レーゼシナリオ+イデオローグ=レナリオローグ

 

例是道師範の洋名。

 

イデオローグっていうのは、「思想家」と呼ばれる人たちのうち、俗流のほうに属する人たちをいうのだろう。アメリカのフューチャリストで言えば、トフラーはイデオローグ、ドラッカーは高級思想家(または学者)という感じかな。

 

レーゼシナリオの略称がレナリオ

 

自分としてはレナリオロジスト(レナリオ学者)を名乗りたいけど謙遜して「所詮、レーゼシナリオに関してのイデオローグごときでございます」と頭を下げておこう。

 

ちなみに、レーゼシナリオを書く作家をレナリストと呼ぶ。

また、和名(漢字語)で表現するなら、レーゼシナリオが「離像」、レーゼシナリオ作家が「離像書士」。

https://ameblo.jp/maruki/entry-12174253908.html

2008年から2009年頃の作品だというから遅ればせながらですが、園子温監督の「愛のむきだし」を見た。4時間という長さだし、タイトルはさほど惹かれるものではないんだけど、この監督の前作が「紀子の食卓」というなかなか良い作品だったのと、今をときめく満島ひかりが出てるというので、それ以外の予備知識をほとんど持たずに見た。

いや~、素晴らしい映画体験でしたね(DVDですが)。作品としては終盤にやや弛緩と失速が感じられるのがタマニキズだけど、登場人物たちのことを好きになってしまうので、そこも、まあ、許せる。

本題に入る前に、「紀子の食卓」の話をしよう。疑似家族とか女子高生の集団自殺のような、いかにも現代社会の病理を描いてみました、という「狙ってる」感じ、つまりアザトさがあった。(「愛のむきだし」にはそれが少ない)あと、この監督の目には一般人が外国人のように見えてるのではないか、あまり普通の人の生活のことを知らないんじゃないか、と思った。よく洋画での日本人の描き方の奇妙さ(現代生活の中にサムライ風生活様式が紛れ込んでいたり、中華風の音楽が使用されていたり)が話題になるが、まさに、そのような目で一般人を見てると思う。たとえば、娘二人が家出したときに母が自殺するくだり。ああいう時に女親はわりと気丈なもので、母が病弱という設定は自殺の不自然さを誤魔化すために取って付けたもののように思えた。自殺方法も不自然で、ジャックナイフで胸とか喉を切り裂くなんて、そんな自殺をするオバサンはいないよ。光石研も娘たちを捜して会えたと思ったらそのナイフを振り回すというのも変で、心中するつもりらしいのだが、そうだとしても我が娘に対してあんな風にふるまう父はいないと思った。あと吉高由里子ふんする妹もあんな可愛いルックスであんなにグジャグジャと面倒な独白をする少女はいないよ、と思った。あんな面倒くさい内面を持つ子がいたとしたら、それは間違いなくブスだ(偏見です)。そのあたりが違和感ありありだった。いっぽうでコインロッカーベイビーのつぐみは、リアリティがあった。とくに実の母と再会するくだりや、「薔薇が咲いた」のくだりは凄い。
この監督はパワーがあるので、先述したような小さな違和感も強引に押し通してしまう。


例是道   ~レーゼシナリオ論など-mukidasi


で、「愛のむきだし」ですけど、今回は普通の人間が出てこないので、そういう違和感は少なかった。でも、主人公が終盤に精神病院に入るという設定は承知してたが、彼のように愛と勇気に溢れるまっとうな少年がどんな風に発狂するかと思って見てたらマリア像の損壊がきっかけだったので失笑してしまったし、あんなに自由奔放な継母があの程度の新興宗教団体に簡単に手なずけられるわけないよと思ったし、ヒロインがサソリを錯誤するところとか絶対ありえないんだけど、今回もパワーで押し切った。まあ、もともと漫画的な感性の監督だと思うんで、リアリズムを期待するのも筋違いなんだけど。

影響関係の有無は作品評価とは関係ないんだけど、この映画を見て三つの映画を思い出した。ケン・ラッセル監督の「クライム・オブ・パッション」、つぐみ主演の「月光の囁き」そして、これはやや意外だろうけどキャリアウーマン系のロマコメ「ブロードキャスト・ニュース」だ。園監督はこれらを見たのだろうか?「月光」は見てるよな、つぐみを自作に抜擢したくらいだから。変態の主人公とその愛を受け入れるヒロインというのは「月光」とつながる。あとラストに流れる、ゆらゆら帝国の「空洞です」は、「月光」の主題歌スピッツ「運命の人」に似た曲だと思った。クライムオブパッションは、やっぱ聖と俗の交錯する世界ってことで分かりやすく似てる。ブロードキャスト~は、オープニングで三人の主要登場人物のそこまでの生い立ちを描くところと、片思いの相手が危険領域に深入りすることに対して警告するシーンが一番の見せ場であるところが似てる。

レーゼシナリオ論は大体書き終わった、ということは、何度か書いてきたはずだが、書き残したことがあった。テキスポに書くつもり。

ボールドウィンの「One day when I was lost」みたいな作品を、レーゼシナリオと呼べるかといった疑問が、未解決なままだったが、青リンゴの色は黄緑だけど、赤リンゴよりは青に近いから青リンゴと呼ぶのと同様、「文学的な名声を得た有名な作家が書いたが結果的に映像化されずに出版だけされたシナリオ」は、厳密にはレーゼドラマ的ではないけど、普通のシナリオよりはレーゼドラマに近いから、大ざっぱにはレーゼドラマ的シナリオで、転義のレーゼシナリオという風に考えることはできよう。本義じゃない、厳密には違うということはきっちり押さえておけば、文脈しだいでは、そういう用法もあり、というのならいい。


「色即ぜねれいしょん」と「川の底からこんにちわ」という邦画の最近作二本を観た。一本目は脚本が向井康介、もう一本は石井裕也が脚本・監督で、両者とも大阪芸大卒の映画人による作品です。前者の「文化系」とか後者の「中の下」とか、要するに冴えない自分をどう肯定するかみたいなところに力点が置かれてるのが共通項だけれど、ラストに「僕らの青春ノイローゼはこれから始まる」と言って終わる前者と、「頑張る!」と叫んで家族愛の強調で終わると後者とでは、やっぱり前者の方が鼻の先で一歩前に出てると思ってしまう。要するに、前者は「冴えない現状を肯定しきって(”世間”に勝って)」終わったのに、後者は「心を入れ替えて(世間に負けて)」終わったように感じられるからだ。
 主演は両者とも素晴らしい。前者の黒猫チェルシー・ボーカルくんの笑顔がいいし、後者の満島ひかりは美人なのに上半身が貧相で幸薄い感じが出てて、この手の「共感呼びそうな巻き込まれ女」(かつてのゴールディ・ホーン主演作とか、矢口史靖の初期の映画に出てきそうなタイプ)にピッタリくる。

 カート・ヴォネガットの小説「スラップスティック」には、安易に使われすぎて虚ろになってしまった「アイラブユー」という言葉の意味を回復するシーンが書かれていた。医大を卒業した主人公が姉と再会するくだりである。「川の底から~」も「頑張る」という言葉を復権しようと思って、あえて無気力なヒロインに叫ばせてみたのかもしれないが、「スラップスティック」のように見事には成功してなかったような気がする。たとえば、あの、やることなすこと偽者っぽい彼氏が、娘の運動会で「ガンバ!」なんてガッツポーズきめてる横でウンザリしてるヒロイン、なんていう伏線があればもうちょっと伝わったかもしれない。
 遺骨を投げるラストは映像的に良かったけど、「貴方のこと好きになりたいのに」とかなんとか、頭でっかちな台詞がイヤでした。

 世界そのものをよそよそしく感じているヒロインがちょっとずつ現実との接点を持ち始めた、ということを表現したいのだろうけど、そんなものは映画で観たくないんだよ。

レーゼシナリオの略称としてどう?ミレニアムと同義で「ミレナリオ」という語があるけど、丁寧に「御レナリオ」なんてね

 

映画シナリオ形式の文芸っていうことを思いついて、レーゼドラマ+シナリオってことでレーゼシナリオって言葉があればいいなと思ってて、「現代用語の基礎知識」附録のカタカナ語辞典などをみても載ってないから、そんな言葉ないのかな~と思っていて、たまたま「旺文社カタカナ略語辞典」を見たら載ってた。それがちょうどミレニアムと言われてた西暦2000年の話。

 

↓レナリオ・ワシントンという犯罪者とは無関係。

https://www.wfaa.com/article/news/crime/accused-teenage-serial-rapist-indicted-capital-murder-dallas-woman/287-58f541ac-73f2-4ef8-af38-523b0d08696d

 

  香川照之が父との積年の確執の果てに歌舞伎界入りするんだとか。

しかし、母・浜木綿子のほうに引き取られたからといっても、梨園の血を引き、母も有名女優で、おまけに東大まで出てるというサラブレッドぶりなのに、日中合作映画「鬼が来た!」で注目されるまで、彼がVシネマを主戦場としていた、ということのほうが不思議だ。中山秀征ごときがサザンの主題歌で「静かなるドン」というマンガのドラマ版で視聴率を稼いでた頃に、彼はそのVシネマ版の主演だった。まさに貴種流離譚を地で行く男だ。

 で、その香川照之が主演と助演を演じる二本の評を書きます。


①「トウキョウソナタ」黒沢清監督、小泉今日子共演 71点

 すでにいくつかのレビューで言われてるけど、役所広司が出てくるあたりから急速に劣化する。そこまでは現代調のシビアなホームドラマという感じで素晴らしいのです。ショッピングモールで清掃している香川となぜか家から遠いその場で買い物してる小泉が出くわして、香川が「違うんだ!」と言って去るところは大爆笑。その後ジャッキー・ブラウン風に「三時間前」と字幕が出て、自宅の強盗騒ぎ。そこまでは本当に素晴らしかった。ところが覆面かぶった強盗が誰かと思ったら役所広司。萎え~!って感じだよ、まったく。それがまた武田鉄矢のようにウザい演技。強盗が、他の俳優だったらもっと好印象だったのに、あそこでブチ壊しだよ。
 小泉が自宅で縛られている絵とか、逃げようと思えば逃げられるのに自分から率先してさらわれる風なのとか、小屋で強盗に唇を奪われる際に抵抗するのを明らかに途中で止めている風なのとか、艶っぽい小ネタが多々あるのに、相手が役所じゃ、萎え~。セクシーさが削がれてしまうのだよ。小泉と役所の顔の大きさの違いもセクシーさを削ぐ一因だ。笑っちゃうから。あの二人が性交渉を結んだかどうかがどうでもよくなってしまうくらい役所広司が無粋でどうしようもない。もう少しセクシーな俳優だったら、いろいろ邪推しながらラストシーンのお受験で旦那と並んで座ってる小泉を観ることになるので、エロティックな感興が湧くのに。小泉が光を見失ったとか言って泣くくだりも要らない。閉塞感は、強盗が「海の向こうに俺には何も見えない」と言うくだりで十分表現されてるので、似たようなこと繰り返さなくてよろしい。あの強盗のエピソードには、可笑しみが漂うのはいいんだけどそれは艶笑的な可笑しみでなくてはならない。役所の巨顔に笑うんじゃ意味がない。

 あと、次男が、家出中だという喘息持ちの子につきあっている間に、自分の方が家出してしまう、というのは、やや唐突で分かりにくい。前半で教師をやりこめてクラスメートから「おまえは革命家だ」と賞賛されるシーンが伏線としてあるくらいだから、大人に捕まった喘息持ちが「俺の代わりに逃げてくれ!」とか懇願するような表現があったらもっと分かりやすかったと思う。家出なんだから自分が捕まっちゃったら論理的には何の意味もないんだけど、感情的にはよく分かる。つまり、香川の次男は、友達から見たら「自由の体現者」で、友人から依託されて、囚われた彼の代わりに家出する、ということなのだ。

 他では、小泉と長男の「離婚しちゃえよ」うんぬんの、ぎこちないやりとりはいかにも小津調で心地よかった。

 私はこの映画の結論部分が好きじゃない。閉塞感に囚われて逃げ道なんかどこにもないと悟った大人が子供のお受験に希望の光を見いだすなんて、そんな話わざわざ映画で見たくないよ。この映画が念頭に置いているであろう小津映画の諦観とそれは似て非なるものだと思う。しかし、黒沢清が巧い映画作家なのは認める。役所さえいなければ満足度高かったのに。

 井川遥と小泉は結構似てると思った。だから、次男が井川に一目惚れするのは、時々言われる「男は母親似の女に恋する」という説を意識してのことなのか?外人が観たら区別が付かないんじゃないの?とも思った。井川が離婚する話がその場限りで終わって何の展開もないのは何故か?あと、次男が拾ってくる音の出ないキーボードにもうちょっと役割を果たして欲しかった。

 ホームドラマとしては、長男と次男の兄弟関係があまり描かれなかったのも、ちょっと残念。

 あと、ラストのお受験で次男がドビュッシーを弾くところを長々と全曲分撮ってるのも、ちょっと冗漫な気がした。息子の成長に感極まっているであろう両親の表情さえ撮れれば十分なんだから。山下敦弘監督の「リンダリンダリンダ」では2曲完奏するけど、アップテンポなポップスだし、そもそも映画全体で本番のための練習が壮大な前フリになってるから、二曲やっても冗長な感じはしない。だけど、本作の次男坊は「天才」なのだから、練習もしないでいきなりドビュッシーを弾く。達成感もない上に、緩いリズムの曲だから眠くなるし、「子に託す未来」みたいなダサい主題が透けて見えるから、あんまり長々やってると心が離れていく。最後に椅子を片づける音でエンドロールというのも、気取りすぎと思う。ドビュッシーの途中で画面が暗くなってエンドロール開始、そして、曲が終わって椅子の音というならいいけどね。それで、エンドロールが終わったところで、いかにも黒沢清的な「そう来るか?」っていう絵が、最後にポーンと出て完了というのが欲しかった。たとえば「ドッペルゲンガー」のエンディングだったら、発明品をバラして海に捨てて、車に積んだ札束入りトランクを出して、役所と永作博美が見つめあったと思ったら、次の瞬間には、夕日に向かって去っていく二人の後ろ姿の遠写が来るっていうのは、話の流れ上は別に唐突じゃないんだけど、そのショットの次にこのショットが来るとは!という映像的な驚きがある。清のファンなんてだいたいそういうことを目当てに観てるんだろう?だから、それをやってほしかった。

 さて、その井川と香川の「イカガワしい」?コンビが助演する、西川美和脚本・監督の「ディア・ドクター」の評を書きます。


②ディア・ドクター 西川美和監督・脚本 笑福亭鶴瓶主演 59点

 邦画の悪い癖で、田舎のキレイな景色を撮ることに力を入れすぎでその分テンポが緩くなった。2時間を超える長さは、この内容には要らない。あと15分くらいは削れたろう。

良かったシーンはやはり、香川が刑事に、(偽医者があんなに頑張ったのは)「やっぱ愛ですか?」とからかわれたときに、気絶するフリをして、思わず助けた刑事に「僕のこと愛してるんですか?」というくだり。面白い。

 あと、結局、映画の中で推理の焦点になるのは、偽医者が誰なのか、ではなく、彼が姿を消したとき、どんな様子だったか?というところにある、というのが、なかなか渋い狙いで、良かった。

 映像的に冴えてたのは、階段みたいな形のマンションに偽医者の親が住んでいて、刑事の電話の声とともに、クローズアップしていくところだ。

 偽医者の鶴瓶が研修医の瑛太に「僕は偽医者や」「資格が無いんや」と告白しても、瑛太はそれを文字通りに受け取らずに喩え話だと思ってしまうズレが生み出すユーモアは、おそらくトム・ハンクス主演の「ビッグ」で、ハンクスが恋人エリザベス・パーキンスに自分が子供だと告白する場面が元ネタだろう。「僕には家族がいるんだ」「やっぱり騙してたのね!?ひどいわ?」「違うよ、僕は子供なんだ」「ええ、そうでしょうとも!私だってついこの間までオサゲ髪の少女だったわよ!」「だから違うんだよ」ってくだり。ハンクスの方は「子供」を文字通りの意味で言ってるのに、パーキンスは比喩的な意味で捉えてしまう、というすれ違いが生み出す可笑しみ。

 キャスティングは、(鶴瓶以外w)西川監督みたいないかにも知性派美人が好きそうな面構えの人が揃って素敵です。瑛太、松重豊、井川遥、八千草薫あたりがそう感じさせます。監督はもしかして井川に自分を投影してるんじゃないだろうな、ふふふ、それはやりすぎだよ。

 この映画の製作日誌みたいな本(オフィシャル・ブックというのか?)も出版され立ち読みしたけど、そこに監督自身が描いた絵コンテが載っていて、ラフに描いてるはずなのに実に端正な絵で、西川監督って優等生なんだな、と思った。井川遥が故郷でアイスキャンディーを食べるために冷蔵庫の上部の冷凍庫を開けるシーンがあるんだけど、開けた扉の縁が画面の中心部に移動した絵に、よくもまあ、こんなアングルの絵がサラッと描けるもんだと感心しました。でも、実際に映像化されたそのシーンはあんまり面白くないのね。

 そういや何年か前、雑誌「シナリオ」に、監督デビュー作である「蛇イチゴ」の監督自身による脚本が載っていて、それも向田邦子ばりに端正な脚本で(”破顔”という語をそのシナリオで初めて知った!)、わざわざDVDを買ってまで観たのだが、映像化されたものは、やや迫力不足だった。ラストで妹が詐欺師の兄を罠にかけるところで、あんな風に物怖じしないで、したたかに騙し返せばいいのに、と思ってしまった。この人は、脚本家とか絵コンテとかキャスティングとか設計の力はあるけど、現場には向いてないのではないか。だから、カメラマンに仕切られちゃって、「邦画病」的映像になってしまうのじゃ?

 そういや、女優の唯野未歩子が脚本・監督を手がけた「三年身籠もる」というのも同様の印象を受けた。脚本は面白かったのに、映像になったものは迫力不足。いかにも知性派美人の作品という感じ。向田が監督やっても似たような感じになったかもな。女に監督は向かないとは言わないけど、知性派美人には脚本のみというポジションが似合うと思われる。思いつきか、偏見か?w

「トウキョウソナタ」にしても「ディア・ドクター」にしても、あるいは「アキレスと亀」にしても、もうちょっと短くても済むのに、尺を伸ばすのは、「ダークナイト」のような洋画も含めて最近(と言っても数年前。ちょっとは改善された?)の映画の良くない傾向だと思う。90分だとCM抜いた二時間ドラマが大体その長さだから、映画でその尺でやるのはもったいない。100分くらいがちょうどいいんじゃないですか。黒沢の後輩の塩田明彦の「月光の囁き」がちょうど100分でちょうど良い長さだな~と思ったもん。もちろん「チェンジリング」みたいに意味のある延長なら歓迎だよ。