戦争と災害 | 手仕事人まるひげのブログ

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3月11日が近づくと、東日本大震災の時の、被災地の映像とかが、テレビに映されるようになります。

ロシアの侵略行為によって破壊されたウクライナの映像は、自分にはとても、この光景と重なります。

 

ウクライナでは、国際的に使用や開発が禁止されているはずの兵器が使われた疑惑があります。

さらにロシアの大統領は、核兵器をちらつかせて、世界を脅すかのような発言をしています。

 

これらの兵器は、災害と同じ状況を、人工的に作り出すために存在します。

それは災害の映像と、兵器で破壊された町並みなどの映像を見比べれば、一目瞭然です。

核兵器、クラスター弾、燃料気化爆弾などの大量破壊兵器、のみならずあらゆる兵器というものは、ほんとうに、こういう状況を作り出すために人間の生み出した、ほんとうに無益でバカバカしいものだと思えます。

 

 

核兵器が必要だという人が、世界で唯一の被爆国でもある日本にもいらっしゃいます。

災害との関連で考えるにそれは、「人工的に災害を引き起こす技術が人類には必要だ」と言っているようなものだと、自分には思われます。

近年、地球温暖化の影響によって、多くの災害を目の当たりにしているというのにです。

史上最悪クラスの原発事故が津波によって生じたというのに、です。

多くの人たちの生活を破壊し苦しめているものを、しかもより多くの人たちをさらに、しかも長期間苦しめるものを人工的に生み出し、それが必要だというのです。

 

核兵器について、「互いにけん制しあうことで抑止することが、現実には必要なのだ」という人がいるかもしれません。

しかしその”現実”は、”核戦争を恐れるあまり、一方的に侵略されている国を、だれも直接、手助けすることができない”ということです。

核戦争を恐れるあまり、一方的にひどい目にあってる国に対して、それを止めることができない、ということです。

 

それが今、ウクライナで起きている出来事です。

 

核兵器の存在は、それを有する国による一方的な侵略に対し、何もすることをできなくしているということです。

核兵器の存在は抑止力ではなく、むしろ暴力の行使を容認させるための威嚇力であることが、現実的に証明されました。

(もちろん、強力な兵器、強大な軍事力においても同じですが)

 

日本で核共有の議論をすべきだという人もいるようですが、「ウクライナは核を持たないから侵略を許したのだ、だからすべてに国が核兵器を持つべきだ」といったようなことで、説得しようとするのかもしれません。

けれどもそれは、アメリカの銃論争と変わりないことです。

アメリカ人は自衛のために銃が必要だといいます。

けれども日本に住んでいると、いかに銃が必要ないかが分かります。

日本に核が必要だというのは、日本国民にも銃を持つ権利を与えることが必要だ、というのと同じことです。

現実的に日本では、”日本国民がいかに銃を持てないようにするか”ということが問題視されます。

核兵器もそれと同じで、”いかに世界が核兵器を持てないようにするか”という議論が重要です。

(もちろん銃と核兵器は別物なので、「銃は狩猟などで許されているではないか」という議論は当たりません。銃はナイフなどと同じように使い方を選びますが、核兵器は大量破壊以外にその用途を選びません)

 

世界には様々な兵器が存在しますが、少なくとも人類が核兵器に見限りをつけることは、本当に必要なことであると思えます。

それが世界から他の兵器を無くしてゆく道を、作るのではないかとも思います。