心理学と地縛霊 | 手仕事人まるひげのブログ

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最近、心霊物の小説にはまった影響で、幽霊とかみたいなものの事について、書いてみたくなりました。

前に、心理学が魂界に踏み込んでゆくと、心霊現象に新たな光を当てることが出来るみたいなことを書いたことがあります。

いわゆる地縛霊について、この方向で光を当ててみようと思います。

 

シュタイナーが示した超感覚獲得のための訓練を積んでいると、それまで見過ごされていた、感覚の捉える微妙な知覚に気づくようになり、それを汲み上げ、表現できるようになります。

それはまだ、超感覚とは言い切れないものですが、一般的には目に見えないものを、感じとることが出来ます。

(だいぶ前に、発見した妖怪さんについて書いたことがありますが、それもこの感覚によるものです)

この感覚を使って、地縛霊という現象に、光を当ててみます。

 

地縛霊の出現するといわれる場所には、特有の雰囲気があります。

それはあまり気持ちの良くない場所で、気がよどんでいるような印象を受けます。

観察すると、空間全体の配置が、そのよどみを醸していることに気づきます。

 

このよどみは、感性がある人にならだれでも感じ取ることが出来るものなので、主観的なものであるとは言い切れません。

ただ、それをどのように見るか、どのように見えるかには個人差があるようで、いわゆる霊感の強いといわれる人の中には、それを地縛霊と視てしまう事が、あるようです。

(視えてしまう対象の像、姿は、視る人の感じ方によることが大きいので、不快感や恐怖が強いほど、その姿は恐ろしいものに、視えてしまうのじゃないかと思います)

 

人智学や神秘学を通じて、死後の人間の事を学んでいると、死者の霊が同じ場所に縛られているという事に対して、ほんとにそうなの?と思えてきます。

というのも死後の人間は、精神界に行く前の魂界の滞在を通して、地上的な生への未練を、脱ぎ捨てるからです。

(そのプロセスが、地獄として知られているもので、魂は時間を遡るように回帰して行き、子供のように純粋な状態に戻ってから、生まれる前の世界、いわゆる天国、つまり精神界へと戻ってゆきます)

特定の場所への執着も、時間を経て脱ぎ捨てられます。

これに対して、特定の場所の空間的配置の醸す雰囲気は、配置などを変えるまでは継続するので、そう言った雰囲気の事を、地縛霊とか言われているだけなのじゃないかと、思えたりします。

(とはいえ何事にも例外というのはあるので、地縛霊とか、特定の場所に霊がとどまっているといわれることについて、全否定することはできませんけれども。死後の魂が一定期間、執着のある場所にとどまっていることがあるかもしれませんし、強い想念が特定の場所にそれを刻み込む、という事があるかもしれません)

 

さて、地縛霊などが居るといわれている場所について、それが空間的配置によるものならば、その配置などをいくらかいじることで、その雰囲気を変えることもできるのじゃないか?と、思うことが出来ます。

それは実際に可能なようで、物の配置を変えたり、場の雰囲気を中和したり改善できるものを置いたりすることで、変えることが出来るようです。

このことはいわゆる風水のやり方を思い出させますが、他にも、その場特有の雰囲気をその雰囲気に即して何らかの線や形状などで描き、それを紙などに書いて貼ったりすることでもできるようで、これはいわゆるお札などを思い出させます。

事故の多発する場所等は、空間配置がヒューマンエラーを起こさせることが原因だったりすることがありますが、これを人間の感覚錯誤から魂の感じ方にまで踏み込むと、地縛霊を浄化する(あるいは場を清める)と言った方向に繋がります。

建物を建てる前の地鎮祭のような行事は、こういったことが認識できてくると、根拠があるように思えてきます。

様々な神事とかそうですが、こういったことを感じることのできる感性を持った人たちが、それを生み出したのだと思われます。

いつか、空間の配置が人の魂に与える影響が学問的にも認められ、研究されるようになると、「霊的に場を整える」と言われるようなことが、より科学的に、出来るようになるのかもしれません。

(都市計画とか建築に、応用できそうな気がしますが、それはきっと新しい風水であったり陰陽道だったり、するのでしょうね)

 

「トイレの花子さん」のような地縛霊も、学校のトイレの空間的配置が醸す特有の雰囲気が生み出すものと考えると、いろんな学校に花子さんがいても、おかしくないんじゃないかと思えますし、空間を改善すれば、居なくなってしまうかもしれません。

建物の長い廊下や、まっすぐに伸びた路地を、ものすごい早さで走り抜ける妖怪や霊みたいなのもいるそうなのですが、これも空間的配置によって醸される特有の雰囲気によって起こるものの例です。

(これらも空間の雰囲気を改善することで、変えることが出来ると思います)

こういう話をすると、霊や妖怪を信じたい人をガッカリさせたりしそうで、申し訳ないところではあるのですが…。

 

妖怪や幽霊や八百万の神々については、その存在の居る居ないを断言するのは、難しいなと思います。

それを感じる空間的な対象は主観的と言い切れませんが、それをどのように見るかは主観的です。

心魂的に意味を持つので存在すると言えますが、心魂的に意味を持てない人にとっては、存在していません。

ただ、それを共有することは出来、大勢の人の魂の中でその存在が共有されれば、それはより客観的に存在するようになるところもあり、いわゆるアミニズムの神々や存在(日本ですと八百万の神など)は、そういうものかもと思えたり、元素霊存在というのは、そういうものなのかとも思えたり。

(それは普遍的なものではなくて、無常なもの、移ろいゆくものに属しています。信心がなくなれば廃れるといった)

とはいえ自然世界はそもそも普遍的存在の表現なので、それに対して畏敬の感情を抱いたり、祭ったりすることは、ごくごく自然でまっとうな行為であると思いますが。

 

余談ですが魂界(アストラル界)が認識できるようになると、霊的だったりあの世的なものと言われていることが、ほんとにそうなの?と思えたりすることも、あったりします。

賽の河原で子供が親のために石を積み上げる姿は、生きている子供のひたむきな在り方に、見ることが出来ます。

(この場合、積み上げた石を崩している鬼とは、子供のひたむきさを認識出来ない大人です)

”うっかり霊に同情して優しくすると取り憑かれる”という話を聞きますが、アルコール依存症や薬物依存やメンヘラちゃんなど、アディクションの問題を持つ人に安易に関わると、本当にそういう目にあいます。

(”霊にとり憑かれた”みたいなことについても、仕事で精神科に係わる経験があると、統合失調症の急性期の状態や、解離と呼ばれている症状のことが、そう思い違いされてたんだろうな、と思えたりもします)

アストラル界での出来事が霊的な事だと思い違いされて伝わっていることが、けっこうあったりするんじゃないかと、思ったりすることがよくあります。

それがすべてだとは、思ってはいませんけれども。