と思えるようなシーンはあまり無い。しかし、それは好ましいことでもある。学生運動家をエリート・ジャーナリストの視点から見るという座標の取り方自体が、ありそうでなさそうな新鮮なものなので、山下映画だということも忘れて、マッサラな気持ちで作品に見入ることができた。学生運動というのは絵的にむさくるしいものになりがちだけど、そういうシーンが最小限にしかなかったのも、いいことだと思う。新聞社の雰囲気はずっと浸っていたいと思わせるほどイイ感じ。沢田に尊敬される先輩を演じた古舘寛治と、軽蔑される先輩を演じた某という俳優の、いろんな媒体で「昭和顔」と何度も評されている風貌が素晴らしい。山場と言うべき、赤邦隊と山本剛史とのコンゲームから自衛官殺害に至るシークェンスも素晴らしい。W山本(浩司と剛史)をいかにもこれみよがしにコメディリリーフとして使わずに、でもちゃんと笑えるようになってるのもイイ。山本剛史は、尾崎とか舟木を演じるとウザいキャラだけど、黙ってれば西洋風の正統派イケメンだと再認識させられた。
ラストの泣きが話題になってるけど、私は鑑賞中、「え?これで終わるのかよ」と心配になったけど、笑って誤魔化す瞬間でストップモーションになったので胸をなで下ろした。この終わり方はかなりの賭けだったのではないか。下手したら凄い陳腐なラストになったろうからね。最後の静止画にナレーションを入れるなら、「ごめん。”キチンと泣ける男”になれなかったよ」ってなところか。
劇場からの帰途、ジュリーの「カサブランカ・ダンディ」という歌を思い出した。「ボギー、ボギー、あんたの時代は良かった。男がピカピカのキザでいられた」という歌詞があった。アメリカン・ニューシネマのアンチヒーロー像というのは、だいたいこの歌詞のような認識から生み出されたのだろう。ジュリー自身も「太陽を盗んだ男」や「ときめきに死す」などでニューシネマ的な犬死にを遂げてるしね。しかし、山下や向井らの世代にとって、アンチヒーローと呼ばれたニューシネマの主役たちは、「普通に」ヒーローだったのではないだろうか。銀幕ファンにとって、ボギーやジョン・ウェインや三船がヒーローだったように。
デニーロが演じたキンコメのパプキンや「タクシードライバー」のトラヴィスのような狂気のキャラであれ、作中言及されたニコルソンやホフマンの「泣く男」たちであれ、アンチヒーロー的男性像であることには変わりない。山下や向井はこう歌いたかったのだろう「デニーロ、ニコルソン、あんたの時代は良かった、男がクレイジーなアンチヒーローでいられた」
マツケンが演じた梅山は、たしかにパプキン的だけど、「どうだ、このキャラ、面白いだろう?」という感じでは撮ってない。むしろ、山下や向井にとって「すでに通過されて、類型化されたもの」として描かれていたように思えた。(それでも、逮捕後に、煙草を吸うことを許されながら偉そうに取り調べに応じる梅山は、悪魔そのもののように見えて、新鮮だったけどね)
妻夫木が演じたのは、イージーライダーにもキングオブコメディにも、ましてやタクシードライバーにも(笑)なれなかった男だ。山下や向井は、そういう男を同時代的な目線で描いた。そして、ボギーになれなかった男たちがニューシネマを創ったように、サイバーニュウニュウというバンドも輩出した大阪芸大出身の彼らは、「ニュー・ニューシネマ」的ヒーローを生み出してくれるかもしれない。そんな期待をさせてくれる一本であった。
ただ、マツケンと妻夫木の意気投合のシーンはもう少しなんとかならなかったものか。宮沢賢治とCCRが好きということで梅山を信じてしまったということの演出は平板であったと思う。「雨を見たかい」を歌うところなんて、二人を真横から撮ってるだけなんだもの。「リンダリンダリンダ」の、女子高生たちがカセットテープの「リンダリンダ」を聞いて歌い出すシーンでは、人と人を結びつける触媒としての音楽の魔力を見事に描いた山下だけに、あのシーンみたいに観客も自然に体を揺すってしまうような名シーンを撮ってほしかったな、と。それが10点減点の理由。
あと、女優の扱いもノッペリしてた。グラビアモデルのあの娘は、「泣ける男が好き」って台詞のために出てきたようなもんだし、あとはやや冗長なのでもう少し短めにするか、事務所の都合で出番を長くしなきゃならんのなら、自衛官殺害事件に焦点を当てた時点で割愛されてしまったという当時のサブカル描写を、沢田と彼女が街を歩いてるシーンなどを挟んで、彼女の目線から時代を語る、とか、そういう風にしてほしかった。「私って普通?」とかいう自意識過剰な台詞をいう場面とか要らないから。
赤邦隊の女二人も、知らなかったけど、そこそこキレイだから、売り出し中の女優なのだろう。アジトの四畳半に住んでるような役だから、着てる服とかも殺伐としたものなのが残念。だから、山本剛史を罠にかける高級ホテルのシーンの前に、そこにふさわしくドレスアップして見違えた、なんていうシーン(口紅を塗ってるところとか)、彼女たちが大写しになって観客の目を惹く一瞬があってもよかったかな。とにかく、なんか出てきただけって感じがするのだよ女優陣は。映画評論家になった後の沢田を飲み会に誘う編集者の女もそうで、先ほどのグラビアモデルに対比するような形で、1979年のカルチャーをその女の目線で語ることによって、10年の月日の流れを表現するとかの工夫がほしかった。グラビアモデルと歩く1969年の東京はサイケデリックでけばけばしい街並み、編集者と歩く1979年の東京は、なんとなくクリスタルな(田中康夫は、あれを70年代後半の総括として書いたのに、80年代前半を先取りした小説のように受容されて心外だったという)街並み、まさにモーレツからビューティフルという時代精神の変化を視覚的に表現してほしかったなと。女は時代を映す鏡なのだから。とにかく、女優の扱いがいまいちってことで、もう10点減点。
あとの数点の減点は次のような些細なところ。
沢田はジャーナリストなので、字を書いてるシーンがあったらよかったし、昔の映画やドラマにはやたらとあった、印刷機が回ってる映像に見出しがかぶるとか、ああいうのの再現が見たかった。
三浦友和のシーンも「新聞がそんなに偉いんですか?」「偉いんだよ」の即座の返しは良かったけどその後が陳腐だった。「跳ねっ返りが。うちは学生新聞作ってるんじゃないんだぞ」というのは、台詞としてはありふれていると思う。沢田の言葉の反撃、三浦との言葉の応酬が見たかった。たとえばこんな風に。
上司「跳ねっ返りが。うちは学生新聞作ってるんじゃないんだぞ」
沢田「すみません、忘れてました、うちは、『学生新聞』じゃなくて、(嘲笑的に)『ただの新聞』を作ってたんでしたよね?」
上司「・・・・・減らず口が。社史でも編纂するか?東大出ならさぞいい歴史が書けるだろうな」
沢田「・・・・・」
上司「”サジは投げられた”、なんてことになる前に、頭冷やしとけ」
沢田「”サイ”でしょ」
上司「・・・・(舌打ちして去る)」
とかなんとか。
あと、長塚圭史の演じるカラタニは、演説台で「諸君!」というところまでは撮ってほしかった。台詞よく聞いてないと、映像だけじゃ何やってるのかいまいち状況がつかめないから。(ようするにアジらせるためにカラタニをあそこまで運んだわけだよね、あのくだりは。いまいちよく分からなかった)
金網をカラタニが越えたのに沢田はこちら側で傍観してるだけという歯がゆさを表現したかったようだけど、その場合でも、観客には演説台にあがるところまではカラタニが見え、沢田には見えない。演説が始まると客にも沢田にも集会の様子は見えず、声だけが聞こえる、というようなやり方でもよかったんじゃ?「松ヶ根乱射事件」で、双子の片割れが交番のもう片方の警官に窓越しに必死に語りかけてるけど、警官は聞いてない、というようなすれ違いの表現があったけど、ああいうやり方を利用してもよい。「熱い運動家とそれを迎える仲間たち」と「それを金網の向こうで声だけ聞いて現実へ参加できない自分にいらだつジャーナリスト沢田」のカットバック、という具合に。
花村萬月が先月号の『文学界』で、「青」と題した随筆のような小説のような作品を発表した。かつて、たまたま古本屋で買った「笑う萬月」というエッセイ集に出てきた「細田君」という旧友についての話で、そのエッセイにも、この話はまた日を改めて書きたい、などとあったので、なんとなく期待していた。細田君は聴覚が異常に発達した社会不適応者で、清水健太郎のバックバンドに参加したこともあるとか。
しかし、前作に加わる新たなエピソードというのもあまり無いような気がした。
同誌同号では、山口二郎との対談で、柄谷行人が「イソノミア」という言葉を紹介していた。