教育原理



私は小学校から高校と、今日まで教師と関わってきたが、教師を教育される側の立場でしか見ていなかった。それは教師の表の部分である。教師は児童、生徒の見えない、影なるところでも教育をしていたのである。私は教職の授業を受ける前は、教師とは誰でもなれる職業だと勘違いし、安直になれるものだと思っていた。子どもにはただ勉強をさせ、授業をし、いい大学やいい高校に進学できるよう、または就職できるようサポートをする仕事だと思っていた。それは確かに教師の仕事の内ではあるが、教員免許の持っていない塾の講師だってできることである。教師はそれだけではない。教師とは、子どもの秘めた可能性を発見し、個性を引き出し、のばしてやること、未来の社会創造者となる子供たちの支えになってやらなければならないと思う。だから教師は学問を教えるだけでなく、子どもたちの教師になる前に、社会道徳を身につけ、生物の生命や人間のことを時間と空間で考えなければならない。

私は、教職の授業で、社会は一人ではなく、一人一人が集まった共同体であることを再認識した。一人の人間がわがままを通し、周りの人間、社会の流れをみだす。電車ひとつにしても、一人のおじさんが駆け込み乗車をしたせいで、扉が二度開いたとすると、電車は数十秒出発時間が遅れてしまう。その数十秒は電車に乗っている人全員に迷惑かけ、朝のラッシュ時に行えば、後続の電車まで影響を及ぼす。駆け込み乗車は危ないし、他の人の時間を奪うような事をしてはいけない。社会はいつも誰かと、それも見たことも、会ったことの無い人とも繋がっている。だから一人の傲慢で流れがくるう。自分が行いをすると、次に何が起こるのか、周りにどんな影響を及ぼすのか、常に想像できるようにならなければいけない。確かに私は、自分さえ良ければ何でもしていいと、思っていた節があった。自分の視点からものを見ることしかできなく、客観視が出来ていなかった。早いうちに想像力を身につけなければならないだろう。

ところで、社会の流れをみだす話を逆に考えれば、一人が相手の気持ちにたって行いをすれば、社会はもっと流れを良くするのではないだろうか。例えば、財布を拾ったら警察に届ける、人がふでばこをぶちまけたら拾い集めるのを手伝ってあげるなど、落としたものを拾うことはたいした時間でもないが、拾われた側はとてもうれしく感謝の気持ちがでて、次に他の人の助けをしてあげるだろう。つまり困った人は助けるということが当たり前になり、それが常識モラルになるんだと思う。

社会は循環していて、自分はその中の一人であること、そして社会全部に影響を与えられることを知った。だから客観的に想像できることが必要で、社会をみだす人は教育者になるべきではないと思う。社会を理解し、子どもに社会の一員であること、空間を感じてもらうことを教えなければならない。

原理とは根底で基盤であり、例えば木でいう幹である。普遍であることが前提で、従わなければいけない。だから教育という原理を教育者は理解し、間違ってはいけないと思う。教育は人が人に教え育むもので、教えられる側は常に教育者から与えられる影響に操作される。だから普通の人は間違いを起こすことはあっても、教育者はそれを許されない。教育者は時間と空間を教育するにあたって必要で、それを理解したうえで子どもたちを社会に導くのである。

私が思う時間と空間とは、人は生まれ死んでいく、その間時間が流れるとともに空間も広がる。空間は場所、人、物であり、無限に広がる。時間も空間も、次の人に受け継ぐ形となっている。

人間はいろいろな人と出会い、ときにはいざこざがあるけど、その困難を克服することを通じて成長する。また、自分を主張したりがまんしながら、人との付き合い方、交じり方を身につけていく。人間の命、個性、存在は世界に二人とはない貴い存在であるから、いろんな人の個性の人間と力を合わせて、社会を構成している。人間は仲間との協力、共同を通じてはじめて、動物から人間へと進化して、生活する社会を広げることができた。そうやって、人間は進化をつづけてきたのである。自由と平和で、そして友愛に満ちた平和な社会をつくろうと、懸命に努力を重ねてきて、まだ途中段階である。その途中から、教育を受けた子どもたちは、歴史をきざんで行くのである。だから子どもたちには自分の命、個性存在を大切にすること、自分を尊重し、社会の中に自分がいることを自覚し、自分から社会をいい社会にしようと行動しなければいけない。

教師とは子どもに関わる職業だから、単純に子どもが好きだからではなれない仕事で、一生に影響を与えるという責任を持たなければいけないと思う。私にはまだまだ勉強しなければいけないことがわかったし、身につけなければいけない社会常識があったことをこの授業で学んだと思う。



今、見返すと宇宙だが先生は80点をくれた。